一枝(いちえだ)を母に紹介した。彼女はとても面食らっているようだった。それはそうだ、何でもいいから来てくれといわれ、家へ連れてこられて行き成り母親に引き合わされたのだ。誰だって動揺する。でも私はその時、そんなことを言っている場合ではないという気分と、一枝と私の前に立ちはだかる理不尽な現実に立ち向かう熱い思いにすっかり支配されていた。
「舞妓の一枝どす。」
母は首を左右に振って、
「本当のあなたの名前を教えて。」と言った。
「上地咲(うえちさき)いいます。」
「緑川玲奈(れな)です。」
私はふと、一枝が母のことを継母だと思っているのでは、と心配になった。どう見たって姉にしか見えない、それもそう歳の離れていない。
「若く見えるけど実の母なんだ。」と付け加えた。
母は私をチラッと睨んだ。
私は母に彼女の家の状況、それに付け込まれた彼女の陥った窮状、そして我々の出会った経緯などを話した。もちろん一緒に入浴したことは黙っていたが。
私は最後に言った。
「ママ、金貸してくれないか。」
すると、一枝、ではなく咲が、
「ちょ、ちょっと待っとくれやす。うちそんなことして貰うつもりでここまで付いて来たわけやおへん。それにまさかお母はんにまで会わして貰えるやなんて思てもみまへんどした。」と言った。
「咲ちゃん」母は咲の手を取った。
咲の目をじっと覗き込むように見詰めながら、
「あなたは十分頑張ったわ。もういいのよ。お金なんて、出せる人間が出せばいいの。たまたまお金の余ってるおばさんが、物好きで出してくれた。それでいいの。お金なんてその程度のものなの。あなたの人生と比べたらゴミも同然なのよ。」と言った。
私は母がこれ程お金に敵意を持っていたとは知らなかった。確かに母の言うことも、一面の真理には違いなかった。
母はじっと相手の目を見て話す。しかも話に熱中するとかなり顔を近づけてくる癖があり、面と向かって話していると、何かの拍子にドキッとするくらい母が近くにいた。そして吸い込まれるほど深く透明な瞳の前で、すべての鎧(よろい)を取り払われた、丸裸の、剥き出しの自分を感じるのだった。その無防備な危うさは不思議に居心地がよく、まさに母の懐に抱(いだ)かれるようであった。
私は母の瞳はあの絶え間なく真砂を吹き上げる源流の泉に似ていると思った。無数の蛍の幼虫やカワニナやその他の水中生物を育む、あの流れの源と同質の力を感じ取ることが出来た。
咲は今まさに、その無防備な危うさの中にいた。
母は咲の手を握りじっと彼女の目を見詰めていた。咲の表情は何かうっとりとしているように感じられた。そのまま咲が目を瞑り、唇と唇が重なり合っても何も違和感を感じなかったろう。
私はその情景を素直に美しいと思った。僅かな嫉妬心を伴って。ただその嫉妬心は何に対してなのか自分でもよく理解できなかった。母に対してなのか、咲に対してなのか、あるいはそこに立ち入れないことに対してなのか。
「愛しているのね。」母はそう言った。
咲はこっくりと頷いた。
母は宗教家になればよかったかも知れない。母の持つ神秘性は人を惹きつけてやまないところがあった。
とても荒唐無稽な話だが、私は小学校低学年の頃、母は吸血鬼に違いないと本気で信じ込んでいた。その神秘的な部分が幼い私には不気味に感じられたのだろう、ただそれだけでそんな極端な思い込みをしたわけではなかった。私はこの上なく母を愛していたけれども、結局その疑念を打ち消すことは出来なかった。
なぜなら母は、途轍(とてつ)もなく強いのだ。
その記憶は脈絡もなく断片的なものではあったけれども、決して夢でもなければ、年端もいかない子供の取るに足りない妄想でもなかった。あの光景が現実のものであったことは間違いないはずだ。確かに歳月の経過が、多少のリアリティを奪い去ってはいたが。
それは今以って私の記憶のヘドロの中に堆積していて、時折泡(あぶく)のように浮かび上がってきては、私に迫ってくるのだった。
そして時として、本当に現実だったんだろうか、という猜疑心に襲われることがないわけではなかったが、どう思い返してみても確かにこの目で見たと結論を下さざるをえないのだった。
