露天風呂は定番とも言える岩風呂で、湯が滝のように注いできてそれが打たせ湯になっていた。それは蛍の棲む小川の流れる雅な日本庭園に面していて、歳月の経過がどこか床しく感じられる以外は、特に何の変哲もない造りであった。
私は仁王立ちになって打たせ湯に打たれていた。落下するお湯の刺激は殊の外心地よく、うっとりと目を瞑っていた。
「いやあ、混浴やねんやわあ。」
私は予期せぬ一枝の声に、愕然として目を開けた。
そこに立っていたのは紛れもなく一枝で、手拭いで前を隠してはいるが片方の乳房は露わだし、陰毛も微妙に透けていた。
人のことは言えない。私はと言えばまるで見てくれと言わんばかりに丸出しなのだ。
「ご、ごめん。すぐ、すぐ向こうに行くよ。」
「まあ、よろしいやないの。もうしっかり見てしもたし、今更慌てんかて。お風呂入りまひょ。」
一枝はさすがだった。私はすっかり動揺してその場に立ち竦むばかりだった。彼女に促されて漸く風呂に入ることができた。一体今何が起こっているのか理解すらできなかった。
私はいつの間にか女湯に侵入してしまい、のっぴきならない状況にいるような錯覚に陥っていた。
「本当にごめん。間違って入ってきちゃったんだ。決して悪気はなかったんだ。」
私はお湯に入ってからもうわ言のように呟いていた。
「なんもそんな謝ることあらしまへんえ。うちもなんも考えんとこっち来てしもたんやし、おあいこどす。」
彼女の言葉で私は何か憑き物でも落ちたように、平静を取り戻すことが出来た。
私たちはしばらく無言でいたがやがて一枝が、
「蛍、ほんま綺麗どすなあ。うち今日ここに来れてよかったわあ。」と言った。
「そうだねえ。」
実は私はそれどころではなかった。平静になるにつれて、チラチラと湯の中の一枝の裸身に目がいってしまい、体じゅうの血液が私の意志を無視してどんどん下半身に集中していき、いけない、いけないと思いつつも為す術がなかった。私の局部はもうこれ以上硬くならないだろうと思われる程、屹立を遂げてしまった。手拭いのない私は何気ない素振りでそこにそれとなく手をあてがったものの、それはほんの気休めに過ぎなかった筈だ。
ぴっちりと手で覆い隠すのは男としては却って恥ずかしい。大きくさえなってなければ隠す必要もないのだが、彼女の姿はあまりに魅惑的で理性で抑え込むなんて無理な相談だった。私は湯の中の自身のものを直視できず上空の蛍を見る風を装った、神経だけは一枝の裸身に集中させながら。そして彼女が私のものに気付いていないことを願いながら。
私はいつまでも湯から上がれずにいた。鎮まる気配がまるでなかった。すると一枝が、
「かんにんどっせ」と言いつつ立ち上がり、岩の滑らかな所を選んで腰掛けた。
私は彼女のすべてを見た。瞬間目が眩むようだった。恐ろしく甘美な夢を見ているのではないかと疑い、何度も瞬きした。果たして彼女は、消えることなく同じ姿でちゃんとそこに座っていた。
「うち学生はんと喋んのん初めてどしてん。」
「菅原さんと話てるじゃないか。」
「菅原はんは学生はんやおへん。若いけどれっきとした社会人どす。」
私ももう限界だった。このままだと湯中りで卒倒するかも知れない、一枝は学生と、もっと話したそうだし我慢にも限度があった。
「ごめん、僕も限界だ。」
そう言って立ち上がると、萎む気配のまるでないその部分を両手でしっかり隠しながら(とても男らしくない姿だとは承知しつつも)、一枝の視線を避けるように彼女の横の方に座った。きっと立ち上がる時見られた筈だが、勿論彼女はその事には触れなかった。
私はほっとした。
私たちはいろいろと話をした。大学のこと。クラブのこと。友人のこと。彼女のお座敷のこと。稽古事のこと。お客のこと。
彼女は十九歳だった。
「酒飲んじゃあ駄目じゃないか。」と言うと、
「固い事言うたらあきまへんえ。」と開き直った。
