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作品名:ぼんやりとまあるい幻のような月 作者:ナナヲ

第5回   五、「過去」の反乱
その言葉はついに母の口から放たれた。私はそれを何とか無かったことにしなければならない。


まずは、ハハハハと笑って見せた。


「ママ冗談にも程があるよ。ママのように細くって華奢な女性が、大の男を殺せるはずないじゃないか。ちょっと酔っ払っちゃったんじゃないの。」


羽目を外し過ぎた母が、酒に酔ってとち狂ったかのように持っていこうとした。


「俊、もういいのよ。私は覚悟を決めているの。でも、あなたの疑問ももっともだから先ずそれに答えましょう。


私の祖父、つまりあなたの曾祖父ちゃんね。この人は合気道の道場をやっていて、私も子供の頃からずっとそこで練習してたの。私にはその才能がとてもあって、高校三年には奥義を究めていた。大学時代には四年間毎年、夏休みは中国へ行き、本物の気功と太極拳の修行に励んだ。独自の合気道を確立する為にね。つまり私は俊の言う、細くって華奢な女性では、全然ないわけ。」


「待ってよ、ママはずっとクラシックバレエをやってたんじゃあなかったの。」


「やっていたわ。本当になりたかったのは、バレリーナよ。でもそっちの方は合気道に比べるとずっと小さな才能しかなかった。高校に入るとその夢は捨てたわ。でも、バレエの素養は合気道をやる上でとてもプラスになった。私の合気道はバレエを切り離しては考えられないの。」


母が舞うように男を投げている姿を思い出した。


私は子供の頃から、母がバレエの衣裳を着けて華麗に踊る姿を想像しとても美しいと思っていた。それが今、合気道の袴を穿いて男を投げ飛ばしていた。でもそれもまた、美しいと思った。


「なぜ殺したんですか。」先輩が言った。


「あの男が俊介を殺そうとしたからよ。」


母の口から驚くべき言葉が発せられた。私は殺されるところだったのか。


「この子が小学二年になって間もなくのことだった。学校から帰って来るのがあまりに遅いので、心配になって迎えに行ったの。


胸騒ぎがしたわ。随分と日差しが強く紫外線にアレルギーのある私には、十分な対策なしにはとても表に出れるような日ではなかった。UVカットのチューブだけは持って、車で向かった。車の屋根が直射日光だけは防いでくれるし、一刻も早く学校に着きたかったの。 


結果的にそれは正しかった。歩いてなんて行ってたら、とても発見出来なかっただろうから。私はつくづく思った。私の紫外線アレルギーは、この子の命を守る為に運命付けられたものだったんだと。


先ず通学路を学校まで走り、次に学校周辺を隈なく走り回った。全然居なくって、私は直感に頼ったの。あなたたちはバカバカしいと思うでしょうけど、困ったとき私はいつもそうしてきた。」


「勿論最も適切な判断だったと思いますよ。いかに整然とした論理より、僕は玲奈さんの直感を信じますよ。」


先輩もまた、母の不思議な世界に引き込まれていた。


「私は家とは逆方向に向かった。俊介が小学校にあがるまで、いつも一緒に京都の町を歩き回ってたから結構道には詳しいの。とてもそれが役に立ったわ。随分遠くまで車を走らせた頃、人気(ひとけ)のない裏通りを若い男に手を引かれた俊が、とぼとぼと歩いている姿を見付けたの。


相手の男に背筋の凍る思いを感じた私は、車を降りるや叫んだ。あなた、その子どうする気って。男は無言で、遮二無二私に対(むか)って来た。男を投げ飛ばすと俊を車に乗せた。男は何度投げ飛ばされても立ち上がってはまた対って来たの、力の尽きるまで。私はその我武者羅な凶暴さに、この男の底知れぬ業の深さを見ていた、果てしなく深い井戸の中を覗くように。


