例えば、果実が時間をかけて腐り落ちるように。例えば、子供が気に入らない砂の城を壊すように。腐敗と崩壊。何かがその形を崩すとき、この二種類に大別出来ると、僕は思う。白河家は前者だった。 一般的な家庭『崩壊』ではなく『腐敗』と呼ぶ方が相応しい。僕たちの家庭は白河実という癌に侵され、緩やかに終末へと向かっていったのだ。 負によって綴られた白河家の歴史。それを語るには、僕、白河晃人(あきと)の小学校時代まで遡らなければならない。あの日から全てが始まり、そして終わっていった。 一九九八年、春。僕たちは神戸市へと越してきた。理由はごくありふれたもので、父である、実の転職だった。父の職業は医者で、医者というのは、一つの病院に留まって専門分野を偏らせないため、医局の指示による転職が多いらしい。その報せを聞いたとき、当時小学四年だった僕は部屋で独り泣いた。通い慣れた学校と、一緒に遊んだ友達と、別れるのが嫌だった。隠れて泣いたのは、妹の優香にその姿を見られたくなかったからだ。部屋の外では、まだ小学一年だった優香が、目を真っ赤にしながら「なんでなんで」と泣きじゃくっていた。
「お仕事だから仕方ないの。分かるでしょ、優香」
母の由美が優香の頭を撫でながら諭している。その横で困ったという表情で立ち尽くしていた父の姿を、僕は覚えている。まだ白河家が壊れる前の話だ。 『神戸市』と聞いて僕が最初に思い浮かべたのは、ブラウン管の向こう側で燃え盛る地獄の光景だった。砂埃が舞い上がり、黒煙が立ち昇り、空撮のヘリの音、レポーターの叫び声、泣き崩れる人々、瓦礫の山々、それは現実なのに何処かリアリティに欠けて、全てが特撮か何かのようだった。 引越し当日、父の運転する車に揺られながら、僕と優香は二人横並びになって、窓の外を眺めていた。見たことのない広さの工業地帯、巨大な船が行き来する港、異国情緒漂う町並み、目に映る全てが新鮮で、僕たちは夢中になって、それらを目で追っていた。まさか、今窓の外を流れている光景が、昔ニュースで流れていた光景と同じ場所だとは到底思えなかった。 震災によって一度崩壊し、再び生まれ変わった都市。あの場所は再生の象徴だと今でも思う。そんな場所で家族が腐っていったなんて、皮肉なものだ。 さて、少し前置きが長くなってしまった。そろそろ『あの日』について語ろう。話しておいてあれだが、正直、今までの話は忘れてもらっても構わないかもしれない。本当に聞いて欲しいのはここから先だ。そして、出来れば記憶して欲しい。 あの日は既に暑かった。だから、僕たちが越してきて三ヵ月後ぐらいだったと思う。すっかり僕と優香も新しい学校に馴染んでいた。一般的に、転校生という存在は英雄染みた扱いを受けるらしく、友達を作るのは意外に簡単だった。一緒に登下校する友達も出来てあの日も確か同じメンバーで下校した。 異変を感じたのは同日の夜。夕食の時間だった。普段はあまり酒を飲まない父が、あの日は珍しくビールを呷(あお)っていたのを覚えている。病院で何か嫌なことでもあったのだろうか。そのときの僕は病院内での父の立場を詳しく知らなかったが、人の命に関わる凄い仕事をしているという大雑把な認識だけはあった。
「人の命ってのは、重いくせに、なんで脆いんだ」
焼き鮭の身をほぐしながら、父は独り言を呟いていた。一家団欒とはほど遠い、重苦しい空気が白河家の食卓を満たす。他に口を開くものはおらず、行き場を失くした父の苦言だけが、ぐるぐると呪詛のように渦巻いていた。
「ほら、二人とも、もう時間だから部屋で勉強してきなさい」
そんな姿を見兼ねてか、母が口を開いた。両親と約束した毎日の自習時間までは、まだ十五分以上余裕があった。しかし、それ以上その場に留まりたくなかった僕は、優香を連れて自分たちの部屋へと戻った。皿の中には、僕の大好きなハンバーグがまだ半分以上残っていた。 部屋に戻り扉を閉める。その扉が何の役にも立たないということは、自分が一番良く分かっていたが。白河家は3LDKの賃貸マンションで、リビングは全ての部屋の丁度中央に位置する。部屋で騒げばリビングに聞こえ、リビングで騒げば部屋に聞こえる。よく夜中に優香と暴れていて母に怒られた。 勉強などする気になれなかったが、仕方がない。一応自習の時間だ。僕は本棚から進研ゼミを取り出し、机の上に広げた。誌面でカニのキャラクターが「目標は二十分」と言っているので、それに従いタイマーをセットする。話し合いはいつの間にか、言い争いになっていた。
