「自分が自分じゃなくなっちゃうような気がするの」 私のノートにはそういう類いの言葉がびっしりと書き込まれていた。誰に言えば良いのかわからない。そもそもこれは表に出していい感情なのだろうか?知行と一緒にいる時間以外の使い方を私は忘れてしまっていた。何もせずとも時間は過ぎていくものだと思っていたし、夢に描いた恋はこんな形をしていなかった。もっと暖かくてゆったりとした時間を運んでくれるものだと思っていた。そして知行自身があまりにも脆く儚い存在であるように見える事で私は必要以上に気丈に彼に接さねばならなかった。 …ほんとうにそうだろうか? 形にならない感情を表現するには私はあまりにも幼いのだと痛感した。ただの一個の少女として狭い世界の中で知覚させるので精一杯なのだ。そうして友達と言えるような人間は存在しなかったし、勿論昔のボーイフレンドに言える事でもない。私が抱えようとしているものはカマイタチのようなもので、その三人組は抱きしめようとすると私をバラバラに引き裂いて傷だけを残して私をしゃんと立たせる。それからわざと不完全に傷口を勝手に治す。つーっと流れる一筋の血について私が呆然としていると世界と言う大きな仕組みの方が勝手に動いて私を置き去りにする。泣いていても笑っていても同じように時間は進むし、いつまでも秒針は重い。 …今まで同じように秒針が重いなどと感じた事はあっただろうか? どうして二度目に会った日に私はあんなに自然に吹き出せそうになったのか? 疑問符ばかりが頭の上を飛んでいた。 どうして?どうして? どうして…
雨が上がった次の日に、私は美術室には行かなかった。紙袋を持って、ゆっくりと階段を上った。夕焼けにはまだ早い4時前の光は、街も校舎も何もかもを普通と言う言葉が塗りつぶすように存在していた。 風が通り抜けて、私の髪をなびかせる。いつもはうざったく思う口に入る髪の毛もひらひらとともすればめくれ上がりそうになるプリーツのスカートも、どうしてだか気にならなかった。 屋上は広い。フェンスと手すりは超えようと思わなければ超えられない高さにきちんと設定されていた。超えようと思えばあっさり超えられそうでもあった。ゆっくりと知行がいつも居る場所まで歩いていくと、大きく深呼吸をした。 水たまりに映った秋の形のいい雲がきらきらと光る。後一時間と少しで世界は闇へと閉ざされてしまう。閉ざされた世界には水たまりの中に存在していたはずの向こう側はもう見えない。 「世界がどういうもので成り立っているのか、そんなに深く考えた事なんかない。だけど、貴方は今考えようとしているわ。イマジネーションは3次元を超えるの。貴方の思考だけがこの枠組みを超える事が出来るのよ」 目を閉じると手すりの向こうに私が浮かんでいる姿が見えた。その私が言った。 「ほら、もうすぐ夕焼けが来る。そして夕闇がくる。あなたは世界の何処にいるの?」 「校舎の屋上」 私は浮かんでいる私に向かって言った。細い声だった。私はどちら側に居るのか解らなくなった。どっちの私が本当の私なんだろう?どちらも私じゃないのだろうか? 足下に接地感がいつの間にか無い。ぐるぐると回るような感じで私と彼女は入れ替わった。 「大丈夫よ」と彼女は言った。 「何が大丈夫なのかしら?」 そうして彼女は笑った。 「夕焼けにはまだ早いよ?」 びくっとして振り返ると知行が居た。 「…驚かせてしまったかな。ごめんね、そんなつもりは無かったんだ」 私はおそるおそる知行へ紙袋を渡した。 「マフラー?ありがとう。実はお気に入りだったんだ。…だからある意味ではあんまり奇麗だとはいえないかもだけれど。…だってよく使うから」それから知行は少し笑った。 「ありがとう」 彼はそういうようなことを言って紙袋を受け取った。 「美術室には…?嗚呼、まぁいいや」 知行は私の隣の手すりに手をかけて、街を眺めた。 「夕焼けにはまだ早いね」 「…うん」 「少し話そう」 そしていつの間にか私と知行は時間を忘れて暮れ行く街を眺めながら話し続けた。 