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作品名:エチュード 作者:スクラトフ

第15回   15
 夢を見る間もなく深く眠ったあとの朝は、起き抜けも気持ちが良い。ベッドの上で自然と目が開いたころ、窓の外はまだ薄暗かったが、これはこのごろ日が昇るのが遅くなってきたからで、時計を見ると、いつもどおりの午前六時半である。寒い朝であったが、湿気は少ないらしく、ひんやりと心地よく冷たい空気が、部屋中を包んでいた。深く息を吸うと、体の中に涼しく酸素が満ちるのが感じられた。
 悠治はベッドのそばに丸めて置いたカーディガンに手を伸ばした。布団の中でそれに袖を通してから、体中を伸ばし伸ばし床の上に立った。何か重大なことを忘れているような気がした。しかし、それが何であれ、思い出すのは後回しである。顔を洗って、朝のコーヒーを飲むのが先決である。そうでなければ頭が働かないのである。
 二階の寝室を出て、階段を降りていると、かすかにピアノの音が聞こえた。それで悠治は、一瞬にして昨日の出来事に引き戻された。コーヒーを飲む以前に、思い出したわけである。今日、この家にいる人間が自分ひとりではないことを。
「あああ、そうだったなああ」
 頭をかきながら、苦々しくつぶやく。この時点から、今日一日の生活の調子が狂い始めた気がした。ピアノの演奏中に、予期しない音が混じったり、リズムを見失ったり、そうして曲調が上滑りしてしまったときの、きまり悪さに似ていた。悠治は、音楽は生活からの産物だという考え方をした。少なくとも、演奏する人の生き方が、音に反映されるのである。だから、生活が乱れれば、音楽も乱れると信じていた。悠治はそれを考えると堪らなかった。
 しかし、うんざりした思いで顔を洗っている最中、ピアノの音にはしっかりと耳を澄ましている。ユリが、自分より早く起きて弾いているに違いないのだ。単調なリズムの和声の刻みが穏やかに続き、その和声が時折崩れる。終始そんな感じだ。いったい何の曲だろうと考えて、すぐに思い当たった。悠治は台所でコーヒーのための水をガスにかけてから、音楽室に向かった。
 ドアを静かに開けて中を覗きこむと、果たしてユリがピアノの前に座っていた。昨日の緊張した面持ちとは打って変わって、リラックスした体つきと表情で、鍵盤と相対していた。ユリは悠治に気がついて、微笑んだ。一瞬演奏をやめかけたが、悠治が身振りで続けるように伝えた。
 穏やかな曲調とリズムは一瞬も途切れることなく、最後の音を押さえて延ばしつくし、音が途切れたあとも、リズムが刻まれ続けているような気がした。するとそのリズムが空気に溶け込んで、空気そのものが穏やかになるようだった。悠治は満足そうに微笑んで、言った。
「ショスタコーヴィチの24のプレリュードとフーガか。ハ長調は朝聴くのにいい」
 ユリは昨日の態度からは想像もつかないほど恥ずかしげに頭を下げた。悠治は内心、ユリを見直していた。ピアノを弾けるなんていうのは、半分は嘘だろうと思っていたし、弾けたとしても、習い事の先生が押し付ける面白みの無い曲ばかりだろうと思っていたからだ。
「素敵な弾き方ができるね。聴いててとても気持ちよかった」
 すると、ユリはますます恐縮したようにうな垂れた。それを見て悠治は、これは家のドアを開けたとき立っていたユリが、悠治にピアノの教えを請うたときに見せた態度だと気付いた。そして、少し反省しなければならないと思った。ユリは女の子としては手に余るほど捨て身でわがままだが、ピアノを弾くことにおいては、ナイーヴで謙虚で真面目なのかもしれないのだ。悠治は自分が知らず彼女を単なる厄介者だと決め付けてしまっていたことを、悪く思った。


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