動かなくなった男を見て、はたと困惑してしまった。当時は携帯なんてなかったし、誰か呼ぼうにも人なんていやあしないのよ。片側は大きなお寺の長い塀が延々と続いていたし、反対側は鬱蒼(うっそう)とした森に続く石垣だった。


男が気絶している間に、ともかく人を呼びに行こうと車に乗り込む寸前だった。相当タフな奴だったのね、もう意識を回復しちゃったのよ。そして私に言うの。


「あんたんとこのフレンチは最高の味だったよ。それにあのワインも絶品だった。」ってね。夢中でそんなこと気付きもしなかったけど正直いってショックだった。うちのお客さん


だったなんて。考えてもみなかったことだし夢中だったから、そう言われてみると確かに


見覚えのある顔だった。


男は身を起こすと、地べたに尻餅を着いたまま更に続けたわ。


「俺の親父は警察にコネがあってね、しかも優秀な弁護士もついてる。あんたが警察で何を言おうが俺はすぐに出てくるさ。事実誤認とか、証拠不十分とか、まあそんなのでね。 


もちろん起訴されることなんてない。次にあんたに会うときは、あんたの息子はもうこれさ。」


男は右手の人差し指で、真一文字に喉を切る真似をした。


何であなたはそんな真似をするの、と言ったわ。


「俺はあんたが、とても気に入ったんだ。あんたに純粋な、珠玉のような悲しみをプレゼントしたいのさ。あんたの流す涙はさぞ美しいことだろう。俺はどうしてもそれが見たいんだ。」


「あなたは、この世にいるべき人じゃあないわね。」


私は男を殺す決心をした。暗く沈んだ男の目は、人としての感情の煌めきなどまるで見えなかった。寧ろあらゆる輝きを奪い去っていくブラックホールのようだった。それは、限りなく深い滝壷を真上から覗き込んでいるのに似ていた。でもじっと目を凝らすと、見えないはずのその奥底が、私の中には浮かんでくるの。きっとあなた方は、そんなこと信じてはくれないのでしょうけど。」


「もちろん僕は信じますよ。玲奈さんにそういう力があってもちっとも不思議じゃあない。」


またも先輩が母に同調した。母の話は更に細部に及んだ。


「男は邪悪の渦巻くどす黒い淵に、殆ど全身を没しながら、辛うじて浮き沈みしていた。この男が自ら死を希(こいねが)うのを感じたの、完全に没し去る前にね。


実行に移すことに躊躇いはなかった。奥義を窮(きわ)めた私の技に些かの衰えもなかった。


私は祖父に教わった柔術(ん、合気道ではなかったのか)の奥義を使ったの、これは正義の行いなんだと自分に言い聞かせながら。


 男の表情がとても安らかだったことを付け加えておくわ。勿論それで私の罪が消えるわけじゃないけど、でも後悔したことは一度もない。ただ人の命を奪ったことへの罪悪感は、やはり拭いようのないものなのね。それは心の中に突き刺さった決して抜けることのない棘(とげ)。時々疼(うず)きだしてはその存在を主張するの。でも私は、痛みを取り去る方法もちゃんと心得ている。


一人息子の命を守ったという思いは、少なからず罪悪感を軽減してくれたし、それに私は自らに罰を課している。


夢を捨て、恋することを封印し、店の仕事を果たしながら子育てに専念してきた。自分にそう言い聞かせるの。呪文のようにね。」


「僕は罰」


罰の中に子育てが入っていたことに、私はとてもショックを受けた。


「あら、ごめんね。でも、そうかもね。とても遣り甲斐のあるね。」


まあ、遣り甲斐があるのなら仕方ないか、と思った。それにしても私は、小学二年にもなっていながらそのことに関して、何故こうも記憶が曖昧(あいまい)で断片的なのだろう。 