話すうちに漸く私のものは鎮まってきた。いつまでも大事そうにこんなものを両手で隠しているのは、かなりみっともない姿に違いないとは思ったが、まさか手をどけて醜い状態のものを彼女の前で晒す訳にもいかなかった。やっと今手を外せるまでになり、私は思い切って、不自然な印象を与えないようにそれとなく片方ずつ手を下ろしていった。
一枝はというと、一応手拭いで隠してはいるものの、もともと濡れて透けている上に話に夢中になるとそんな事はすっかり忘れてしまうようで、ふとした拍子にすっと体から剥がれたりした。ドキドキしながら私はその様子を見守った。
勇気を奮って彼女の視線の中に晒した私の分身は、本当に使えない奴だった。勿論その理由も分かっていた。一枝の裸身にすっかり魅了されてしまっている上に、自分が彼女の視界の中に在る事に舞い上がって、再び抑えが利かなくなってきたのであった。血流がそいつに集中してくるのが自覚された。
弱ったことだった。全く手に負えない。
私はもう一度両手でそこを被い、また温泉に浸かった。
一枝はそのまま立ち上がった。最早手拭いは彼女の体を被ってはいなかった。息を呑むほど優美な裸身が、私の視界の全てを奪い去った。
「お話いろいろ聞かしてもろて、ほんまおおきに。とても楽しおした。ほな、お先どす。」
この世にこれ程愛らしい笑みはないのではないかと思われるような、こぼれるばかりの微笑を浮かべ軽く首をかしげるように会釈して、風呂からあがっていった。なぜか一人取り残されたような気分になった。
せめて網膜の中に、一枝の体を隅々まで焼き付けて置こうと、必死で彼女のすべてを凝視した。特に岩風呂からあがる時の後姿は彼女の視線を気にする必要もなく、全神経を目だけに集中させて、下の位置から入念に目を凝らす事ができた。食い入るように見詰める事で、より鮮明に脳裏に取り込む事が可能だと信じた。連写ではなく、ワンカットを大切にした。殊に仰ぎ見る彼女の大切な処は目一杯ズームを利かせて、全身全霊を掛けて網膜に収めた。
とても素晴らしい入浴だった。何と官能的で甘美であったことか、些か逆上(のぼ)せはしたものの。私は菅原先輩に心から感謝した(勿論心の中でだが)。
体を拭いながら大型の扇風機に当たり、火照りを鎮めていると先輩が入ってきた。
「座敷の方に移動さしといたから、続きはそっちの方で遣っといてくれ。俺もゆっくり湯に浸かるよ。」と言った。
先程の川床の奥に座敷があって、再びそこに用意が調っていた。一枝もまだ来ていなかった。咽がカラカラだったので仲居さんに瓶ビールを持ってきてもらい、独酌で飲んでいた。
「あれまあ、一人でやったはりますのん。色気のないことどすなあ。うちがお注ぎしまひょ。」
一枝であった。私は彼女の声を耳にした途端、条件反射のように胸が高鳴りはじめた。
さっき目一杯網膜に焼き付けた映像が順繰りに現れては消えた。まるでデジカメの映像を一枚、一枚チエックしてでもいるかのように。
彼女も私と同じ、ここの浴衣を着ていた。ビールを注いだり注がれたりしているうちに、入浴していた時より更に親密な気分になっていた(勿論私の一方的な思い込みかもしれなかったが)。
酔いに任せて私は、くだらない野暮な質問を連発していた。殆どが彼女の私生活に関する、今日会ったばかりの人間のすべき質問ではないような事ばかりで、翌朝になれば慙愧(ざんき)に堪えないだろうと思いつつ。彼氏いるの、とか、先輩とはどういう関係か、とか、どうして舞妓さんになったのかとか、そういう類の奴だ。少なくとも私には大切な質問であったことは間違いないが。
その結果、彼女には彼氏もいないし、菅原先輩とは単に客と舞妓だけの関係ではないにせよ(その辺はかなり気になったが)、少なくとも好き嫌いの間柄ではない(と言うのは嘘ではなさそうだ)、ということが分かった。
無論話の折々に、出来るだけ不自然な感じを与えないようにそういう質問を織り交ぜたつもりだったが、何分かなり飲んでいるうえ一枝と二人っきりでいる気分の高揚も手伝って、我ながら相当理性の方が麻痺しているように感じられた。
