変二調の幻惑的な和音を、両手でおずおずと押さえ、限りなくデリケートな音色で次々と重ねてゆく。目を閉じながら、悠治は明け方の雲の色をイメージしていた。夜と太陽の狭間で彩をひずませた空に、冬のちぎれ雲がゆっくり流れている。自我は大気に溶け込んで、山と海を下に見ながら漂ってゆく。これはイメージが先にあるのではなくて、何気なく押さえた和音が、悠治の脳裏にそういう情景を見せるのである。やがて、穏やかだった大気の流れは徐々に加速してゆき、不規則なうねりになり、激しい上昇と下降とを繰り返した。どこへ行くのか。和音は変二調を離れ、がむしゃらに不協和音を掻き鳴らす左手と、目まぐるしい右手のパッセージは、悠治の頭の中でとどまることなく空を飛び続けた。いくつもの島を越えた、大陸を越えた、海を越えた、しかし空は終わることが無い。悠治の音楽はその情景に果敢に挑み続ける。傍から聴けば、共感できる思想も、気分も、事実も無い、ただ取り留めの無い夢のような音楽である。そう、ただ自分のためにだけピアノを弾くとき、悠治は音楽を通して夢を見たのである。 十分ほどして、悠治は果てしないこの情景に立ち向かうことに限界をおぼえた。鍵盤を押さえる手を止めると、一瞬にして夢は途絶えた。沈黙して、ピアノの前にうな垂れた。いつまでもたどり着くべき場所を、見出すことが出来なかったのである。あるいは、どこへ向かうべきかを見失っていた。鍵盤に軽く指を這わせながら、今度はどこからアプローチし始めようかと探ってみる。それは目で見ても、考えても、分からない。研ぎ澄まされた指先の触覚が、ひとりでにその糸口を感知するのである。悠治の指が、ムカデのように、白鍵と黒鍵の上を蠢いた。音はなかなか鳴り始めない。まだ糸口がつかめないのだ。悠治は集中力をさらに深めようとした。 そのとき音楽室のドアが開いた。悠治は椅子から飛び上がるほど驚いた。その過敏な反応に、そばに居たレオシュも一緒に飛び上がったほどである。ドアのほうを見やるとユリがばつの悪そうな表情を見せながら、部屋を覗きこんでいた。悠治は大きく息をついた。 「なんだよ」 「あのう、シャワー借りてもいいですか」 「玄関から伸びる廊下の手前から二番目の扉が風呂場だ」 「どうも」 ユリは悠治の邪魔をしたのを察知したらしく、短く返事をしてそそくさと退散した。悠治は譜面台に両ひじをのせて突っ伏した。ひどく落胆していた。集中されていた気が一瞬にして霧散してしまったのである。振り出しに戻ってしまった。 気を取り直して再び鍵盤に指を乗せようとした瞬間に、またドアが開いた。さっきほど驚きはしなかったが、悠治は目をむいてそちらを見やった。当然、ユリだった。 「タオル借りてもいいですか」 「風呂場にあるから勝手にしろ!」 ユリは少し言葉を探すように間をおいてから言った。 「先生、さっきのピアノすごかったですね。空を飛んでるみたいでした」 「そのとおりだよ。さっさと行け」 にっこり笑ってユリは出て行った。それを見送ってから、悠治はもうピアノを弾く気になれなかった。ピアノの椅子から腰を上げ、レオシュを腹の上に載せて、床の上に寝転がった。
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