幼心に焼きついた拭いようのない記憶、それは、母が若い男を投げ飛ばし、何度も、何度も地面に叩きつけていたのだった。男は何度投げられても、フラフラになりながら立ち向かっていく。しかし母はいとも容易く、優美な舞を舞うように身を翻すと、ふたたび男は宙を舞っていた。やがて男は動かなくなった。
やはりあの男は今頃、どこかで誰かの血を啜(すす)っているのだろうか。
無論それだけが母と吸血鬼を結びつける根拠ではない。さらに、寧ろそっちの方が原因で子供らしい想像力を膨らませ、そんな突飛な疑念を抱いたのではないかと思う。
母は太陽がとても苦手なのだ。紫外線に対してアレルギーがあるという。日中に行動することは滅多になく、どうしても出掛ける必要のある時は季節を問わず全身黒か濃紺で、鍔(つば)の広い帽子(これも殆ど黒だが夏はお洒落な麦藁帽を被ることもあった。)を被るか、黒の日傘を差していた。
露出する部分にはUVカットのチューブ入りクリームを入念に摩り込んでいたし、車の運転をする時もあの蛇のような長い手袋(これも黒だった)を填めていた。
私は知っていたのだ。吸血鬼の中には、太陽の光は苦手だがそれでも日中動ける奴のいることを。そしてそいつは、やはり黒で全身を覆っていた。私はすべてを漫画で読んで知っていたのだ。
ただ、ここで私は二律背反(アンチノミー)に陥る。
あの時、男を投げ飛ばしていた時は、日中の屋外であったにも拘わらず母は家に居るのと同じ恰好だった(ちなみに淡色のホームドレスであった)。
実に不可解であった。私が拭いようがないと思っていた記憶に、綻びが出始めた。妄想と現実の狭間で揺らめきだんだんわけが分からなくなってきた。年齢と共にどっちでも良いという気分になってきた。実際母が誰かの血を吸うところを見たわけではないのだし。
やがてその一連の記憶は、記憶の海の底の堆積に沈殿したままとなり、時折浮かび上がってくる以外は思い出すことも亡くなった(その記憶が現実であることは揺るぎ無いと思っているくせにそれ以上真剣に突き詰めたことは一度もなかった)。
咲のことでとりあえず私は菅原先輩に会うことにした。
「明日は例の兄の葬式なんだ。」
「僕もお焼香くらいさしてもらいますよ。葬式の後で会ってもらえませんか。」
丁度よかった。この際その好色因業(いんごう)金貸しの顔をじっくり拝んでやろう。
しめやかに読経の声が流れる中、参列の人々が順番に焼香を済ませていた。それ程大きな葬儀ではなかった。いくら長男とはいえそういう死に方をした者を、余りおおっぴらにはしたくないのだろう。
私はここに来たときから前後左右あらゆる方角から、鋭い視線が送られて来るのを感じていた。場内を見渡してみると、確かに鋭い目をした男たちが要所要所に立っていた。どう見ても葬儀屋の人間ではなさそうであった。特定の誰かを見ているというのではなく、全体を見ながら一人一人を確認するといった感じで、特に私を見ているというのではないようだった。
ふと、警察かもしれない、と思った。いくら悪徳金貸しとはいえ、警備員にしては物々し過ぎる。そうだ、まだ時効を迎えていなかったのだ。事件として立派に成立しているのだ。身近な人間から洗い出しているのに違いない。まあ、いずれにせよ私には関係ない。
次の瞬間、そんなことはどうでもよくなった。その男がいたのだ。菅原先輩の横に偉そうに座っているのがそうに違いない。私はその男をじっと見続けた。先輩に少し似ていた。
六十絡(がら)みの、がっしりとした男で凄みのようなものを感じさせる。こんなのが来て、お宅の両親に大きな借金があるといわれれば、親思いの咲が何もかも諦める気になったとしても無理はなかった。
私は立って焼香の列に並んだ。今まで気にも留めなかった遺影が目に入ってきた。
遺影を見た瞬間、ぎょっとした。その男を見たことがあったのだ。私はその場で、記憶の底のヘドロを掻き回してみた。やがて、ブクブクと浮かび上がってきたのは昔から時折浮かんでは沈んでいくあの記憶だった。
