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作品名:ぼんやりとまあるい幻のような月 作者:ナナヲ

第3回   三、東屋での会話
こんな時の為に私は予めハンカチを忍ばせていた。彼女が腰掛けようとする場所に敷いてやりその横に私も座った。

「おおきに。」一枝は快く腰をおろすと周囲を見回しながら、

「ここはほんまに風情のあるとこどすなあ。」と言った。

私が大きく頷いたことは言うまでもない。

「昨夜はごめん。あんな風になるとは思わなかったんだ。ここの蛍があまりにも勿体無いから、つい先輩にあんな口を利いちゃったんだ。」

取りあえず気になっていたことを謝った。

「なんも謝らんでもよろしおす。ここの蛍見たら、いろんな人に見せてあげたい思うのん無理おまへん。それにあんさんがあない真っ正直なお方やとは思いまへんどした。うち、ちょっと感動しました。」

私は思わず両手で彼女の手を取っていた。そして、ありがとう、と心から礼を言った。

私はそのまま彼女の左手を両手で包んでいた。とても滑らかで柔らかな感触だった。離してしまうのが限りなく惜しい気がして、そのまま更に話を続けた。

「ところで先輩と諍(いさか)いになる前、君にまた会ってほしいと言ったこと考えてくれただろうか。」

一枝の表情が曇った。実を言うと、私にはその反応がとても意外であった。高を括っていたと言ってもいい。彼女は私を好きではないまでも好意は抱いている、と考えていたのだ。

「堪忍しとくれやす。」

私は手を離さざるを得なかった。やはり女性の気持ちというのは私などには少々難解すぎたようだ。

「そうか、他に好きな人がいるんだね。」

菅原先輩の顔がちらついた。

「そんなんと違うんどす。うち、・・・」一枝は口籠った。

「お手懸(てか)けさんならなあかんのんどす。」消え入りそうな声で言った。

愕然とした。少女と言っていい程あどけないこの女性を、一体どこの誰がそんなものにしようというのだ。言いようのない怒りが込み上げてきた。

「駄目だ。そんなものになっちゃいけない。僕は絶対許さない。」

またしても私は感情の昂ぶりを抑えきれなくなっていた。

「僕は君が好きだ、離したくない。何ならこのまま逃げたっていい。」

「将来のあるお方を、そんな目えに遭わすわけにいかしまへん。それにうちら、おうてまだ丸一日もたってまへんのんえ。そんなこと気軽に言うもんやおへん。」

私はその時、一枝と昨日の夕方会ったばかりだったことを思い出した。いつの間にか私は、急坂を転がり落ちるように(この表現は決して適切とは思わないが)、彼女に傾いて行った。これほど急激に人を好きになったことなどかつて一度もなかった。

ともかく彼女をそんな不法な目に遭わすわけにはいかないという思いが募った。

「時間なんか関係ない、僕は自分の気持ちを正直に言っているだけだ。君が僕を嫌だと言うんなら僕はきっぱりと諦める。」

私の率直な思いが少なからず彼女に伝わったようだった。

「うち、なんでここに連れてきてもろたか、あんさんお分かりになりますか。」

私は返答が見当たらずポカンとしていた。

「うちが菅原はんに頼んで、学生さんに会う場あをわざわざ作ってもろたんは・・・」

一枝は口籠った。

「どうしたの。」

「片思いするためどす。」

この時私は何のことか理解出来ず、情けない程の間抜け面をしていたことだろう。やがてその訳を聞いていくにつれ、相手の男への言い知れぬ怒りと一枝という女性の哀れさ、そして彼女に対する締め付けられるような愛情を強く感じざるを得なかった。



彼女が舞妓になったのは、子供の頃からの強い憧れからであった。

「いつもええべべ着て、綺麗に髪結うて、舞妓さん通らはるたびにうち、いつまでも見惚れてましてん。」

花やかな舞妓の姿は強く少女の心を擽(くすぐ)り続けたようだ。中学を卒業すると伝(つて)を頼ってこの世界に入った。踊りの練習はその方面の素養がある訳でもなく辛さも一入(ひとしお)だったが、それでも決して嫌いではなかったので充実感も強く感じていた、そこまでは昨夜聞いていた。

