「私、高校三年生ですから、今年受験です」 ユリはそう言ってから、自分の受けようと思っている大学の名前を告げた。音楽の専門科を持つ大学としては、国立で一番レベルの高い大学だった。そうした事情に疎い悠治でも良く知っている。なぜなら、父親もその大学の卒業生だからである。だが、それは黙っておいた。 「小さいころからピアニストになるのが夢で、練習はたくさんしました。いろんな先生について、いくつかコンクールにも入賞しました。それで、自分ではうまいつもりになってたんです」 「うまいよ」 という悠治の合いの手には反応せず、ユリは先を続けた。 「とにかく大学にさえ入れば、道は開けてくるって、みんなが言うんです。私もそのつもりで頑張りました。で、今習ってる先生から、大学受験はきっと大丈夫だって言われたんです。そしたら、気が抜けてしまって」 「なんで?」 ユリは少し考えるような顔をしたが、結局首を振った。 「分かりません。急に練習に身が入らなくなってしまって。なんだかピアノを弾くことがとてもつまらないことのように思えてきて、何日も鍵盤に触らない日が続いたんです。そのままレッスンに行ったら、とんでもないことになってました。下手になってるとかいう次元じゃないんです。ピアノの弾き方が分からないんです。驚きました」 ユリの語調が興奮を帯びた。そのときのことを思い出しているのだ。 「先生には病気なんじゃないかって言われるし、両親には叱られるし、何とか持ち直そうと思ったんですけど、弾こうとすればするほど、指がもつれて、十何年もピアノを練習してきたなんて嘘みたい。私は自分が何なのか分からなくなりました。ピアニストになるためにずっと頑張ってきたのに、ちょっと練習をさぼっただけでぜんぜん弾けなくなるんですから。家にいれば練習しなきゃって思ってピアノに向かいますけど、いくらやってもだめなんです。だから」 「家出したってわけか」 「ええ、気分転換のつもりで」 ただの気分転換にしては思い切ったことをするものだが、これも性格だろう。同時に計画的なやり口もある程度心得ているから、末恐ろしいしたたかさである。 「電車に乗って、この街に着いて、温かいものが飲みたくなったから喫茶店に入ったら、店の隅っこでピアノを弾いてる人がいる。調律も滅茶苦茶で、ひどいピアノだなって思いましたけど、すごくいい音楽でした。自由で、優しくて、ちょっと気難しい、ほんとに先生みたいな曲」 そういう照れくさいことをさらっと言ってのけるユリの神経が、悠治は苦手である。思わずにやけそうになったのを隠すために、そっぽを向く。しかし、ユリは悠治の所作の由来をちゃんと分かっているだろう。その証拠に、ユリは小さく声を立てて笑った。 「聴いているうちに、どんどん先生の音楽が好きになって、絶対この人にピアノを習いたいって思いました。先生、本当なんですよ。本当に、先生にピアノを習いたいって思ったんです」 「何度も言わなくてよろしい」 「それで閉店まで居座って、帰ってく先生のあとをつけて、家まで押しかけました。この人なら、ピアノの弾き方を思い出させてくれると思って。あとは、ご存知のとおりです」 「なるほど」 「ご迷惑おかけしました」 ユリは歩きながら深々と頭を下げた。思ったとおり、聞いてみればさほどたいしたことの無い理由である。これでまったくピアノが弾けなければ確かに問題だが、悠治はちゃんとユリがピアノを弾くのを聴いた。しかも、小さいころから音楽を聴き続けて、並外れて耳の肥えている悠治にとっても、悪くないと思える演奏だ。どうやら、彼女の思惑通り、ピアノの弾き方を思い出すことが出来たらしいのだ。 「大丈夫だよ。今朝聴いた君のピアノはとても良かった。これからまた上手くいくだろう」 「ええ、それはそうですけど」 とユリは返事をし、少し間をおいて言葉を続ける。 「自分の音楽って、難しいな。私、やっぱり先生みたいになりたい」 ユリの口元から白くため息が漏れた。その消えてゆく先に駅が見えた。ユリの足が自然とそっちに向き、悠治もそれに釣られている。どうやらここで別れることになるらしい。 改札口のそばまで来てユリは悠治のほうに向き直った。寒さで赤くなった頬を上げて、にっこりと笑っている。 「それじゃ。たった一晩だったけど、楽しかったです」 「ああ」 悠治のほうは笑いもせず、仏頂面のままぎこちなく返事をした。しかし内心はやはり、少し寂しかった。これっきりにするのは、惜しい気がされた。すると、悠治の心を見透かしたように、ユリが言った。 「また遊びに来ます。先生、寂しがりやだから」 返す言葉が無かった。こういうときに何も言うことができない自分が、情けなく思われた。ユリと向かい合ったまましばらく逡巡し、悠治はかろうじてこう口にした。 「自分の音楽を作りたいときはな、心の中から浮かんだ言葉を口に出しながら、それに合わせて鍵盤を叩くんだ。それがひとつのフレーズになる。たとえば……」 悠治は辺りを見回した。その首の動きに合わせて、ユリの視線も動く。悠治はすぐ近くの焼肉屋の看板を指差しながら言った。 「やきにく、とか、おさしみ、とか、にほんしゅ、とかでもいいんだ」 「食べ物ばっかりですね」 「たまたまだ。言葉からフレーズを生み出すってのが、即興演奏のひとつのエチュードだな」 ユリは納得したように頷いてから言った。 「それなら、もう言葉は決めてます」 照れ隠しのような悪戯っぽい笑みを浮かべて、悠治の顔を見る。はっとするほど愛らしい表情だった。その唇が、小さく動いた。 「好きです、先生」 ユリは飛びつくように悠治に近寄り、素早く頬にキスをした。悠治は憮然とした表情を崩さずに言った。 「先生はやめろ」 「じゃ、悠治さん」 「黙れ、さっさと行け」 すると、ユリはきびすを返し、すべるように改札口を抜けて、振り返った。手を振りながら、 「お仕事頑張って」 と大声で言った。周りを歩いていた人たちが、皆、こちらを向いた気がした。 悠治は気恥ずかしげに片手で追い払うようなしぐさをしてから、駅に背を向けた。また今日もピアノを弾かなければならない。しかし、自分の音楽は昨日までとは違っているだろう。そう予測して、戸惑いもすれば、嬉しくも思った。誰かを想ってピアノを弾くのも、たまにはいいものだ。 再びクラルテに足を向けながら悠治は、今夜、久しぶりに山陰にいる父に電話でもしようと考えた。
―了―
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