紛れもない、今頃どこかで誰かの血を吸っている筈のあの男であった。母に投げ飛ばされていた男の顔に、遺影の顔がピッタリと嵌(はま)ったのだ。
私は総毛立ってしばらく立ち尽くしていたが、はっとして列の流れに従った。警察がいるのだ。決して気取られてはならない。焼香を済ませた後先輩の親父(おやじ)を睨みつけてやろうと思っていたのだが、そんな余裕など全くなかった。
母が殺人犯かもしれない、という思いが頭の中を駆け巡っていた。私は後で先輩と、魔の手から咲を守るべく話し合うのだ。ともかく今は母の件を、心の片隅へ追い払わねばならない。
「なんだか目つきの鋭い連中があちこちにいましたねえ、あれは何ですか。」
私は今、先輩に連れられて葬儀場近くの、居酒屋のボックス席に座っていた。真面目な話に居酒屋もどうかと思ったが、他にこれという場所もないので仕方ない。
とりあえず気になることを聞いてみた。
「警察だよ。身近な人間から調べているのさ。今頃になって捜査したってどうせ見つかる筈なんてないさ。奴らだってそんなこと十分承知しているんだ。」
「時効はいつなんですか。」
「まだ一年近くあるみたいだなあ。失踪した時点で殺されていたのなら。この事件に随分興味があるようだなあ。推理小説でも書くのかい。お前みたいなこましゃくれた人間には向いてるかも知れないぜ。」
「勘弁して下さいよ。」
「そうだった、お前はうちに来るんだ。俺と一緒に頑張ってくれるんだったなあ。楽しみにしてるよ。」
これに関して、私には反論の余地がない。黙っているしかなかった。
「ところで咲、いや、一枝のことですが。」
「ふむ、そういえば夕方車を遣ったのに、二人で手に手を取ってタクシーで帰ったらしいな。」
「僕は彼女を愛してます。」
「ほおう。それはいい。関東弁の学生と愛らしい舞妓、これは絵になるよ。少しばかり時代錯誤の感は否めないがね。」
「茶化すのはよしてもらいましょう。」
「これは本心だ。ちょっと妬けたのさ。」
「一枝の実家の借金のことですが。」
「ふむ。」
「僕が、いや、母に借りて僕が支払います。」
「ママに頼もうというんだな。」
「どう取ってもらっても結構です。」
「その件は俺に預けてもらおう。悪いようにはしないつもりだ。」
「どういうことですか。僕は少しでも早く彼女の心を軽くしてやりたいんですよ。」
「分かってるさ。少し時間をくれ、と言ってるんだ。一枝と彼女の両親には一切迷惑はかけん。今後は俺とお前で話を解決すればいいだろう。お前んとこは、レストランだったなあ。お前のママもいる?」
「はあ。夜は店に出てますが、母に何か。」
「金を立て替えようという人を無視するわけにはいかんだろう。三人で食事をしながら事情を話したい。明日は大丈夫か。」
「何とかしましょう。」
先輩は何を話そうというのだろう。ともかく母と一緒に話を聞くしかない。しかしその前に私が母に話を聞かねばならなかった。
母にどう切り出したものか、私はすっかり困惑していた。悪夢にも似た遠い記憶が最も忌むべき形で現在に繋がってしまった。私の脳裏に再びあの忌まわしい言葉が蘇ってきた。
夢の中で先輩が咲を抱きながらこっちを振り返って言ったあの言葉だ。
「歪んだ幻が、現の世界を駆逐する。」
私が見たあの母の姿は幻などではなかった筈だが、今更どうだってよかったのだ。とてもリアリティのある、荒唐無稽な夢、それでよかった。ところが今、明らかに現実を侵食し始めていた。
夢に登場する不可解な言葉、なんとも奇怪な話だがそれがここまで暗示的に現実を反映していようとは、不気味としか言いようがなかった。こうなると先輩と咲が体を貪り合っていた光景もとても気掛かりになってくるが、取りあえず今はそれどころではなかった。
散々考えあぐねた末、結局母には何も言わないことにした。というより何も言えなかった、というべきなのだろう。少なくとも時効が成立するまではこの話題に触れるべきではない。いや、もうこの事は忘れるべきなのかも知れない。それが息子である私の、採るべき最良の方法なのではないか。