そんな彼女が何故、そのような酷い目に遭わなければならなかったのか。

一枝の両親は小さな店を出していた。

花見小路(はなみこうじ)の少し奥まった辺りで古い町家を借り少々改築を加えて、郷土料理「島人(しまんちゅ)」をオープンしたのは、漸く彼女が物心のついた頃であった。

一階が店舗で二階が住居、彼女は二階の窓からいつも外を見て、舞妓さんが外を通る度胸をときめかせていたのだ。

商売の方は必ずしもうまくいっているとは言い難かったようだ。

「うち中学生の時、店のこと憎んでましてん。親は下におるけど、朝から夜遅うまで店のことばっかりで、一緒に晩御飯食べんのんかて週に一回の定休日だけで、それも休まへんことようおした。店が混んできたら下りていって手伝うんはええにしても、けど大概は閑で、家にはいっつもお金がないよって子供心に心細おしたし、家族一緒にどっか出掛けるいうことあらへんし。何でおとうちゃんこんなこと始めたんやろ、思てましてん。」

しかし彼女の父は、「島人」に夢と、彼なりの使命感を抱いていたらしい。

一枝の中学校(因みにここは私の母校でもある)の卒業式も間近に迫ったある日(この時は既に一枝が花柳界に進むことは決まっていた)、家族でUSJに出掛けた。家族で出掛けるのは本当に何年か振りのことだった。

父と二人で乗り物に乗った。母は外でカメラを構えていた。父は時折島のアクセントが顔を出す。

「すまんかったなあ、おまえには何一つ楽しい思いさせてやれなかった、堪忍やで。お父ちゃんなあ、あんな儲からん店やけど、故郷(ふるさと)の料理ここで広めたいんや。沖縄の料理ておいしいさあっていうてもらうんが夢なんや。」

一枝は思わず涙が出てきた、と言った。

「ううん、なんくるないさあ。」父の言葉で答えた。

彼女はこの話をしながら涙を浮かべていた。

「うちなあ、この時きつう思いましてん。この人らの子に生まれてきてほんまによかったって。」

一枝はとても優しい女性なのだ。彼女の家は貧乏ではあったかもしれないが、善意と思い遣りに満ちていたのだろう。

ところが状況は次第に好転していった。客が増え始めたのだ。彼女が毎日稽古事に明け暮れていた頃、そういうメールが度々送られてくるようになった。少し忙しくなって今度夜だけ女の子を雇った、とかそういう類のものであった。

「まあ、苦労した甲斐があったんどっしゃろなあ。最近は焼酎が人気あるし、ようテレビなんかでも沖縄の旅とか食べ物とかやってますよってなあ。やっと世の中に受け入れられるようになってきたんかも知れまへんなあ。」

一枝は両親とのメールの遣り取りや、夜遅くたまに掛け合う電話をとても楽しみにしていたのだった。

弾んだ声で彼女の父親が電話してきたのは、ほんの三ヶ月前であった。

「今ええ話があってなあ、烏丸(からすま)の表通りに店出せるかも知れへん。共同でやりたい言う人がおってなあ、開店からのうちのお客さんで本島出身の人さあ。」

父の話は一頻り続いた。洛西で造園業を営み大金持ちであること。京都で沖縄の味を広めたい、という夢に賛同しちょっとした飲食でも、五千円、一万円と置いていってくれること。あの人は京都の沖縄出身者の誇りさあ、とまで言った。そして今度その人が一緒にやろうと声を掛けてくれたのだ、と言う。

「もちろん共同経営いうことで、それなりのお金も用意せんならんけど、お父ちゃん最近ちょっとやけど貯えも出来てきたし何とか工面して、やってみたい思ってる。それにあの人と一緒やったら何があっても安心やしなあ。」

一枝は少し心配ではあったが、長年の父の夢が叶うのであればと快く賛成した。

その後メールは来るが、電話が掛かって来なくなった。新しい店の事でそれどころではないのだろう、と思い彼女も連絡を控えていた。そんな状態が続き、さすがに心配になって自分の方から掛けてみると、いつもと変わらぬ父の声であった。だがあの時のように弾んではいなかった。少し躊躇われたが新しい店の事を聞いてみた。

