室内に一歩踏み込んだ瞬間、たちこめる熱気と湿気。 ふしだらな中年女性の胸元から発せられる腐臭みたいな。 無気力な満員電車の中で痴漢してるおっさんからたちこめる汗臭さみたいな。
そういう人間臭い腐臭とむっとした暑さが、室内に充満していた。
…前に来た時には、気付かなかった。 俺、千春さんに夢中だったから。 千春さんに恋愛をしていたから。
狭い玄関で窮屈そうに靴を脱ぎ、揃えている真理恵に声を掛ける。
「あのさ。何か、気持ち悪くないか? 玄関のドア、開けておいていいかな?」
真理恵はじろっと俺を見上げて、にやにや笑う。
「いいんじゃない? きっと千春が上がってくるし。 開けておいてあげたら」
…階段下のドブを見下げる。 蓋は、今はひっそりと静まっている。
「千春さん、まだあの中に居るのか?」 「そうだね。居るね」 「何ですぐ出てこないんだろう?」 「気まずいんじゃない? さっき沼で泳いでいたときも、私たちから、ちょっと離れたところまでしか近づいてこなかったじゃない」 「ああ…。そういえば。 月明かりでしか見えなかった」
「あの醜くなった顔」 「ん?」 「あの、人魚になった、汚い顔を、実くんにじっくり見て欲しくなかったからだよ。多分」 「…そっか」
「知能は低下しているみたいなんだけど、 乙女心はまだ残っているみたいね。良かったね。
しかも、きっと、実くんが心配になったから、ここまでついてきてくれたんだよ。愛されてるね」 「え?」 「私が実くんにもひどいことするかもしれないから。いまから。 だから、心配になったんじゃない?」 「な、部屋の中に、何かあるのか?」
くくくくく、と真理恵は笑う。
「残った理性で、千春は実くんが心配になって、ここまでついてきてくれたんだよ。 あんたが悲鳴を上げたり、助けを求めたりすれば、きっとなりふりかまわず来てくれるよ。 愛されてるねー。愛されてるねえ。」
うくくくくくくくく、と真っ暗な玄関で真理恵は笑っている、ようだ。 暗すぎて顔が見えないが、白い歯だけがぼんやり暗がりに見える。
「真理恵」 「はあい」 「電気のスイッチ、どこだろう?」
「…あるけど、つけないほうがいいから、教えません」 「ん?」 「明かりを点けないほうが、実くんと千春のためだと思うな。くすくす」 「????」
黙って玄関に立ちすくんでいると、 真理恵は玄関横の物置をガサガサと探ったあと、何かを取り出した。
がしゃ。がさ。 オレンジの火にぼんやりと照らされる、少女の幼い顔。
「見てえ、これ。綺麗でしょ」
真理恵は火のついた古いランタンを手に持っている。 小さな火だが、廊下とその先を薄明るく照らす。
「さ、実くん、奥へどうぞ。 下手にうろうろしないで、あたしに付いてきてよ」
真理恵はくるりと身を翻すと、廊下の奥の部屋へ入っていったた。
俺は、つまずきそうになりながら、うす明かりを頼りに、真理恵の後をついていくことにした。
ああ、体が痒い。痒い。 ズルズルになった右手で胸元を掻き毟ると、胸元もズルズルになっているようだ。 口の中もなんだかヌルヌルしていて痒い。
確かに、電気は今点けたくない。
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