心の中に後ろめたさは残ったものの、正義とか信念とか、そういうものとの葛藤を人知れず背負うことに躊躇いはなかった。すべては母の為だ。少しばかりの心の苦しさなど厭(いと)うべきではない。きっと母の苦悩はこんなものではない筈だ、思いつつ、ふっと母の顔が浮かんだ。涼やかで、そんな大それた罪を犯したようにはとても見えない。
今日私が葬式で見てきたあの遺影の方が何かの間違いだったのではないか、と錯覚するほどだった。
母はとても若く見えた、それは少年の頃掻き立てられた想像力が、あながち妄想とも言い切れないくらいに(吸血鬼は年を取らない)。しかし私はそこにもこの事件との係わりを感じた。母はあの時から年を取っていないのではないか、と。
私は母に、先輩の兄の事件を話していた。母に礼服を出してもらう時その話を、聞いたまま伝えていた。
母は一体どんな気持ちで聞いていたのだろう。何か運命的なものを感じたのだろうか。
前の彼女が私を、人の気持ちの理解できないエゴイストと言った(彼女は自ら怒りを掻き立てながらそれを私にぶつけた)。私には無意識のうちに人の心を傷つけてしまうところがあるのだ。
今度の場合少し事情は違うかもしれないが、でも知らないうちに、漸く癒えかけた心の重石(おもし)を再び母に突き付けたのは、誰あろう息子の私なのであった。これは私に運命付けられた役回りなのだろうか。神は母を許すことはないのだろうか。
菅原先輩が明日の夜うちに遣ってくる。母にテーブルの予約を依頼した。
加害者と被害者の遺族、母と先輩を引き合わせるのは想像以上に疲れる作業になりそうだ。セッティングだけでもこれほど気を使わねばならないのだから。勿論母も先輩も、私のそんな苦労を知るはずもないのだが。
母はどうして咲ちゃんを呼ばないの、と言った。
そのことは私も先輩に質(ただ)した。
「彼女にはショッキングな内容を伝えることになると思う。親思いの一枝にはとても辛い話になるだろう。彼女は冷静でいられないばかりか、精神的に参ってしまうに違いない。
無論うちの馬鹿親父の所為なんだが、お前が全部承知した上で出来るだけショックを受けないように伝えてほしいんだ。俺が言うのも妙な話だが、そういう汚らしいものから守るのはお前の役目だろう。今夜正確な報告が届く。それを明日話す。」
私は気になることを聞いてみた。
「先輩は彼女が好きなんですねえ。」
「ああ、好きだよ。俺のような孤独な人間が、唯一安らげる女だ。何より穢れがまるでない。だが、愛とか恋とかじゃあない。やっぱり妹なんだろう。それは彼女も、同じなんじゃないのかなあ。まあ安心しろ、俺たちに恋愛感情はない。あるとすれば、身内を思い遣るような気持ちだ。」先輩はそう言った。
母が先輩の為に用意したのは,VIP用(といっても主に芸能人だが)の個室だった。
うちの店はなかなか由緒があった。先輩が来るまでにこの店の由来めいた話を若干加えておかねばならない。店の歴史とそれに纏(まつ)わる人々は、私と母の現在に少なからず影響を及ぼしていると思われるからだ。
この建物は元、さる華族の別邸だった洋館が、凋落(ちょうらく)と共に捨て値で人手に渡るところを、主筋の困窮を見兼ねた曽祖父がかなりの高額で買い取ったものだった。当時曽祖父は事業が軌道に乗りここを事務所として使用していた。その後祖父の代になって事業を畳まざるを得ない状況に陥った時、一人の青年が訪ねて来た。
「私は、ここを買い取って頂いたお蔭で、フランスに料理の修業に行くことが出来ました。」
彼は凋落した元華族の、曽祖父の当時の当主の、孫に当たる人だった。その後も、その元華族の家との交流は続いていて、祖父が事業の継続を断念せざるを得ないことや、場合によっては洋館も手放さざるを得ない状況なのを、過日報告に行った矢先のことであった。
青年は、自分は日本に戻ってまだ日も浅いのだが、あまり格式張らずに楽しめるフランス料理店をやってみたいのだ、と言った。
「ご無理なら仕方ないのですが、もし可能だったら、状況が許しあなたがお嫌でなければ、私とここでレストランをやってみませんか。」