どうしてそんな男について、家とは逆の遠く離れたところへのこのこ付いて行ったのだろうか。  


我ながら情けない程、何も覚えていなかった。


「今の話を伺って僕が疑問なのは、兄の遺体が発見された現場のことです。確かにうちの親父が警察にコネがあるというのは本当で、いろいろと情報が入ってくるんですが、そもそもそれによると土地勘のある者しか知り得ない場所だということでした。警察もその線で捜査してますしね。


その場所というのは自然歩道を作る為に、市が料理旅館の裏山を買い上げたものなんです。そこの人間も随分調べられたらしいですよ。


ただ一つ、少し気になるのが現在の経営者の母親で、昨年他界した先代の女将なんですが、この人が存命中は土地の売却には一切応じなかったということです。しかも亡くなる前に、売るなと遺言までしていた。結局山は市側の強い要望もあって売られてしまったんですが、ただそれにしても享年七十歳のその女将が、うちの兄と何か接点があったとはやはり考えにくいですからねえ。しかもすでに死んじゃってますし、警察も関心は持ってないようです。ともかく山頂まで遺体を運んだわけですから車が必要ですし、少なくともその女性は免許を持っていなかった。最終的に、代々受け継いできた土地を手放すのが、忍びなかったのだろうと判断されました。


現在捜査は暗礁に乗り上げてます。僕は玲奈さんの仰しゃることを信じます。あなたは決して嘘など吐く人じゃない。一つだけ疑問点があるんです。その場所に関してです。


その山の登り口は手入れが不十分で草深く、車で入って行けるようにはとても見えない。


通りすがりにたまたま入り込むというような所ではないそうです。地元の者でも見落とすくらいだそうです。


そんな場所、どうして玲奈さんはご存知だったんですか。」


「まあ、鋭い質問だこと。自首したらそんな風に問い詰められるのね、きっと。でも、あなた方には正直に話さなくちゃね。仰しゃる通りよ。土地勘のある人に協力してもらったの。」


 母は自首するつもりなのだろうか。何がなんでも思いとどまらせねばならない。


「待ってよ、ちょっと変だよ。そんな殺人の尻拭いなんて人に頼めないよ。」


私はこの期に及んで話を振り出しに戻そうとしていた。


「一人だけいるわ。母よ。」


「ええっ、どういうこと。なんで京都にばあちゃんがいるの。」


「菅原さん、あなたには無関係な話だけど、いいかしら。」


「僕もそんなミステリアスな話、ぜひ聞いてみたいですよ。」


「まあ。」


母はにこやかに微笑んだ。いつの間にか、さっきのコースを食べていた時の雰囲気に戻っていた。


しかし母の口からでた言葉は、愕然とするものだった。


「昨年亡くなったその料理旅館の女将、というのが私の母よ。」


私が酸欠の魚のように目を白黒させて、口をパクつかせているのを、母は静かに見詰めながら話を続けた。


「母は昔芸者だったの。学生だった父と出会い、二人は愛しあった。でも当時、学生と芸者の恋なんて認められるはずもなかった。父は母に駆け落ちを迫ったそうよ。でも母にはあまりにも多くの柵(しがらみ)があり、周囲が被る迷惑を考えると、とてもそれを受け入れることが出来なかった。やがて父は大学を卒業すると、失意のうちに東京に帰ったの。


私が母のお腹にいることも知らないで。


私は父を知らないの。それは俊も一緒だけど、でもあなたは有り余る愛情を一身に受けて育った。たとえその期間は短くとも、何一つ覚えてなかったとしても、その記憶は細胞の一つ一つにまで必ず刻まれているのよ。あら、ごめんなさい。話が逸れちゃったわね。 


別に自分が不幸だったなんて言ってるんじゃなくってよ。


父は少し心の弱い人だったのかも知れない。でなければ気力も失せるほど深く母を愛していたということなのかしら。


祖父は亡くなる前に私にそういう経緯(いきさつ)を言い残したわ。最も心を痛めていたのは、二人を引き裂いたのは自分だという思いでしょうね。もちろん祖父だけがそうした訳ではなく、すべてがマイナスに働く、そういう恋だったのよねえ。