きっと彼女に不快な気分を味あわせているに違いないという懸念が、濁った頭に漠然と浮かんだ。嫌われてしまったかもしれないという思いが強迫観念のように迫ってきて、挽回(ばんかい)しようと焦る程くだらないことを口走りさらに深みに嵌(はま)っていく悪循環が、私の心を凍らせた。ここはひとつ謝っておくに越したことはない、すべては酒の所為にして。
「何を謝っといやすのん。謝ることなんかあらしまへん。うち、ほんま楽しいにお話さしてもろてますのんえ。」
私はほんとにどうかしている、すべては取り越し苦労だったようだ、酔っ払って自虐的にでもなっているに違いない。それに引き替え一枝は全く素晴らしい、相手の気持ちを慮って決して傷つけない。商売柄という類のものではないと思う、それよりも彼女の気持ちの優しさによるところが大きいと感じた。このまま今度のことが終わって、人生の一コマが僅かに重なり合うだけなんて切な過ぎる。私はもっともっと彼女のことが知りたくなった。
私は自分自身に強く言い聞かせた。僕は酔っ払っている、僕の理性は完全に麻痺している。心の中で呪文のように唱えた。
私は今日会ったばかりのこの女性にとても素面(しらふ)では言えない事を、酒の力を借りて伝えようとしていた。
「もしよかったら、これからも会ってもらえないだろうか。」
私は一気に言った。
「へえ。」
彼女は戸惑っている風だった。私は畳み掛けた。
「何ならお座敷に来て貰ってもいい。」
「そんな事したらあきまへん。」
彼女はピシャリと言った。そして更に続けた。
「学生さんがそんな遊び覚えたら、碌なことあらしまへんえ。」
まるで諭(さと)すように年上の私に言うのだった。やがて何かを吹っ切ったように、
「うち、明日ここで、夕方までのんびり過ごさしてもらうことになってますねん。よろしおしたらご一緒しとくれやす。ええもん食べてお庭散歩して、のんびり夕方まで。ちょっと年寄りくさ過ぎますやろか。」
「いや、そんなことはないよ。でも、菅原先輩は。」私は菅原先輩の事が気になった。
もしかして夕方までのんびりするお相手を先輩が勤めるつもりなら、私はとんだ邪魔者という事になってしまう。いくら一枝に心を動かされているとはいえ、そんな無粋な真似だけはしたくない。
「菅原はんは朝早よう出はります。夕方までのんびりしていけ言うてくれはったんは、菅原はんどんねん。」
「そうなの、じゃあ僕も喜んでご一緒さして頂くよ。」
明日の朝、もう一度一枝と入浴するチャンスが巡ってくるのでは、と内心期待した。
一枝が私のグラスにビールを注いでいる時、先輩が呑気そうな足取りで帰ってきた。
「いや、いいねえ、その雰囲気。差しつ差されつ、というやつだね。俺にも一杯頼むよ。」
「明日一緒に残ってくれはるそうどす。」一枝が先輩に言った。
「いやあ、ここの雰囲気すごく気に入っちゃいまして。」照れ隠しに笑った。
「そう、それは良かった。それは何よりだ。」
先輩はちょっとオーバー過ぎる位喜んでくれた。
その後私は、先輩と一枝の間に恋愛関係か肉体関係が存在するのではないかと注意深く観察していた。実際どうなのか、勿論はっきりした事など分からない。どうもそういった関係ではないようだ、とは感じたが、完全に疑念が払拭された訳ではなかった。
我々は遅くまで飲んだ。不思議だったのは、客らしき姿が他に全く見当たらないことであった。私がここを訪れてからというもの先輩と一枝の他は、ここの従業員の女性以外誰
一人見ていなかった。
まだ日の高いうちから、小川を流れる風に吹かれながらずっと庭を見ていた。庭を散策する人影の一つや二つあってもいい筈であった。この季節、蛍が目を見張る素晴らしさなのに不可解な話であった。ここ程蛍を幻想的に観賞できる場所を私は他に知らない。
私は先輩に質問してみた。というより食って掛かった。こんな近場に、これ程素晴らしい施設がありながら誰一人利用しない御社の役員は無粋極まりないと。