じっくりと彼の話に耳を傾けるうち、祖父はその申し出に可能性を見出した。
祖父は訪ねて幾日も経っていないその家に再び出掛けて行くことになった。勿論青年の料理を食べる為であったが、そこに足を踏み入れる度に祖父はきっと心が痛んだのに違いない。最早昔の面影はなく、敷地の粗方を失い辛うじて残ったのは母屋のみであった。
一度は辛い報告に行ったその家に、祖父は一縷(る)の望みを託して向かったことだろう。
彼の料理を味わい、数日考えさしてほしい、と言った。心はすでに固まっていた。後は資金面だけだった。
借金を返し、洋館を然るべく改築しなければならなかった。本当は洋館を売り、借金を返済し、残りを次の事業の資金に回すのが当初の計画であった。
祖父は決断した。先祖から受け継いだ自宅の方を売却することにしたのだ。病弱な妻と幼い子供がいたが、洋館で生活するのに不自由はなかった。
ロケーションは確かに抜群であった。八坂神社に程近く、円山公園も知恩院も目と鼻の先だし、散策がてら少し歩けば清水だって、南禅寺だってお参りできる。ちょっと足を伸ばして哲学の道を歩き、銀閣寺まで行ってみるのも面白い。
二人は相談の結果、昼間は観光客中心にフレンチというよりはそれをベースにした洋食屋に徹し、そして夜に、本格的なフランス料理店をやっていこうということになった。
これは現在も継続しているうちの営業スタイルであった。
当然祖父も漫然とレジだけ打っていたのではなかった。独身時代からのワイン好きに磨きをかけ、青年のアドバイスを受けながらソムリエの真似事を始めた。ソムリエはその後父が引き継ぎ、父が夭折(ようせつ)したのち私が小学校にあがってからは母が勤めた。
店は繁盛する要件をすべて満たしていた。とくにこの異国情緒溢(あふ)れる洋館で味わうディナーはムード満点であった。やがて口コミで広まりだすと芸能人などもチラホラ来店するようになり、そういう人々がゆっくり食事できるスペースが必要になってきて、それで作られたのが今夜我々が会食する、この個室であった。
因みにその時の青年は、現在もシェフとしてこの店のすべてを取り仕切っていた。当初祖父と青年と給仕の三人だったこの店も、今では厨房だけで五名、その中にはここを始めた頃のシェフを彷彿(ほうふつ)とさせる彼の長男も、手腕を振るっていた。
以上が母やシェフから聞いたうちの店の概要であり、母が、開店から主動的な立場で係わってきた老シェフに、全幅の信頼を置いているのは至極当然のことであった。
母に先輩を紹介した。先輩はきっと母の若さに驚いているに違いない。平静を装ってはいるが先輩が動揺しているのが、私には手に取るように分かった。妙にそわそわしている感じが伝わってきた。私はそんな先輩の姿を一人密かに楽しんでいた。
馬鹿な冗談を言っていても、高みから見下ろされているような印象を受ける先輩であったが、今日はどこか様子が違っていた。
母が用意した赤ワインを注いでもらう時、微かに手が震えていたのを私は見逃さなかった。普段何かを褒(ほ)めるということの殆どない先輩だが、その日は出てくる料理を片っ端から褒めちぎり、最後に必ず、それにしてもこのワインが絶妙に料理を際立たせますねえ、と付け加えた。
その日は意外なことが次々と起こった。先ず、急に話の鉾先が私の方に向かってきた。
きっかけは母の一言だった。何でそんな方向に話がいったのかは不明だが、ともかく母が、
「この子は母一人子一人なものでね、私好みの男に育てようと頑張りすぎちゃったものだから、意固地で融通の利かない人間になっちゃったのよねえ。」と言った。
「お母さん、というのもちょっとピンと来ないなあ。正直言って僕の同級生くらいの女性にしか見えませんからねえ。玲奈さんとお呼びしてもよろしいですか。」
先輩は既に動揺から立ち直り少し余裕を見せ始めていたが、それにしてもこの人は一体何をしに来たのだろう。母におべっかを言いに来たようにしか見えなかった。母も母で、まあお上手ねえ、と言いながら満更でもなさそうであった。
