ピアノが、ぽつりと一言何か喋ったように聴こえた。実際には、悠治の右手が無造作につむいだたった四つの音からなるフレーズが、音楽室に響いた。ほんの数秒、消え入りそうな間があって、遠ざかる音の中から示される言葉を、想念を、悠治は聴き取ろうとする。目を閉じて心を沈めて、何と答えるべきなのか、自然と指が動き出すのを待つ。すると、左手が四つ音を打った。それはすでに右手から放たれた、もう少しで消え入りそうな響きに後から追いついて、美しく調和した。すると、別々の手から生み出された二つのフレーズは、緻密に絡みつき、永遠に響き続ける力を得たように思えた。悠治はここで新しい音楽の尻尾を掴んだ。右手が再び語り始めた、今度は一言だけでなく、少し長い言葉。すると左手が、答える。少し不器用に、戸惑いがちに、だが、しっかりと右手の生み出した言葉に応じて、相応しい響きを与える。まるで右手と、左手とが、別々の人格を持っていて、引き合ったり、離れたり、絡み合ったり、同じことを口にしたり、まったく別のことをつぶやいたり、支えあったり、争ったり、およそ、人間同士のやり取りのすべてを、悠治の両手がつむぎだせるように思われた。豊かな感情と、それを包む限りない優しさとに満ちた音楽であった。悠治自身、驚いていた。今までに無い感覚を味わっていた。自分自身の内の愉悦や、葛藤、あるいは虚無、感動を、勝手気ままに一人で表現し続けていたときとはまったく異なる音楽が生まれたのである。指は決して止まらなかった。それどころか、決して見失われることの無い、音楽に次ぐ音楽は、だんだんに膨れ上がって、抑えきれなくなりそうであった。右手と左手は、いまだ別々の人格を与えられていながら、しっかりとひとつの音楽を創り上げていた。穏やかで、喜びに満ちた調和であった。音楽のつくりは時に複雑だったが、表現される感情はあくまで率直だった。それでいて、決して高ぶらず、聴く者の心に寄り添う優しさを忘れなかった。不思議であった。これまででも、自分の思ったとおりにピアノを弾き、そうして生み出した音楽に満足してきた。しかし、この音楽が与えてくれるものは満足どころか、とどまるところを知らない喜びのように思われた。全身が熱っぽくなり、後頭部が痛いほどに痺れた。理性を保っていられるぎりぎりのところで、悠治の指は、否、音楽は、音楽を生み出し続けた。 それは、時間にしてみればせいぜい五分足らずの出来事だった。右手と左手が最後に声を合わせてつぶやいた。音楽のはじめに放たれた美しいフレーズを、ユニゾンしたのだった。そして、響きは遠ざかっていった。しかし、それはただ単に遠ざかっていっただけで、消えることなく、この世界のどこかで生き続けるのではないかと思われた。しばらくの沈黙のあと、悠治は、自分が役目を終えたと感じ、鍵盤から指を離した。すると全身から力が抜けて、立てなくなりそうな気がした。 深い息を吐き、痺れきった頭が感覚を取り戻し始めたのを覚えながら、悠治はユリのほうを見た。ユリはうつむいてしゃくりあげていた。白い頬を涙が伝っていた。悠治は慌てることなく訊いた。 「どうしたの」 ユリは涙を拭きながら、顔を上げようとした。が、出来なかった。次から次へとこみあげてくるものに、対処しきれないという風だった。何か言葉を口にしようとしても、嗚咽によって邪魔されてしまうのである。正気を取り戻し始めて、悠治は少し弱った。またこの子を泣かせてしまった、と思った。しかも、今度はいっさい演出はなく、彼女は自分の涙をコントロールできない様子だった。いったい何がそうさせたのかは分からない。しかし、自分の生み出した音楽が、ユリにとって刺激が強すぎたのは確からしい。 ドアの外から、かすかに甲高い笛の音がした。火にかけた薬缶が鳴っているのである。 「朝飯にしよう。コーヒーでも飲んで落ちつきなさい」 言いながら悠治は椅子から立ち、いまだ泣きじゃくっているユリの肩を軽くたたいた。
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