父は折角決まった就職も僅か三ヶ月で辞めてしまい、暫くして交通事故で亡くなったの。祖父は、あれは事故などではない、と言ったわ。父は生きる気力すら無くしていたのね。


母が必死で、大きくなるお腹を悟られないように、ひたすら新しい命を育んでいたと知ったら決してこんな風にならなかったのにねえ。その辺考えると辛いわねえ。


女の体ってお腹の子を守ろうという本能が働くものなのねえ。母が言っていたわ、あなたがお腹の中でじっと辛抱してくれていたお蔭で、何とか人に気付かれずにあなたを守ることが出来た、って。お腹が目立ってはいけない状況だと、きっと体がそういう風になるのよ。周囲がそれと気付いたときにはもう手遅れ、堕胎なんて出来ない。もしおろせ、なんて言われたら警察に駆け込むつもりだった、と母は言ったわ。


幸いそうはならなかったけど、しかし周囲は生まれたらすぐ施設に入れるか里子に出すつもりだったようね、母の意志に関係なく。母はそういう気配をすでに感じ取っていた、とにかく父に連絡を取ろうと封印していた電話番号に掛けてみた。そこで初めて父が交通事故で亡くなったことを知ったの。


母は言葉を失った、止め処なく涙が溢れた。でも絶望している暇なんてなかった。


電話口の祖父に、あの人の子を育ててほしい、と懇願したの。このままでは里子に出されてしまうと。祖父は一も二もなく引き受けた。並々ならぬ母の必死さが、受話器を通して痛いほど伝わってきた。でもそれ以上に、考えてもいなかった血を分けた幼い命の存在が何よりの救いだったの。こうして私は祖父母に育てられることになった。


祖母は父が死んでからというもの健康が優れず、私が中学に入るのを見届けるように亡くなったの。それからは全くの父子家庭よね。


母はその後見初められ、間を取り持ってくれる人もあって料理旅館の後妻に入った。父のときとは異なり何の障害もない、朋輩(ほうばい)の羨(うらや)む話だった。相手は一回り以上年上だったけどとても包容力のある人で、人の優しさに飢えていた母はその愛に縋(すが)った。自分だけ幸せになることの後ろめたさを感じながら。


母は子供がいることもその経緯もすべて話した。相手の人に子供はなく、引き取って二人の子として育ててもいいと言ってくれた。そうしたいのはやまやまだったけど母はそんなことの出来る人ではなかった。祖父は折節の行事などを連絡し母が見に来ることを許してくれていたし、もし母が引き取りたいと申し出れば応じてくれたでしょうけど、祖父母が私を生き甲斐にしていたことは母には痛いほど分かっていた。


母は私をずっと見守り続けてくれたの。初めて母に会いに行ったとき、私はその人を何度も見ていることに気付いた。


両親は事故で死んだと聞かされていた。母の写真も結婚式の写真すらもないことにいくら不審を抱いても、それを突き詰めることの恐れを子供心に感じて、そのことに対する疑問をいつしか自分の中で抹殺するようになっていた。それを明らかにすることは取りも直さず、大好きな祖父母を苦しめる結果になることがおぼろげに分かっていたから。


 両親の記憶というものが全くない私にとって、祖父母が両親そのものだったし、十分な愛情の中で育った私は、少なくとも寂しいなんて思ったことはなかったわ。


でも祖父からすべての事情を聞き母が健在であることを知ったとき、まだ見ぬ母への思いが沸騰するのを感じた。


私はその人がひっそりと人影に佇む姿を目にしていた。それが母だともっと早く気付くべきだったとは、私は思わなかった。影のように目立たなかったその人にちゃんと目を遣っていたということ、そのことに親子の絆(きずな)を感じたの。母にそのことを言うと母は声を上げて泣き、私に謝った。