「玲奈さんはそんな風に仰いますが、実際彼は本当にいい男に育ってますよ。真っ直ぐで正義感が強く、理不尽なことは見過ごしに出来ない。彼は立派ですよ。この間の、監督に退部届けを叩きつけた一件なんて、伝説として代々語り継がれるほどの武勇伝ですよ、まったく。」
私は思わずワインを気管の方に送り込んでしまった。母には退部したのではなく、引退の時が来たという風に言っていた。ましてやそんな武勇伝なんて話す筈もなかったのだ。
私が苦しそうに咳き込んでいるうちに母は先輩に、一体何のこと、と聞き返していた。私は先輩の言葉が聞き取れないように大きな咳払いを繰り返していたが、すでに後の祭りだった。きっと後で私は、母のお小言を頂戴することになるだろう(結局お小言は頂戴しなかった、この後想像もしない方向に話がいってしまい、そんなことどうだって良くなったのだ。母にお小言を頂戴することの幸せを私は思い知ることになる)。
コースは粗方終わり最後にデセールが運ばれてきた。
給仕の立ち去るのを見計らって先輩が突然立ち上がり、その場にペタリと這い蹲(つくば)った。よく見ると先輩は土下座をしていた。そして母と私に向かって、
「本当にこの度はうちの馬鹿親父が、とんでもないご迷惑をお掛けいたしました。」
と言った。私は何が起こっているのかまったく理解出来ず、ただ唖然とするばかりだったが、母は音もなく立ち上がり俊敏に先輩のもとに行くと、肩に手をやって抱き起こした。
私は一瞬先輩と私が入れ替わったような錯覚に陥った。私が母に抱かれているような気がしたのだ。母は、子を諭(さと)すように先輩に語りかけた。
「そんなことしなくていいのよ。あなたが悪いんじゃないんだから。」
母はあの目でじっと彼を見詰めた。咲の時のようにぐっと顔を近付けて。やがて先輩は泣き始めた。やはり彼の心は裸にされてしまったのだろう。ところがその後がいけなかった。先輩はあろうことか、母の肩に泣きながら顔を埋めたのだった。
人の母親に、それも息子である私の目の前で、である。おまけに母まで彼の背に手をやり、トントントンとあやすように軽く叩いてやっていたのだ。
母は先輩を椅子に座らせると、ハンカチで涙を拭ってやりそのまま彼に手渡した。先輩は次第に落ち着きを取り戻し、すべてを打ち明け始めた。
今度の詐欺事件は何もかも仕組まれたものだ、というのであった。父親が咲の親の店に出入りする客を調べ上げ、その中で多額の債務に喘いでいる者を選んで、高額の報酬を餌に持ち掛けた話だったのだ。
「そんな刑事事件になるようなことをしでかして、一体割りに合うんだろうか。」
私は素朴に、思った疑問を口にした。
「それは君が、苦労知らずのボンボンだからそんなことが言えるんだ。追い詰められた人間は大概のことはやる、夜逃げするんだって金は要るんだ。」
私は、人の事をぼんぼんと言う前にあんたはどうなんだ、僕なんか足元にも及ばない大企業の御曹司じゃあないのか、それにそもそもそんな人間を作り出しているのはあんたらじゃあないのか、と言っている自分を想像しながら何とか溜飲(りゅういん)を下げた。もしそんなことを言えばどうせ、
「君もこの前、うちに来てそんな体質変えてやる、と言ってくれたことだし、二人で手を取り合って頑張ろう。」
などという方向に話を持っていくに決まっている。
まあともかく、私のことを君というのは気色悪かったが、それでも今の言い回しはとても先輩らしくってほっとした。
更に先輩は驚くべきことを言った。
「親父を自首させようと思っています。実行犯二人、つまり咲ちゃんの両親の店に出入りしていた造園業者と、不動産屋の役をやった男は直後に裏ルートで東南アジアに密航したそうです。無論すべてうちの親父の差し金ですが。」
この時私は、先輩が咲の本名を知っていたことにも気付かない程驚いてしまった。
「そんなことをすれば大変なスキャンダルになって、会社だって危ないんじゃないんですか。」
「かも知れない、だがそれでもいいと思っている。もし親父が言うことを聞かないのなら、僕の握っている証拠を警察に持っていくつもりさ。」