酒の酔いも手伝って私は更に余計なことまで口走っていた。心のどこかで、あの運転手やその家族にもここの蛍を見せてやりたいと思ったに違いない。
「ここは一般の社員にも開放すべきだと思いますね。風流も解さない、役員連中専用なんて勿体な過ぎますよ。ここの受付嬢も仲居さんも絶対その方が喜びますよ。」
酔っていた、でなければ何の関係もない私がこんな差し出口を言う筈がなかった。
「そこまで言うんやったら、お前が変えたらええやないか。」
先輩の目がキラッと光った。しかも京都弁であった。
この目の輝きは紛れもなく現役当時のものだった。鋭い鉾先を相手チームの弱点に集中する、あの時の眼だ。当時鉾先は私が勤めていたが、今その鉾先は私に向けられていた。
「御免ですよ。僕は人の苦しみを糧にぬくぬく肥え太る仕事なんて、真っ平だ。増してその上に胡坐(あぐら)を掻いてアメフトをやる気なんて毛頭ない。」
すべて酒の所為だ。感情が私を無視して勝手に激している。自分でもとても極端な事を言っているのが分かった。
「結局お前は傍観者なんや。自分の手えは汚さんとはたからあれやこれやと文句だけ言う。そんなんは楽でええわ。それこそ偽善や。俺らよりまだ悪い。」
「違う、僕は偽善者なんかじゃあない。傍観していた事なんて一度もない。僕は真っ向から自分のすべてを賭けてぶつかってきた。」
もう子供の喧嘩だった。このまま泣き出していてもおかしくない。しかし先輩は違っていた。彼はハンターのように緻密に私を追い詰めていた。一枝を猟犬(こういう言い方は彼女に対してとても失礼なのだが)のように使って。
「まあまあ、そない角立てんと、まるで兄弟喧嘩や。」
「だってそうだろう。こいつは卑怯だ。」
先輩は一枝の前で、私の生き方に係わる愚弄(ぐろう)の仕方をした。
「ちょっとあんさんも、あきまへんえ。そんな菅原はんのお商売をぼろ滓に言わはるさかい、菅原はんも怒らはるんどす。ここは先輩を立てて謝っときなはれ。」
一枝はまるで母親のように私を諭した。そして私は駄々っ子そのものであった。
「いやだ。僕は卑怯者なんかじゃあない。そんな腐敗した体質、僕が叩き直してやる。」
私は何の考えもなしに流れの中で、つい勢いで言ってしまった。
「出来るものならやってみろよ。」
「ああ、やってやるとも。」そんな事言うつもりなんて毛頭なかった。
「ほなここで、話もまとまったとこで、このお話はもうしまい、いうことにしまひょか。まあ、後はもっとええお酒飲みまひょ。」一枝が話をまとめに入った。
「ああ、いいとも。だが、こいつがそこまで大きな口を叩く以上、ちゃんと落とし前だけは付けて貰うからな。それなら俺も水に流そう。」先輩は本気だった。
「菅原はんがあないお言いどすけど、あんさん、ちゃんと言うたことの責任取らはりますなあ。」
私は狐につままれたようであった。今更いやだなんて、一枝の前で口が裂けても言える筈がなかった。
「約束は守る。」
うわ言のように呟くと、私は背筋の寒くなるのを覚えた。私はサラ金に就職しなければならないのだろうか。菅原先輩は、人を不快にさせて自在に操る術まで手に入れていた。
訳の分からぬうちに手打ちというかたちで、三人で乾杯した。飲みなおしという事で更に飲んだ。二人は嘘のように楽しげに振る舞い、私もいつしかそれに引き込まれた。面倒な事はこの際考えたくなかった。酒と蛍と一枝、それでよかった。
「おまえ、ここがガラガラなんはおかしい、言うとったなあ。一応うちの役員の弁護もしとくわ。」
先輩がまたくだらない事を持ち出してきた。言い出しっぺは私だがもうそんな事はどうだってよかった。今はただ一枝と過ごす、このひと時を些かも邪魔されたくはなかったのに、果たして先輩はその話を続けた。
「最近貴船の山の中で、男の白骨死体が発見されたいう話、知ってるやろ。」
「へえ、なんや一週間程前から喧(やかま)しゅう言うてますなあ。」
