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作品名:エチュード 作者:スクラトフ

第10回   10
 こんなときこそ、落ちついた態度を心がけねばならない。ユリの言っていることは明らかに筋道が立っていないのだが、悪意があるようにも見えない。ただ自分の思惑を守るために必死にならざるをえないのである。その思惑とは何なのか、問いただす必要があった。力ずくでなく、話し合いで決着をつけるには、それが先決である。
 悠治はもう一度感情を冷却して、平静になり、落ちついた声で訊ねた。
「君はどうしたいんだい。自分のピアノを聴いてくれと言ったのは君だが、それで弾かないのなら、帰るべきじゃないか」
「帰りたくないんです」
「だからピアノを弾いてくれって言ってる」
「でも先生は、私のピアノを聴いたらすぐに追い出すつもりでしょう」
 図星だが、だからといって状況が変わるものではない。
「どちらにしても、君は帰らなくちゃいけない。もう時間も遅いよ。一人で出歩くのが怖いなら、送っていってあげる」
「いやです、帰りたくないんです」
「ご両親が心配してるでしょう」
「してません。してても帰りたくありません」
 ユリの態度は頑なだった。悠治は、自分がさっき思い浮かべたばかりの文句を思い出した。この子は本当に家出してきたらしいのだ。ピアノを習いたいというのは口実で、寝泊りできる場所を探していただけなのだ。しかし、それで悠治の家を選ぶとは奇妙である。一人暮らしの若い男の家は、ユリのような少女には一番危険な場所のはずである。匿ってもらえることがあったとしても、代わりにどんな目にあうか知れたものではない。否、ここまでのプロセスで、すでにユリは充分悠治に乱暴される可能性があったのだ。何しろここは防音室なのである。誰がどんなに大声を出しても、周囲の住民に知れることはないのだ。悠治は、実はその可能性についてほんのわずかだが、考えたのである。そして、そのたびに振り払った。しかし、いつまで我慢できるか分からない。だからユリに対してできる限り無感情に接しながら、できる限り早く追い払いたかったのである。
 だが、本人がどうしても帰りたくないというなら、こうした本心を率直に伝えなければならないだろう。本心、というよりは事実にのっとった警告である。この場限りの話なのだから、嫌われても構わない。ユリのような少女は、若い男をもっと警戒しなければならないのである。
 悠治は優しい口調で切り出した。
「君ね、君みたいな若い子が、僕のような男が独りで暮らす家に来て、帰りたくありませんって、それが危険なことだってことは分かりますか」
「どう危険なんですか」
「そりゃ、君がさっき自分で言ったでしょう。乱暴される、とかいうことだよ」
「私は先生が相手なら構いません」
「ちょっとちょっと」
 悠治はまたもや失笑した。妙な方向に話がこじれてきた。冷静に話し合うつもりが、ユリがまるで予想外の答え方をしたので、すっかり狼狽してしまった。どう気を取り直して良いか分からず、しどろもどろになりながら、悠治は言った。
「見ず知らずの男にそんなことを言うなんて、おかしいよ」
 するとユリがむきになって答えた。
「見ず知らずじゃありません。私は先生のことよく分かってます。ああいうきれいな音を出せる人に、悪い人はいません」
「ピアノのこと?」
「そうです」
「それとこれとは話が別だよ。悪い人じゃないからって、乱暴されて良いというわけじゃないでしょう」
 悠治が苦々しい表情で言うと、ユリは黙ってしまった。しかし、目はじっと悠治の顔を見ていた。悠治はその視線を受け止めていられず、顔を背けた。そして、
「困ったな」
 と一人ごちた。


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