「そんなことをして咲が喜ぶとでも思っているんですか。彼女は先輩を兄のように慕っている。いくらあなたのお父上が裏で画策したとしても、咲はそんな形での結着を決して喜ぶはずがない。あなた方の会社を駄目にし、あなたを不幸にしてまで彼女が復讐を願うと、あなたは思いますか。きっと彼女は何もかも自分の所為だと思い込んで精神的に参ってしまいますよ。これ以上咲の心を傷つけないでもらいたい。」
私は咲がこれ以上傷つくのを、黙って見過ごすことなど出来なかった。
私の言葉は、先輩にもさすがに応えたらしく、しょんぼりしながら自分の身の上話を始めたのであった。
「確かにその通りだ。これ以上咲を傷つけたくない。ただこれは僕にとっても復讐なんだ。僕の母も咲と同じように親の借金で雁字搦(がんじがら)めにされて、妾にさせられた。母の両親、つまり僕の祖父母が大金を借りたのは大京信販、ハピネスの前身さ。おまけにその借りた金は、詐欺に遭ってすべて巻き上げられたんだ。今度の場合とまったく同じだよ。
奴の手口は相も変らずワンパターンなんだ。旨い話をああいった連中を使って持ち込ませる。もしかしたら親父の奴も見知らぬ客を装ってその話に加わり、何なら自分が低利で融資してもいい、プロの自分の目から見ても間違いのない話だ、くらいのことは言ったかもしれない。
そして実際にサラ金とは思えない低利で、しかも無担保で、担当者を寄越し話を進めさせる。とんとん拍子に話は進み、貸付けは実行される。しかしその金は持ち逃げされる、と言う筋書きさ。当然月々の支払いも現在の収入では到底払うことなど出来ない。貯金だってすぐ底を突く。やがて奴は目当ての女を手に入れるという寸法さ。
ちっぽけな商店や町工場に、担保もなしに大金を貸してくれるところなんてありゃあしない。そこが奴の付け目なんだ。
結局母親は、僕が五歳の時に死んだんだ。自殺だったと知らされたのは高校に入ってからだった。奴は僕が一枝をお座敷に呼んでるなんて、考えもしなかったろう。それが運の尽きさ。」
「あなたの許し難い気持ちはよく分かるわ。しかも咲ちゃんの心情を思い、それを断念しようとしている。あなたの心には憎しみと慈愛が満ちているわね。」
母は更に話を続けたが、内容は私のような凡人にはとても理解し難いものであった。母は本物だ、有名な占い師にだってこんな能力ないに違いない。
「私見える。あなたの瞳が邪悪な光を宿しているのを。でも同時に、それを完璧に制御する高邁(こうまい)な精神が存在する。荒馬を自在に乗りこなす天才騎手のように。悪を抱え込みながらそれを粉砕し、心のど真ん中に正義をしっかり据えているあなたはとても強い人ね。」
「そんなことありません。僕の心は脆(もろ)い。とても脆弱で、悪に呑み込まれてしまいそうになります。」
「あなたは大丈夫よ。最後には打ち勝つ。そういう心がやがて辿り着く高みが、慈悲、というものなのかも知れないわねえ。」
私にはちんぷんかんぷんで、まるでお釈迦様と高僧の会話のように聞こえた(もちろん母がお釈迦様だ)。
「ありがとうございます。」礼を言う先輩の表情がとても安らかだった。迷える魂が漸く自らの行き場を見出したように。
「お礼を言うのは私の方よ。今日あなたに会って私も分かった。あなたは私を裁くために来たのね。」
母が裁く、という言葉を使ったときとても嫌な予感がした。私は殆ど条件反射のように訳の分からないことを呟いていた。
「ママそれは違うよ、気のせいだよ。そんなことあるはずないよ。」
リフレインのように同じ言葉を繰り返していた。
果たして先輩は、どういうことですか、と母に問い返した。
「私たち三人は、いつかこうして集まることが運命付けられていたようね。あなた方二人の前ですべてを明らかにする時がやって来たらしいわ。」
「何を言ってるんだい、ママ。今日は先輩の話を聞く為に集まったんだよ。ママの話はいいよ。」
私はこれ以上母に喋らせないよう躍起になったが、結局母の口に戸は立てられなかった。
お黙り、俊。と私を窘(たしな)めると再び話を続けた。
「菅原さん、あなたのお兄さんを殺したのは私よ。」
|
|