許すも許さないもない、母は私の命をすべてを犠牲にして守ってくれた。それで十分だった。


母は私を旦那さんに会わせてくれたわ。とても温厚な人で、よかったらここで一緒に暮らそうとまで言ってくれた。もちろんそれは固辞したわ。二人には小学生の息子がいたし、母の家庭に余計な波風だけは立てたくなかった。母に会うのも出来るだけ控えた。


同じ京都の空を見ている、それでよかったの。」


母は少し涙ぐんでいた。今まで胸の奥に秘めていた思いの丈を吐き出すように、堰を切るように話し続けた。


でも何という悲しい話だろう。自分の知る母の中にこれほど切ない物語が隠されていたなんて、私は確かに苦労知らずのぼんぼんでしかなかった。幼くして母を、最愛の人を亡くした先輩の方が余程苦労していたのだ。金があるとか、ないとか、そんなことに意味なんてない。


その時私は、不覚にも大粒の涙が頬を伝っていることに気付いた。頬を拭いながら、何気なく先輩の方に目を遣った。先輩も同じように泣いていた。今日先輩が泣くのを二度も見た。私は先輩は泣かないと思っていた。どんな大切な試合に負けても、皆がどれ程声をあげて泣いていても、静かに一人その試合を分析していた。


彼の目に涙の煌めきを見たことはただの一度もなかった。しかし事母親の話となると全く様子が違っていた。


母は更に話を続けた。


「男を殺すとき私はあえて祖父から学んだ柔術の奥義を使った、といったわねえ。そう、これは天が私に与えた責務なのだ、と自分に言い聞かしていた。


でも屍体を車のトランクに乗せた後、はたと困ったの。屍体をいったいどうしよう。いっそ俊介を母に託して自首しようかとも考えたけど、幼いこの子に殺人犯の子供としての人生を歩ませる訳にはいかなかった。


信念を持ってあの男を殺した以上、誰にも迷惑なんて掛けられないの。自分一人で抱え込んで誰も巻き込んじゃダメ。でも結局は母を巻き添えにしちゃったんだけどね。


母は言ってくれたわ。あなたのしたことは間違ってない、私でも同じ事をしたと。次は私が、何があってもあなたを守るって。後は母の指示に従ったの。」


「そのとき僕はどうしてたの。」私はその時の自分の様子が気になった。


「あなたは徒ならぬ気配を感じ取っていたようね、精神的にとても動揺しているようだった。私はそれをどうしてやることも出来なかった。抱き締めてもあなた、反応してくれなかったの。絶対あなたの目に入らないように奴を殺したはずなのに。」


「ママ、そこって川床(かわどこ)のあるところだよねえ。今頃だと蛍の綺麗な。」


「そうよ。覚えていたのね。以前から蛍が綺麗だからその頃ぜひいらっしゃいって言われてたんだけど、中々行けなくって、皮肉にもその時期ちょうど訪れたのに、屍体が一緒だったんじゃあ蛍見物どころじゃあないわよねえ。


お父さんがその前年に亡くなってて、あの穏やかな人を巻き込まなかったのがせめてもの救いだった。


屍体を埋めて戻ったあと母は私に言ったわ。もうここに来ては駄目と。ここであなたと親しく会っているのを周囲に見られて、万々一にも遺体が発見されるようなことになった場合、私とあなたの関係から洗い出されて捜査の手があなたに及ぶ可能性がある。そうなるとあなたが合気道の達人だと調べ上げ、きっとあなたに的を絞るに違いない、と。」


「もしかしておばあちゃんは山科のおばさん。」


「その通りよ。生まれが山科だからそう呼びなさいって。」


そうだ、山科のおばさんは大好きな人だった、いつも僕のことを気に掛けてくれて、よく小遣いくれたっけ。おばさんが死んだ時僕は大切なトーナメント戦の真っ最中で葬式にも行かなかった。おばあちゃんだと知っていたら何を措いても駆けつけたのに・・・ごめん、おばあちゃん。僕は葬式に行かなかったことを今更言い訳している。山科のおばさんにあんなに世話になっておきながら、実のおばあちゃんなら何を措いても駆けつけたなんて、なんて心無い言い草だろう。


