こんなときこそ、落ちついた態度を心がけねばならない。ユリの言っていることは明らかに筋道が立っていないのだが、悪意があるようにも見えない。ただ自分の思惑を守るために必死にならざるをえないのである。その思惑とは何なのか、問いただす必要があった。力ずくでなく、話し合いで決着をつけるには、それが先決である。 悠治はもう一度感情を冷却して、平静になり、落ちついた声で訊ねた。 「君はどうしたいんだい。自分のピアノを聴いてくれと言ったのは君だが、それで弾かないのなら、帰るべきじゃないか」 「帰りたくないんです」 「だからピアノを弾いてくれって言ってる」 「でも先生は、私のピアノを聴いたらすぐに追い出すつもりでしょう」 図星だが、だからといって状況が変わるものではない。 「どちらにしても、君は帰らなくちゃいけない。もう時間も遅いよ。一人で出歩くのが怖いなら、送っていってあげる」 「いやです、帰りたくないんです」 「ご両親が心配してるでしょう」 「してません。してても帰りたくありません」 ユリの態度は頑なだった。悠治は、自分がさっき思い浮かべたばかりの文句を思い出した。この子は本当に家出してきたらしいのだ。ピアノを習いたいというのは口実で、寝泊りできる場所を探していただけなのだ。しかし、それで悠治の家を選ぶとは奇妙である。一人暮らしの若い男の家は、ユリのような少女には一番危険な場所のはずである。匿ってもらえることがあったとしても、代わりにどんな目にあうか知れたものではない。否、ここまでのプロセスで、すでにユリは充分悠治に乱暴される可能性があったのだ。何しろここは防音室なのである。誰がどんなに大声を出しても、周囲の住民に知れることはないのだ。悠治は、実はその可能性についてほんのわずかだが、考えたのである。そして、そのたびに振り払った。しかし、いつまで我慢できるか分からない。だからユリに対してできる限り無感情に接しながら、できる限り早く追い払いたかったのである。 だが、本人がどうしても帰りたくないというなら、こうした本心を率直に伝えなければならないだろう。本心、というよりは事実にのっとった警告である。この場限りの話なのだから、嫌われても構わない。ユリのような少女は、若い男をもっと警戒しなければならないのである。 悠治は優しい口調で切り出した。 「君ね、君みたいな若い子が、僕のような男が独りで暮らす家に来て、帰りたくありませんって、それが危険なことだってことは分かりますか」 「どう危険なんですか」 「そりゃ、君がさっき自分で言ったでしょう。乱暴される、とかいうことだよ」 「私は先生が相手なら構いません」 「ちょっとちょっと」 悠治はまたもや失笑した。妙な方向に話がこじれてきた。冷静に話し合うつもりが、ユリがまるで予想外の答え方をしたので、すっかり狼狽してしまった。どう気を取り直して良いか分からず、しどろもどろになりながら、悠治は言った。 「見ず知らずの男にそんなことを言うなんて、おかしいよ」 するとユリがむきになって答えた。 「見ず知らずじゃありません。私は先生のことよく分かってます。ああいうきれいな音を出せる人に、悪い人はいません」 「ピアノのこと?」 「そうです」 「それとこれとは話が別だよ。悪い人じゃないからって、乱暴されて良いというわけじゃないでしょう」 悠治が苦々しい表情で言うと、ユリは黙ってしまった。しかし、目はじっと悠治の顔を見ていた。悠治はその視線を受け止めていられず、顔を背けた。そして、 「困ったな」 と一人ごちた。
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