「他にも、何か弾いてよ」 見直したという気持ちと、詫びるような気持ちが、自然と語調を柔らかくした。悠治の言葉を聞いて、ユリはしばらく何か逡巡するような面持ちでいたが、やがて首を振って言った。 「だめです。出来合いの曲じゃなくて、先生みたいに弾けるようになりたいんです。朝、目が覚めてから、勝手に触って悪かったですけど、ピアノの前に座って、たくさん考えました。どうやれば、自分だけの音楽が作り出せるか。でも、見当もつきませんでした。旋律ひとつ、思い浮かびませんでした」 平静な喋り方だが、言葉の端々に悔しげな表情が見えた。ユリの態度はよほど真剣であった。それを見て悠治はますます感心した。同時に「音楽に対するユリ」という人物に並々ならぬ親しみを抱き始めた。それで、自分が普段楽しんでいる音楽のやり方を思わず教えたくなった。 「それはね、頭で考えてもだめなんだ。音で考えるんだよ」 「音で?」 ユリは不思議そうな表情で悠治を見た。 「そう。頭で考えるのは自我だよ。自我はしばしば自然に反する。だから自我が生み出した音楽はしばしば不自然なものになる。自分の音楽を考えるとき、頭で考えてはいけない。体の中から自然と発する音に耳を傾けるんだ。これは原則だ」 ユリの表情が不思議というより、訝しげに変わった。自分が聞いたことも無い言語を聞いているような顔をした。理解できない部分があるのは無理も無いことだ。この原則自体、頭で考え出したものではない。長年、即興演奏を続けてきて、培った感覚を言葉で説明しようとしてこうなったというだけの話だ。だから、この感覚を知っているものには理解できるし、この感覚を知らないものには理解しづらい。そういう経験の無い頭脳には、想像がつかないのである。 悠治は言葉で説明することをすぐにあきらめた。音楽を説明するのに、いくら言葉を用いても不十分なのだ。言語に無いニュアンスが音楽にはあるし、音楽には無いニュアンスが言語にはある。それぞれが表現するものを、完全には互換しきれないのである。音楽は音楽でもって説明するのが一番である。 「代わって」 悠治はユリをピアノの前から立たせて、代わりに自分が座った。 「言葉だけでは、きっと君には理解できないだろう。だから、手本を見せる。俺はいっさい頭で考えない。体の中で聴こえる音だけに忠実に演奏する。それを感じ取ってごらん」 そう言うと、悠治は深く息を吸いながら、ゆっくりと、力も無く開いた十本の指を、鍵盤の上に並べた。
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