こんな考え方をする自分はやっぱりとんでもなく自己中でちっぽけな人間であることに思い至った。僕は情けない男だ。せめて墓参りでもして、謝ろう、もちろん山科のおばさんにも(無論母の時効が来てからだが)。


私はおばあちゃんの恩に報いるためにも、もっとちゃんとした男にならなければと痛切に思った。


「元気な頃は暇をみてはここによく遊びに来てくれたわねえ。やっぱり私たちのことがほっとけなかったのねえ。」


母の目は遠いところを見ているようだった。


「でもね、その後うちに来る母はまた再びあの影に戻ってしまった。うちに来る母を見て、京でも名の知れた料理旅館の女将と気付く人は誰もいなかったと思う。結局私は最後まで、母を影の呪縛から解いてあげることが出来なかった。全く親不孝な話よねえ。」


「そんな風に自分を責めるもんじゃありませんよ。きっとお母さんは罪を犯してまで大切な孫を守ってくれたあなたに、心から感謝してたと思いますよ。あなたは最高の親孝行をされたんじゃないですか。」


「ありがとう。」


先輩の言葉は少なからず母の心を軽くしたようだったが、母の悔恨(かいこん)の情はその位では治まらなかった。


「母が亡くなる少し前、病院にお見舞いに行ったの。母は私の顔をじっと見て言ったわ。


見舞いなんて来なくていい、私たちの関係を人に知られてはダメ。あんたは何にも心配しなくっていい、何もかも私があの世に持っていくから。そういって弱々しく手を握ってきたの。俊のこともすごく気にしてて、でももう記憶の方が少しおかしくなっていたのね。


大切に育てるのよ、なんて言ってこの子もう大学生なのにねえ。結局最後まであのことが母の心に重く伸し掛かっていたのね。もしかしたらその時母は、俊を連れて屍体を運び込んだあの時に戻っていたのかも知れない。


七十歳なんていう年齢で亡くなったのは、きっとそのお蔭で心労が重なった所為なのよ。


私を長年影のように見守り続けて、やっとまともな親子関係が築いて行けると思った矢先に、殺人事件の巻き添えなんてあんまりじゃない。私に人生を翻弄(ほんろう)されてるようなもんじゃないの。」


「そんなことは絶対にありません。僕はさっき、あなたが罪を犯してまで俊介君を助けたといいましたが、まずそれを訂正します。


根本的な部分で玲奈さんは思い違いをされている。よく考えてみて下さい。あなたが手に掛けたものが果たして人だったのかということです。


そいつは自らの下劣な欲望の赴くままに子供を殺そうとしていた。あなたは凶行がまさに実行されようとしている寸前、それを未然に防いだ。それがあなたの子だったかどうかは問題ではない、あなたは人ひとりの命を助けたわけだ。失敗した殺人鬼は事もあろうにあなたに向かって来て、敵わないと分かるとあなたの息子を殺すまで狙い続けるとまで言い放った。警察は手を出せないと。


あなたはその悪魔を抹殺し葬った。しかもその悪魔の中に僅かに残された人の部分は、手を下してくれたあなたに感謝すらして滅んだ、自らが完全に悪魔に魅入られる前に。


これのどこが罪なんですか。もしあなたがその時手を下さなかったら、その後あなたの子供も含めて、一体何人の子供が犠牲になったことか。考えただけでも恐ろしいですよ。


あなたは武術家の家庭で成長し、しかもその方面で有り余る才能を持ち合わせていた。


僕はそれ自体に、運命的なものを感じますね。それこそが神の意志だったと。


あなたのお母さんだってあなたは何も悪くないと言った。自分だって同じことをしたと。


あなたと会い、あなたと話し、あなたを守ることがお母さんの幸せだったんですよ。それは翻弄されているのとは全く違いますよ。」


先輩は言葉の天才かも知れない。驚くほど説得力があった。しかも所々に鏤(ちりば)められた、悪魔、神、運命的などの言葉、きっとそれらは母の心を惹きつけて止まないことだろう。


