「やめるなよ」 悠治の口をついて出た言葉はそれであった。何を思ったわけでもなく、ただ反射的に、自分の体を強ばらせている恐れを避けるように。後に続く言葉が思いつかなかった。しかし、口だけがどんどん滑った。妙に頭が熱い。 「俺みたいになっても意味無い。いくらピアノが弾けても、俺は一人なんだ。それがあたりまえで、寂しいとさえ思わないんだ。これがどういうことか分かるか。一人で生きることが寂しくないと思えてしまうことの寂しさが分かるか。俺は……」 知らず涙がこぼれそうになり、悠治はユリに背を向けて、流し場に手を突きながら、静かに言葉を続けた。 「親父がピアノをやめた日から、ずっと一人でピアノを弾いてきた。ただ、自分のためだけに。それが仕事だとしても、俺は客のために弾こうだなんて考えたことが無かった。それでいいと思っていた。俺が愛するのは、ピアノと、猫だけだ。そう決めてたんだ。だから人間と関わるのがうっとうしかった。人間なんて、みんな裏切るからな。君に対してもそう思った。だが、俺は君のためにピアノを弾いてしまった。俺はそのとき、一人で弾いているときにはなかった喜びを味わった」 取り留めの無く、言葉が次から次へと出てきた。それは悠治の率直な感情そのものだった。 「君はそれを感じ取らなかったか。君のおかげで、俺は喜びをもってピアノを弾けたというのに、君はそのせいでピアノをやめるというのか。何でみんなそうして勝手に見切りをつけて、俺を一人にするんだ」 「みんなって?」 背後からユリの声が聞こえた。父親の寂しげな顔が思い出された。悠治に音楽室を譲ったあと、決してピアノを弾かなくなった父親。しかし、悠治は父親のピアノの演奏を愛していたのだ。また、ピアノを弾く父親の姿を愛していたのだ。もう二度とピアノを弾かなくなった父の姿を見る悠治の心にも、父親の寂しさと同じか、それ以上の寂しさがあったのだった。悠治はピアノをやめるわけにはいかなかった。なぜなら、自分のせいで父親がピアノをやめてしまったのだから。そして、ユリもまた、同じように悠治のせいでピアノをやめようとしている。それが耐えられないほど苦しいのだ。 悠治は父親のことは言わなかった。言えば悲しみのたがが外れてしまいそうだったからである。悠治は涙を拭き、落ち着きを取り戻してから、言った。 「君はピアノを弾き続けなさい。それはすべての人に許された権利なんだ。うまいとか下手だとか才能があるとかないとか、そんなことはどうでもいい。音楽でも、音楽以外の何物でも構わないが、誰でも自分の好きなことをやり続ける喜びを、追い求めるべきなんだ。ましてや」 悠治は振り向いてユリを見た。ユリはまた肩を震わせて泣いていた。つくづく、自分はこの子を泣かせてしまう性質らしい。それともこの子が泣き虫なのか。どちらにせよ、そうあるべくしてそうなのである。 悠治は言葉を続けた。 「俺が人の喜びを奪ってしまうなんてことを考えると、死にたくなる。頼むから、やめるな。やめてもいいが、俺のせいでやめるのだけはやめろ」 言葉を選ぶ間もなく、そこまで言い切ると、悠治は短いため息をついた。またしばらくユリを泣かせておかなければならない。昨日の夜から一緒に居たに過ぎないのに、もう慣れっこになったような気がした。
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