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作品名:エチュード 作者:スクラトフ

第1回   1
 背中が痛いのは、ほとんど持病のようなものだ。
 ピアノを弾くことが仕事である以上、仕方のないことである。鍵盤に頭が埋まるほど背筋を曲げ、物思いに耽るように、白と黒の鍵の上で指を立てたり、伸ばしたりする。すると音が出る。たくさん指を動かせば、音と音同士の調和が生まれ、また快い不調和と、不快な不調和が生まれる。ただそれだけのことが、果たして音楽と呼べるだろうか? よく分からない。が、初めてピアノを触ったときから、悠治はただそれだけの認識の中で弾き、今もそれは変わっていないのである。
 正式な音楽教育を受けたことは一度も無い。なので楽譜は一切読めないし、無論書けもしない。だが彼は確かにピアニストであり、のみならず作曲家であった。彼の演奏はすべて即興でなされた。
 テーブルやソファーの並ぶ薄暗いフロアの片隅に、古いアプライトピアノが置いてある。音楽に専門的な耳を持った人なら、調律がややおろそかなのが分かるだろう。楽器の音自体は決して良いとはいえない。しかし、そこから流れてくるのは、素朴で、かつ挑戦的で、それでいて暖かみがある、少し趣は変わっているが、好感の持てる音楽だった。時折、旋律の合間合間に美しさの片鱗を見せることもあるが、長続きしないのだった。厳しくいえば、やや素朴すぎた。しかし、昼下がりにコーヒーや紅茶をすすりながら、ゆっくりと耳を傾けるには、充分心地よい。彼の音楽を聴きに来るために、この店の常連になった者もいるのである。ただ、女性客の中には、彼の音楽ではなく、彼自身が目的で足を運ぶ者もあった。
 どちらにしても、店にとってはいい客寄せになった。無愛想だが、ほとんど毎日店に出て、即興で長い時間ピアノを弾き続ける、悠治の働きぶりは店員たちの間でも評判だった。それだけに給料はずいぶんもらっているはずだが、使う暇が無いと思われた。服装は変わり映えすることが無く、たいてい無地の白いシャツに、黒いスラックスをあわせ、冬は濃いブラウンのベロアジャケットを羽織った。もともと洒落っ気というものがないのであった。かといって、彼の風貌が優れないわけではない。髪は長く伸び、演奏の邪魔になるという理由で、前髪からひっ詰めて後ろで結んでいたぐらいだし、店主が見かねて注意しない限りは、たいてい無精ひげを生やしたままであったが、そういうむさくるしさを中和する、形良く通った上品な鼻筋と、優しい目とを持っていた。背は高くないが、引き締まった体つきをしていて、肩幅も意外にしっかりしていた。ピアノを弾いているとき、客の目に映るのは彼の後姿ばかりだが、その音楽に興味を持てば、演奏者がどんな顔つきをしているかも、少なからず興味の対象になる。女性客にとっては、なおさらそうである。そして、その風貌が自分の女心を刺激するものであることを期待するのである。悠治の風貌はそうした期待に応えられるものだった。女性客の中に、彼の音楽でなく、彼自身を目的に足を運ぶ者がいたというのは、そういう意味である。
 悠治は正午から店に出て、閉店まで演奏した。いつもは背中が痛くなる前に、長くても五時間ほどで切り上げるのだが、その日はとても調子が良かったのである。いつに無く、肩や背中が軽かった。演奏もかなり出来が良かったように思う。
「じゃ、帰ります」
「はい、お疲れさん」
 悠治の挨拶に、カウンターの掃除をしていた店主が応えた。


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