更に私が畳み掛けた。


「僕も先輩の言う通りだと思うよ。ママが来てくれなければ僕は殺されているところだったんだ。もしママがそいつを殺してくれなければ、僕だけじゃない、沢山の子供たちがそいつの餌食(えじき)になってたんだ。」


まったくその通りだ、私は殺されていたかも知れなかった。当時私は小学二年、何故その記憶がこうも希薄なのか、祖母に見守られて母を待っていたときの自分を、多分四、五歳の頃だろうと思っていた。まるで催眠術にでも掛かったかのように、私の脳は休眠していたのだろうか。それとも、味わったことのない強い恐怖が思考力の粗方を奪い去り、私を幼児に戻してしまったのだろうか。


蛇に見込まれた蛙さながらに、少年の私がそういうギリギリの状況にあったことは紛れもない事実で、それを思うと今更ながらに身が竦(すく)むようであった。切れ切れの断片的な記憶が一つに繋がりだしたとき、過去が私に牙を剥(む)き始めた。


出来ればこの話題はなるたけ早く遠ざけたかった。


「ママのお父さん(私と同じ位で亡くなった人をおじいちゃん、とも呼べなかった。)はきっと事故で亡くなったんだよ。命がけの恋に破れてすごく低回的になってて、自分の周りを本当に、物理的に見落してたんだと思うよ。」気休めだった。でも過去を、少しでも明るい方向に考えたかった。


「そうかもね。きっとそうよね。」母も私と同じ考えなのだ。


「武道家の曾祖父ちゃんは、そういうナイーブな心理って理解出来なかったんじゃあないのかなあ。軟弱だ、とかって。」


「あんた少し曾祖父ちゃんのこと誤解しているわ。確かに祖父は一流の合気道家には違いなかったけど、そんな心の綾の理解出来ないような人ではなかったわよ。もともと中学の校長先生で教育には並々ならぬ情熱を持っていたし、道場だって地域の子供を指導する為にやってたようなもんだし、少し頑固ではあったけれども心根の優しい人だったわよ。」


「でも二人の恋に反対したわけでしょう。」


私には心根の優しい人がそんな心無い真似をするのが理解できなかった。


「時代なのよ。ある種偏見のなせる業なのよね。祖父ほどの人でもそういう呪縛から逃れられなかったのね、きっと。父を亡くして随分変わったんでしょうね。だからこそ二人を引き裂いた悔悟の念から、あれは事故ではなかったという思いがだんだん大きくなっていったのよ。」


「ママがそいつを殺して僕を守ってくれたことには心から感謝しているよ。そのことに関してママが苦しむ必要なんて何もないよ。ただ僕が不思議なのは、曾祖父ちゃんは校長まで勤めた立派な教育者だって言ったよね、その人が奥義だか何だか知らないけどそんな簡単に人を殺せるような恐ろしい技を、何故ママに教えたりしたんだい。確かにそれがなきゃ、僕はここにいなかったかも知れないんだけど。」


「そんなこと平気な顔でいうもんじゃあなくってよ。あの状況であなたが生きていたこと自体奇跡だったと感謝するべきよ。そしてそれは私が助けたのでも何でもない。あなたを救ったのはあなたに対するいろんな人の思いよ。死者も含めてね。そういう思いが私をあそこに導いた、あなたはあなたを思ってくれている人たちにもっと感謝すべきね。」