私は知らなかった。
「それが警察の調べで昔、いうても十四、五年前やけど、失踪した俺の兄やという事が分かったんや。」
「ええっ、それはえらいことどすがな。菅原はんもこんなとこにおいやしてよろしおすのんか。」
「兄いうても腹違いなんや。一回もおうたことあらへんし、向こうは本妻の子で、こっちは妾の子おや。他に子供もおらへんし俺が跡継ぎになっただけのことや。そやから兄弟いうても歳も一回り以上も離れてるし、なんも愛情なんかあらへん。役員連中は葬式の手配やら、この事が表沙汰にならんように走り回ってるけど、俺はそんなもんに関わる気いは一切あらへん。まあ、葬式くらいは出なあかんやろけどな。」
その後すぐ、私の記憶はとても曖昧なものとなった。今朝、奇怪な鳥の声で目が醒めると自分の部屋の床の中で、全身の倦怠感と気分の重さが昨夜の深酒を思い起こさせた。それに、夢で見たのが一枝と先輩の濡れ場で、目覚めて真っ先に思い出すのが一枝の入浴シーンというのもいただけない話であった。
昨夜と今朝の決定的な違いは、私の思考の中心を成すのは今や一枝であり、もう前の彼女のことも、受付嬢を思い出しながらマスターベーションすることも、どうでもよくなっていた。
アルコールの抜け切らない体はだるく、時折頭がズキッと痛んだ。何とか寝床から這い出し、まず向かったのが温泉だった。ゆっくり湯に浸かり汗と共にアルコールも体外に放出すれば、もっとずっとすっきりするはずだ。
勿論真っ直ぐ露天風呂に向かったことはいうまでもない。内心ドキドキしながら湯に浸かっていたが、結局一枝は現れなかった。少し失望したが、体のほうは随分と楽になった。
部屋に戻ると仲居さんが、朝食の支度が調っていると言ってきた。
見覚えのあるあの座敷には一枝が座っていた。
「おはようさんどす。」
胸がときめいた。少なくとも夕方までは彼女と一緒にいられる。
菅原先輩はもういないようだった。
突然、私の脳裏に昨夜の記憶が蘇ってきた。この部屋、一枝、先輩がキーワードででもあったかのように。
泥酔した上での下らぬ口論、挙句の果てにはサラ金に就職させられるかも知れない、飛んでもない破目に陥ってしまった。気分が重かったのは酒の所為でもなく、夢の所為でもなく、鳥の声の所為でもなかった。紛れもなくこの事だったのだ。あるいは先輩の強(したた)かな計算だったのかもしれない。私は甘い。限りなく甘い。
先輩は冷徹に、私の性格、感情、弱点を把握し、もしかしたらその日の酒の量まで計算に入れて(酔っぱらって完全に記憶まで失っていては意味がない)、あんな風に怒ってみせたのかもしれない。さながら私は、お釈迦様の掌(てのひら)で暴れまわる孫悟空のようなものだった。
では一枝はどうだ。私を悩殺し骨抜きにする為に送り込まれた刺客、なのだろうか。確かに彼女は昨夜、要所、要所で実に効果的に口論の仲裁に入っていたような気がする。
私は一枝をじっと見た。
「どないおしやしたんどす。」
違う。彼女は無垢だ。
朝の柔らかな光の中で彼女を見ると、昨夜一緒に飲んで騒いだ女性とは別人のような気がする。もっと大人っぽく見えたのだが、今目の前にいる一枝はまだあどけなさを覚える程に初々しい。断じて彼女はぐるなどではない。きっと先輩が彼女の性格まで把握して、うまくあの場面の中に絡ませたのに違いない。私は背筋の寒くなるのを覚えた。そしてこの感覚は昨夜も感じていたことを思い出した。
でも私にも言い逃れる術が無い訳ではない。すべて、酒の上でのことなんだ。
それにしてもこんな子と酒を酌み交わしていたなんて、私はまだましだ。先輩なんて無理矢理酒を勧めていた。あれは犯罪だ。いや、私も同罪かもしれない。いや、待て、私は彼女と一緒に入浴までしている、しかも体の隅々までしっかり目に焼き付けて、あまっさえ時折思い出しては密かに楽しんでいる。