「お兄ちゃん。お母さんとお父さん、大丈夫かな」
隣の机で勉強をしていた優香が、心配そうに尋ねてくる。僕が「分からない」と適当に答えると、優香の表情は見る間に暗くなった。その姿が少し可愛そうに思えたので、励ましてやろうと口を開きかけたときだった。
「お前に何が分かる」
聞いたことのない父の怒号が白河家に轟いた。僕にはそれが終わりを告げる警鐘のように思えた。唐突に響いてきた怒鳴り声に驚いたのか、優香は小さな体を硬直させた後、泣き出してしまった。様々な感情が飛び交い、混じり合い、一種の毒電波のようになったそれが僕の思考までも刺激する。見たくない聞きたくない、あれは大人の問題で自分のような子供が関わることじゃない、そう自分に言い聞かせ、僕は机に齧りついていた。
「お兄ちゃん」
消え入りそうな声で優香が僕を呼ぶ。その顔は涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。僕は優香を抱き寄せ、二人で固く目を瞑った。妙な不安感、悪夢から覚めたときのように心臓が早鐘を打つ。怖くて悲しくて、心の中ではただ「早く終われ」と祈る。いつの間に流れたのか、僕の頬を熱いものが伝い、遠くの方からは、何かが割れる音が聞こえてきた。
目を覚ますと僕たちの体に布団がかけられていた。どうやら、泣き疲れて眠ってしまったらしい。昨夜あんなことがあったのに、今朝もいつも通り、野菜を刻む音と玉子焼きの甘い香りで目が覚めたことに、少し安心した。
「おはよう」
リビングには母一人だった。僕は料理をしている母の背中越しに声をかけた。
「おはよう、晃人」
言いながら振り返った母の顔を見て、僕は絶句した。左頬が青紫に染まり、腫れあがっている。本当に、漫画でよく見かける、酷い虫歯の表現そのものだった。
「ちゃんと布団被って寝なさい。風邪ひくでしょ」
小言を一言。ただそれだけ。以降、昨夜のことに関わる話は母の口から一切出てこなかった。そう、別に特別なことがあったわけではない。僕も気持ちは一緒だったので、何も言わなかった。しかし、いくら僕たちが口を閉ざしていても、母の顔に刻まれた痕跡が全てを物語っている。なかったことになど出来やしないのだ。 静かな朝食。起きてきた優香も黙って椅子に座った。時間は七時半、まだ父は起きてこない。三人で黙々と、味の分からない朝食を食べる。作ってくれた母には申し訳ないと思う。でも、こんな日に限って品数が多いのは本当に苦痛だった。 食事を終え、手早く学校へ行く準備をする。土曜日の学校というのは何故か気だるい感じがして、普段ならだらだらと準備するところだが、今は一刻も早くこの閉鎖空間から抜け出したかった。
「行ってきます」
優香を連れて玄関を出ようと、僕はドアノブに手を伸ばした。それと同時に、背後で扉の開く音が聞こえた。音の方向から、それが父の部屋の扉だと分かった。鼓動が少し早くなる。僕は気付かないふりをして、そのまま行こうとした。
「昨日は悪かったな」
萎れた声だった。僕は一言「うん」とだけ頷き、玄関を出た。 エレベーターで一階まで下り、エントランスホールから外へ向かう。自動ドアが開き、太陽の日差しと蝉(せみ)の声が支配する、真夏の世界と繋がる。纏わりつく、うんざりするほどの暑さも苦にはならない。陰気に満ちたあの空間よりは幾分マシということだ。そんなことを考えていると、優香が急に駆け出した。
「お姉ちゃん」
僕も視線をそちらへ移す。
「おはよー」
ひらひらと手を振りながら、柔らかい笑みを浮かべる少女。彼女が転校生だった僕の初めての友達、如月葵だ。
「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよう、如月」
僕の人生において、腐れ縁と呼べる人物が二人いた。その一人が彼女。転校初日、優香を連れて家を出ると、道路を隔てた向かいの家から彼女が出てきた。優香と同じ帽子――学校指定の――を被っていたので、自分と一緒の学校なのだとすぐに分かった。母に通学路を教えてもらいはしたが、正直うろ覚えだった僕は、彼女を呼び止めて事情を話してみた。すると彼女は「一緒に行こう」と笑いながら言ってくれた。これが僕と彼女の出会い。
