出勤時間が迫るまで、二人は無言で過ごした。ユリは台所のテーブルに座ったまま、ずっと物思いに沈んでいた。悠治は、この期に及んでピアノを弾くわけにもいかず、仕方がなく、居間と台所とのつなぎ目に椅子を置いて座り、レオシュをひざに抱えながら、イタリアの詩人の詩集を読んだ。しかし、活字の内容が少しも頭の中に入ってこなかった。悠治は、ユリがいったいなにを考えているのか気になってしょうがなかった。自分の長たらしい能書きを聞いて、ピアノを続けようと考えているのか、それともやはりピアノをやめようと思っているのか。泣き止んだあと、ユリの顔は真剣なまま硬直していた。自分の意志で動くことの出来ない、椅子やテーブルと、同化してしまっているかのように見えた。息をするのも忘れるほど、考えているのだ。時間は刻一刻と過ぎた。悠治は詩集の同じページを何度も読み返していた。まぶたの裏に活字がそのまま焼きつくほどに。そして、出勤の時間が迫った。 「ユリ、出かけるよ。用意して」 悠治は椅子から立ちながら言った。レオシュがひざから駆け下りて、ユリの足元まで近寄っていった。ユリはかがみこんでからレオシュの頭を撫で、顔を上げて悠治を見た。彼女はそのとき微笑んだ。悠治はその微笑の意図を測りかねた。 たった一つの手荷物のバッグを肩にかけ、ユリはブーツを履いた。敷居の上までレオシュが来ていた。 「留守番頼むぞ」 と悠治はいつものようにレオシュに向かって言った。いつもなら、そうしてすぐ玄関のドアを開けるのだが、今日はもうひとつ挨拶があった。 「じゃあね、レオちゃん」 とユリが笑いながら言った。レオシュは「はあい」と聞こえるような返事をした。 外は昨日よりも寒かった。北風が威力を増していた。向かい風が頬を撫で、悠治の高い鼻先が、体温を失って異物のように感じられた。悠治は隣を歩いているユリの顔を見た。ユリの頬は紅潮していた。強い風に眉をひそめながら、ユリもまた悠治を見ていた。二人はゆっくりと視線をそらした。次の瞬間ユリが口を開いた。 「私、実は家出してきたんです」 分かりきったことではあったが、ユリ自身が事情を話したのは今が初めてである。 「知ってるよ」 「言いましたっけ?」 「言ってないけど、これはどう考えても家出じゃないか」 そうですよね、とユリは独り言のように言った。しばらく沈黙が続いた。クラルテに向かう道のりが、少しずつ行過ぎる。街路に立つ木の、裸になっているのが目立つようになった。空は透き通るように青いが、どことなく白っぽさが混じっている。冬の空だ。息を吐くともやが生まれ、目の高さまで立ちのぼって消えた。 「どうして家出したか聞いてくれないんですか?」 ユリが言った。別に聞きたくも無かったが、聞く耳を貸すぐらいはするつもりだった。 「話したかったら、話せ」 少し間をおいて、ユリは再び口を開いた。
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