その記憶は鮮明で、私の脳裏から生涯消えることはないだろう。更に私は勃起した自らのものを彼女に見せている。精一杯隠そうとしたが、しっかりと彼女の視線に入っていたことは間違いない。これも相当罪が重い。
彼女がその気になれば訴える事だって可能だ。男二人(しかも成人だ)に無理に酒を飲まされ、酔ったところで混浴の露天風呂に入らされた。男の一人が先に入っていて散々体を見られた挙句、勃起した男性自身を執拗(しつよう)に見せ付けられた、と。
この勃起した、というところが大きい。何をどう弁解しようが私が欲情していたという事実は、隠しようがない。取り返しなんてつかない、相手は未成年なんだ。
先輩はまだいい、酒を飲ませただけなのだ。だが私は違う、私の罪は相当厄介だ・・・。
やれやれ、私は昨夜から自虐的になり過ぎている。一枝はそういう女性ではない、私は彼女を信じている。
そういうかなり不安定な精神状態の中で、私は一枝に話しかけた。
「菅原先輩は帰ったの。」
「へえ、もうはように出はったそうどす。」
可愛いい。昨日菅原先輩とやってきた時とは随分違った印象を受けた。昨夜と同じ浴衣姿でこれといって変わったところはない筈だが、化粧の具合なのだろう。今はスッピンなのだ。でも風呂でも同じだったはずだが、あの時は薄暗かったしそれに体の方にばかり意識がいっていた。
おっと、いけない。私は何を考えても結局最後には一枝の体に行き着いてしまう。
私は一枝の視線に耐えられなくなり仲居さんに話しかけた。
「お姐さん、ここはとても蛍が綺麗ですね。こんなたくさんの蛍初めて見ましたよ。」
「ありがとうございます。ここの蛍は大学の先生の指導のもと、成虫を採集して卵を生ませ、孵化させたあと幼虫を川に放しております。幼虫はこの地の湧水群を源流とする清流で育っておりまして、農薬などの影響を受けることもなく、温度管理等も徹底し餌のカワニナを繁殖させ、最も蛍の棲み易い環境を整えております。」
ちょっと観光案内のような杓子定規な説明であったが、分かり易い答えではあった。
でも誰が蛍を捕まえるのだろう、彼女たちだろうか。私は彼女たちみんなで蛍を捕まえ
るところを想像した。揃ってタンクトップにショートパンツ姿でキャッキャいいながら小さな光を追いかけて網を振り回す、月明かりの夜に。なんと優雅な昆虫採集だろう。
「お姉さんたちが蛍を捕まえるの。」思い切って聞いてみた。
「いいええ。助手の人や学生さんです。」京都弁のアクセントだった。
ちょっと待て、たしかメスは光らないんじゃなかったっけ、そうだ夜じゃないんだ。昼間助手や学生が捕まえに来るんだ。私は一体何を想像しているんだ、まったく。ちょっと頭の中を一枝にも覗かれたような気になったが、むろん取り越し苦労だった。
取りあえずここは、蛍にはとても気を使っているのだ。
食事の後二人で庭を散策した。お互い浴衣姿のままで何だか婚前旅行にでも来ているような気分で、私はドキドキしていた。
清流の注ぎ込む池の周囲に園路を設け、流れの上には石橋が渡されていて、清流に寄り添うように小径(こみち)が作られていた。
随所に石灯篭や自然石が置かれ、池の後方には築山が配されていた。秀でた枝振りの、見事に姿を整えられた数多の樹木が、趣を守護する番人さながらに様子よく、絶妙の位置に植えられていた。
流れを遡(さかのぼ)って暫く小径を歩くと、古びた円形の東屋(あずまや)が路傍に置き忘れられたように建っていた。景色の中でそれは決して自己を主張せずひっそり佇んでいて、いつしか周囲に埋没してしまったような印象を受けた。しかしそれが醸す蒼然(そうぜん)たる雰囲気は風景全体にそこはかとない奥行きを与えていた。
「いやあ、かいらしい休憩所やこと。ちょっと座っていきまひょか。」
私は彼女が一見古臭いだけのその建物に、心引かれて目を止めたことに驚いた。
彼女と私は波長が合う。勿論私に異論のあろう筈はない。
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