「あれなあ、いろいろあって中止になってしもた。」

父の声がとても寂しそうだった。

それから暫くして、あるお座敷の後で客に折り入って相談があると声を掛けられた。

ちょっと野暮な話なので後日会いたい、ご両親のことで大切な話がある、と言うのだった。

彼女は両親に電話出来なかった。胸騒ぎがしたのだ。漠然とした恐怖を現実の具体的なものとするのは、一層恐ろしいことであった。

その男の話を聞いて一枝は愕然とした。父は詐欺に遭っていたのだ。

その男は金融業者で、父に融資した会社の社長だった。彼女の父は二千万以上の金を借り入れており、詐欺されたことを明かした上で返済期間を三倍に延長してくれるように頼みに来た、というのだ。

「わしも大概あんたが気に入ってかよて来てる人間や。うちの社員が保証人(例の造園業者だ)の名前信じて、よう調査もせんと融資しよったんも間違いないし、あんたさえその気があるんやったらそんな金、帳消しにしてもええんやで。それどころかわしがその共同経営者になってもかめへん、何から何まで全部ひっくるめて面倒見さしてもらうでえ。

そやけどなあ、なんもなしに期間を三倍に伸ばしてくれいうんは困るんや、うちも商売やよってなあ。どおや、いっそ嫁さんになってもらういうんは。そうなったら何もかも身内のことや、決して悪いようにはせえへんで。わしも長いこと独り身やよって、あんたに来てもろたら願ったり叶ったりや。」

両親の店も最高の場所を提供する、というのであった。

一枝は母に電話した。父の声を聞くのは忍びなかったし、どうせ、お前は心配せんでええ、などと言うのは分かりきっていた。母がよそよそしく後で掛け直すと言って携帯を切ったのは、父のいない所から掛けてくるつもりなのだろう、と理解した。

母の話を聞いていくと、これはかなり周到(しゅうとう)に計画されたものだと一枝は直感した。

まず父はその沖縄出身の造園業者の家へ何度か足を運んで、新しい店の計画を二人で練っていた。相手の妻にも紹介され、食事の供応なども受けて微塵も疑いを差し挟む余地などなかった。

両親は実際に、自分たちの店が入るべきその新築ビルの一階、想像以上に巨大な空間にも不動産屋立会いのもと確認にも出掛けていた。そして契約を取り交わす際は関係者が皆造園業者の自宅に集まり、実印や印鑑証明もちゃんと用意して、何の不審も感じなかった、と母は言った。それに権利金や工事代金等もその時点では手付けだけで、殆どは数日中の振込みという形で即、金を要求するのではなかった。

騙されたと気付いたのも大分日数が経過してからであった。造園業者はやがて姿を晦まし、不動産屋とも連絡が付かなくなったのであった。それでも父は、あの人に限ってそんなことあるはずない、と譲らなかったのだが現実に男の家に行って見ると、そこは既に差し押さえにあっていたのだから、最早認めざるを得なかった。父親の落胆が甚だしかったことは言うまでもない。

「警察には行ったん。」

「松原署の知能犯係、いうとこへ行ってきた。」

母の声は本当にしょんぼりとしていた。

「お母ちゃん、気い落としたらあかんえ。うちになんか出来ることあらへんの。」

「おおきに、心配せんかてええ。二人で頑張ってみるわ。あんたは自分で選んだ道、一生懸命歩いていき。」

母の口振りはまるで、もう会うこともないようにすら感じられた。

「お母ちゃん、ちょっとやけどうちも貯金あるし全部つこて。それにうち、お客さんに心当たりあるしそっちの方当たってみるよって、絶対諦めたらあかんえ。」

ええなあ、と念を押して携帯を切った。

一枝は涙が止まらなかった。どうしてあんな人のいい両親を騙(だま)したりするのだろう、どうして自分たち家族をほっておいてくれないのだろう。両親は絶対自分が助ける。あの男の顔が、ちらついた。どうすればいいのだろう、自分の貯金なんて知れている。

様々な思いが渦巻いて到底眠ることなど出来なかった。くたくたに疲れきった精神は思考力を奪われ、いつしか彼女は闇の只中にいた。あの男が追い縋っていた、ヒタヒタと後ろに迫って来ていた、ああっ捕まる・・・恐怖に身震いしながら覚醒した。束の間眠っていたらしい、しかしその眠りは、決して心を癒してくれる類のものではなかった。

