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作品名:エチュード 作者:スクラトフ

第11回   11
 悠治は結局、ユリが家に留まることを承知せざるをえなかった。常識にのっとって決着するには彼女の態度はあまりにも捨て身であった。前後もなく、ここで我を通すことが、生きるか死ぬかの分かれ目であるとでもいうかのようであった。そして、どれほど非常識や矛盾を指摘されても、心の奥では自分が正しいと確信して疑わない、天性の自信を漂わせていた。悠治は、こうした女性を前にして、これ以上対処の仕様が無いと感じた。また、ユリとこれ以上言い争う強い神経を持ち合わせていなかった。彼は自分が折れるほうを選んだ。もともと親子三人で暮らしていた家である。部屋はいくつでも空いていた。一部屋を一晩ぐらい貸してもさして不自由は無い。自分が少し我慢すればいいのである。一眠りしたら、十代の女の子のことだから、家出したときの憤懣も収まっているだろう。それから家に帰るよう、説得したら良い。
 ユリが家出してきた理由を問いただすつもりは無かった。たいした理由ではないに違いなかった。彼女の家出は明らかに衝動的なものだと思われた。計画的だとみなすには、あまりにも軽装だったからである。まるで散歩にでも出かけてきたような風情だった。荷物は小さなバッグがひとつだけで、中には化粧道具と一日分の下着が入っているとのことだった。要するに、本人も一晩きりのプチ家出のつもりで出てきたというわけだった。それなら、今日おとなしく帰っても良いようなものだが、一晩家に帰ってこなかった、と家族に思わせるのが目的らしく、そこは譲らないようであった。くだらない話に付き合わされることになった、と悠治は思った。
 両親が寝室に使っていた部屋は、物置になっていたが、家に残っている荷物自体が多くないので、少し片付ければ人一人寝られるスペースは充分取ることが出来た。布団も少々かび臭いが、この際文句は言えないはずである。悠治はユリをここに案内した。そして、言った。
「一晩だけだからな。明日は帰りなさい」
「はーい」
 ユリの返事の仕方は白々しかった。いかにもこの場だけの返事という風に聞こえた。しかし、悠治ももういちいち気に留めなかった。
 悠治はユリを寝室に残して、音楽室に戻った。やっと自分のためだけにピアノを弾けると思った。少なくとも寝る前には、こうした時間をとらないと、一日を過ごしたという気分になれないのである。この、夜の一人きりの(猫は居るが)演奏会が、悠治にとっての大切な自己確認の時間なのである。
 ピアノの前に座ると、違和感があった。いつもと同じ椅子には違いないが、どうも尻が落ち着かないのである。また、指も鍵盤に吸い付くような慣れた感覚が消え、まるで他人のピアノを触っているようである。どのように体をずらしてみても、しっくりした姿勢でピアノと相対することが出来ない。
 ユリのせいで集中力が欠けているのだ、と悠治は思った。だが、それを言い訳にして自分の習慣を崩すのは苦痛であった。猫と一緒に気楽に暮らしていたところに、とんだ邪魔が入ったものである。そう思いながらも、悠治は気持ちを落ち着かせながら、鍵盤をゆっくりと押さえ始めた。


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