「ねぇ、昨日のМステ見た?」
「そういえば忘れてたな。誰出てたの」
「ラルクだよ、ラルク。凄いカッコ良かったのにー」
「ラルク出てたの? 見たかったなぁ」
優香が心底残念そうな声を出した。余程見たかったのか、葵の語るラルク談義を真剣に聞いている。僕は聞き流していた。 小学校時代に異性と遊ぶということは、かなり勇気が必要な行動だったと思う。ネタに飢えた同級生たちから、冷やかしの対象として見られるからだ。そんな中でも、僕は暇を見つけては葵と遊んでいた。最初は優香が妙に懐(なつ)いてしまったので、僕が仕方なく連れて行くという感じだったのだが、今考えると少し違う気もする。 葵の家に遊びに行くと、彼女はいつも一人だった。平日も休日も関係なく、母親も父親も誰もいなかった。好奇心の塊だったあの頃の僕は、軽い気持ちで尋ねてみた「如月の家の人は?」僕とレースゲームの対戦をしながら葵は答えた「お母さんは仕事で、お父さんはいないよ」僕よりも更に軽かった。彼女は所謂(いわゆる)母子家庭で、僕はそこに一種の繋がりを感じたのかもしれない。お互いに欠けた家庭であるという、一方的な歪んだ繋がりを。
「アッキー聞いてなかったでしょ」
「僕、そんなに音楽興味ないからなー」
そう言うと、優香と葵の双方から激しいブーイングを受けるのだった。二人の会話に板挟みにされながら、十分ほど歩き続ける。学校までの道程も中盤。そろそろこの状況を打破する、もう一人との合流地点だ。
「纏めておはよう」
一、二、三と順々に僕たちを指差しながら、少年は寄りかかっていた壁から背中を離した。
「おはよー」
一纏めにされた三人の声が重なる。
「ケイちゃんはМステ見た?」
「見てない。どっちかというと、俺はNステ派」
「何それ、意味分かんない」
合流したこの少年が、僕のもう一人の腐れ縁、早瀬圭介だ。葵と違い、何故彼と仲良くなったのかは、正直覚えていない。気付くとよく話すようになり、よく遊ぶようになっていた。友達としての一番の理想系かもしれない。
「悪いけど、俺たちは男の話があるから」
言いながら、圭介は僕の腕を取り、優香と葵の間から引っ張り出した。後ろからは葵の呆れたような声が聞こえた。
「今日昼から暇?」
優香と葵の少し前を歩きながら、圭介が会話を進める。
「暇だよ」
「じゃあ、ラピュタ行こうぜ」
「お、いいね。行こうか」
コードネーム『ラピュタ』僕たちが作り進めていた秘密基地の名前だ。由来はあの有名な天空の城だが、ダンボールと木の枝が基本素材の僕たちのラピュタは、本物とは似ても似つかなかった。しかし、見た目など関係ない。作ることこそがロマンなのだ。
「今日は何処作るよ」
「皆でお菓子とか食べる場所作りたいよね」
「それいいなー決定。じゃあ、今日もお昼食べたら、俺の家集合でいい?」
「おっけー」 午前中に約束を取り付け、学校を挟んで、午後からの時間を思いっきり遊ぶ。これが僕たちの土曜の黄金パターンだった。何故だか分からないが、授業を終えてから夕方まで遊ぶのは、日曜に一日中遊ぶのとは比べ物にならないぐらい楽しかったのだ。何もかもがキラキラと輝いていたこの頃。今を生きる小学生たちが、この感覚を体験出来ないのは本当に損をしていると思う。
「そうそう、圭介。今日家行ったとき、あれ返してくれないかな」
「あれ?」
「ゲーム。攻略本読んだら、裏ステージあるみたいなんだ」
圭介の性格は一言で表せば、いい加減だった。物の貸し借りに関しては特にそうだったと思う。このゲームの件にしても、僕は返却の催促を繰り返していた。
「あーごめん。すぐにクリア出来ると思ったんだけど、結構難しいのな、あれ。今、五面なんだけどボスが強くてさー五面クリアし たら絶対返すから、もうちょっとだけ待ってよ」
しかし、結局ゲームは返ってこなかったし、ラピュタの方も発案者である圭介が「飽きた」と言い出し、最後まで完成することはなかった。こんな奴だったが、僕は彼を嫌いにはなれなかった。この頃の圭介はまだ、僕が親友と呼べる唯一の存在だったのだ。
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