混濁した頭の中で一つの思いが彼女に芽生えていた。両親を破滅させる訳には行かない、自分が辛抱すれば何もかもうまくいく、心を凍り付かせれば何とか耐えていける、と。

勿論結婚なんて考えられない、お手懸さんでいい。

翌朝彼女は突飛な行動に出た。かねて、兄と慕う菅原先輩に連絡を取り、すべて打ち明けた上で言ったのだった。

「うち、人を好きになりたいんどす。片思いでええよって、綺麗な体のうちに心底人を愛したい。だれぞええ人紹介しとくれやす。」

先輩は、俺でどうだい、とは言わなかった。

「男のリクエストはあるかい。イケメン、がっちりタイプ、秀才型、何でもいいよ。」

「学生さんで、真っ直ぐなお人がよろしおす。」

「うん、それなら打って付けなのがいるよ。」

私に白羽の矢が立ったわけだ。不謹慎だとは思ったが、私は彼女が言った綺麗な体のうちに、の意味を考えていた。この言葉はやはり、そういう意味なのだろう、だったら尚更そんな因業金貸しなどに渡すわけにはいかない。私の心は燎原(りょうげん)の火の如く燃え盛った。

一つ気になることがあった。それは解明されるのを待っているかのように、そこに立ちはだかっていた。

「先輩とどうしてそんなに仲がいいの。」

「一人っ子のうちには、なんや兄のような感じがするんどす。初めてお父はんに連れられて遊びに来はってから、一人でちょこちょこお見えにならはっては、うちを呼んでくれはるんどす。お前とおると妹が出来たようで楽しい、言わはって。うちもほんまそんな気いがしますねん。あのお方も一人っ子みたいなもんやし、お母はん早ように亡くしたはりますよってなあ、きっと寂しおすのや。それに・・・」

一枝はそこで言葉に詰まった。

「それに、どうしたの。」

「言わなあきまへんやろなあ。縁あってあんさんがここに来はって、うちのこと好きやとまで言うてくれはった以上。」

それでも彼女は暫く口籠っていたが、やがてきっぱりとした口調で、

「その金融業者の社長いうんは、菅原はんのお父はんどんねん。」と言った。

私は仰天した。菅原先輩の真意を計りかねた。ただ彼が、一枝の側に立った人であることは間違いないと思った。

待てよ、私の中にある疑念が生じた。先輩は一枝に、イケメン、がっちりタイプ、秀才型の中から好みの男を選ばせている。イケメンの基準なんて、あって、ないようなものだ。男が百人いれば百通りのイケメンが存在する、余程酷くない限り誰だってイケメンだ。

がっちりタイプ、これに関してはスポーツに血道をあげてきた私は正に打って付けだ。最後の秀才型、私はスポーツをやっていながら、スポーツマンを毛嫌いするようなこましゃくれたところがあって、これをして秀才型と言うならそう言えなくもない。

要は、始めっから先輩は私を選ぶつもりだったのではあるまいか。もしかしたら一枝から相談を受けた先輩は巧みに彼女の気持ちを誘導し、私に逢わせるように画策した可能性すらあった。何故そんなことをするのか理解に苦しむが、おそらく私が一枝に逆上(のぼ)せ上がることまで折込済みなのではないのか。この先私がどういう行動を取るのか、自分でも分からないことまで彼は承知しているのだろうか。彼にとって私の性格から類推される私の行動は極めて分かり易いものなのかもしれない。すべては先輩の掌の上のことなのだ。

私はそれに乗ってみる気になっていた。



小径を源流の方に遡りながら、私は一枝にとても厚かましい問い掛けをしていた。

「君は僕を、好きになってくれる。」

「そんなこと、おなごの口から言わせるもんやおへん・・・けど、昨夜菅原はんと大きな声で口論しといやしたん聞いてて、うち思たんどす。ほんま、真っ直ぐなお方やなあて。」

私と一枝は、限りなく透明な泉の底でキラキラと真砂(まさご)を吹き上げ続ける源流を無言で見詰めていた。割り切れぬ思いが目の前の源流さながらに沸々と湧き上がっていた。

「僕に任せてくれ、決して悪いようにはしない。」

私は一枝の手を取り無理矢理引っ張っていった。



私たちはタクシーに乗り、一直線に私の家に向かった。母に頼るのは少々みっともない気はしたが、今はそんなことを言ってはいられなかった。

私は運転手に、「少し急いでもらえますか。」と言った。

午後の眩しい京の町並みが、私の左右で、ぐるぐる回転しているように感じられた。


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