 私はまた馬鹿なことを言ってしまった。まったく母の言うとおりだ、私はもっといろんな人に、いろんなものに感謝すべきだ。私は即座に謝(あやま)った。


「祖父が私に奥義を伝えたのは、私を継承者と認めたからよ。祖父は江戸時代から続く柔術の流派の跡継ぎで、幼い頃からずっと修行を積んできた人なの。もともと合気道は柔術から発展した武術で、祖父はその合気道も若い頃から修行し、定年後に道場を開いた。もちろん合気道のね。子供を指導する上で柔術は適当とはいえないと考えたのね。


柔術の発祥は古く、戦国時代を生き抜いてきた武術だけに、いくら柔道や合気道の元になったとはいえ、相手を倒す為だけの格闘技はとても教育的とはいえなかった。しかし一方で祖父には柔術を受け継ぐ者としての責任があったの。


祖父はすべてを私に託した、もともと自分の代で終わると思っていたので、重荷なら何時止めても構わないと判ったうえでね。祖父を亡くしてから私は、母のいるこの京都で祖父がやっていたような道場を開いてみたいと思っていた。


でもその技で人を手に掛けた以上それを継承する資格は私にはなくなった。」


「僕はその資格はなくなってないと思う。ママのしたことは人間の法がどうあれ、正義だと僕は思う。」


やっとまともなことが言えた。私を救うために母が自分の夢を捨てた、これは紛れもない事実なのだ。


「ありがとう。話してよかったわ。心が随分軽くなった。」


 今度は先輩が畳み掛けた。


「さっき玲奈さんは僕があなたを裁くために来たと仰いましたねえ、三人がここで会うのも運命付けられていたとも。だったら僕ははっきりと断言します。


僕はあなたを許すためにここに来たんだと。もう十分じゃあないですか、苦しむのは。自首なんて馬鹿げてますよ。あんな連中の手にあなたを委ねるわけにはいかない。そも


そも人があなたを裁くなんてことが出来るんでしょうか。
 僕が目に見えない力によってここに導かれ、奇しくも僕たちの前で事の経緯が詳らかになった以上、玲奈さんは僕の言うことを聞く義務がある。そして僕にもそれを見守る義務があります。」


先輩はほんとに凄い、運命とか、目に見えない力とか、奇しくもとか、とりあえず母の弱そうな言葉をさり気なく織り込んで、実に効果的な説得を試みた。


母が心を動かされているのが、私の目から見ても分かったが、やがて、


「分かったわ。あなたの言うことを聞くわ。そのためにすべて明らかにしたんですものね。」


驚くほどあっさりとその話に乗ったのであった。


母を守ろうと躍起(やっき)になっていたこともあり少し拍子抜けの感は否めないが、この先母がどうなるのか内心気が気でなかっただけに、先輩の言葉を聞き入れてくれて胸を撫で下ろすことが出来た。ともかく先輩は、相手の弱点を見出してそこを攻撃することにかけては、誰も右に出るものはない。ただ一点気になる箇所があった。僕にもそれを見守る義務云々と言う件(くだり)である。どういう意味か、それとなく遠くから見守ると言うのだろうか。そこまで先輩に厄介を掛けるつもりは更々ないが、まあこの際深くは考えないようにしよう。折角まとまった話が台無しになっては元も子もない。


暫くして先輩は帰ったが、その帰り際も妙だった。


今日はどうも、と言うことで皆席を立ったまでは良かったが、そのあと先輩は私には目もくれず母の所まで歩み寄ると、母の一方の手を両手で取り、料理もワインも素晴らしかったです、といって暫くじっと握ったあとレシートを手にした。


母が今日は私が、と言うのを、先に立ってさっさと勘定を済ませてしまった。


二人で先輩を見送った後、振り返りざまに見た母の頬が少女のように紅潮していたのを、私は見てしまった。


その後私はその日のことには一切触れなかった。何もなかったように平静を装い、母とは今までと変わりなく接した。それは母も同じだった。







    


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