知行が私をきちんと見たのは最初のときだけで、後は私が街を見る知行の横顔をたまにじっと眺めていた。美しい顔。白くて奇麗で可愛らしい顔立ちの知行はどうしてだか暗い闇を感じさせた。底の無い暗さ。例え用の無い絶望と影。 「いつか僕が初めてここに来た日に、虹が出ていたんだ」 知行が話すと何でもそれはおとぎ話のように美しいものに感じた。 「それは見た事も無いような大きな虹で、奇麗だった。そもそも屋上入れるんだろうか?って思ってこっそり上ってみただけだから、本当に入れると思ってなくて、その上その虹を見たものだから病み付きになってしまったんだ」 それから知行は山の方を見て手と顔の動きで説明をする。東の方の空を指差す。 「あっちから、あっちへまるで山から生えているようだったよ」 それからため息をついて、 「僕はその時許されているって思った」 「許されている?」 「存在してもいいって、…ね」 私の目を見て知行は言った。 「存在してはいけなかったの?」 「わからなかったんだよ」 「虹でそれが、わかった?」 首を横に振る。 何もかもがわかっている事のように思っていた。居て当たり前の自分と言う存在は知行の言葉で何となく曖昧なものになってしまったような気がした。 「存在してはいけない条件なんて、あるの?」 私は聞くと、知行は困った顔をして私にゆっくりと言った。 「さぁ。僕にはわからないよ。一体、誰が決める事なんだろう」 目眩がする。一人なんだ。私も知行も、全てこの世の中にあるものは全部、一人なんだ。ひとりぼっちなんだ。ひとりぼっちだから、それをつなげようとして手を繋ぐんだ、だからドラマの中の二人はあんなにも楽しそうに笑い合えるんだ。塚野までも一人じゃないと感じる事が出来るのならばその為に何だって出来る。例えば今此所で私が知行の手を取って『一人じゃないよ』っていえる事も出来る。 …どうしてだろう、私はその時その場にうずくまりたいぐらいに寂しさを感じた。 代償なんだ。全部引き換えなんだ。 私が持っている命と引き換えに知行は存在を許されるのかもしれない。知行が私にマフラーを貸してくれた事で私が孤独を感じたように、それはイーヴンなんだ。 「君はどう思っている頭無いけれど、僕には友達が居ない訳じゃないんだよ」 おどけるようにして知行は微笑んだ。 「じゃぁ何故一人で居るの?」 「いつも一人だった君を見る為に、僕は選んだんだ。君が埋められない穴は一体なんだろう?といつもそう考えていた」 まるで完璧な生き物じゃないか、と私は思った。 知行と言う人間は何を知っているのだろう?どれぐらいのものなのだろう?そして、何様なんだろう。恥ずかしさと怒りの入り交じった感情は私の心をあっさりと折ってしまう。 「ちっぽけなんだ」 私の耳に届いた言葉はあまりにも残酷で、どうしようもない絶望に包まれていた。 「ねぇ、どうして此所に居るの?」 私が発せられる声はほんの細いものでしかなかった。精一杯、頑張ったつもりだった。頭を抱えて泣いてしまいたかった。 質問には答えずに知行は顔を上げた。 「夕日がくるよ」 優しい声だった。このまま私は包まれなければならないと思った。 「許された時間だ」そして「君が泣いている事も、街が変化するのもこの世界が滅びるのも全部、赤く染めてしまう」 私はいつの間に泣いていたのだろう。 冷たい知行の手が私の頬に触れる。 「大丈夫。僕は君の存在を許している。君は此所に居てもいい」 目を瞑ると赤い光がまぶたの裏でぼんやりと見えた。 止まる呼吸は余りにも自然な事で、私は大きく息を吸う。冷たい空気が鼻腔から一杯に私を満たす。ほほを流れる涙は私に温度を感じさせる程に暖かかった。 「生きてる」 私は唇だけを動かした。 「そう、生きているんだよ」 知行は言った。 「残念ながら、もう、僕たちは今生きているんだ」
それから一月の間、私と知行は屋上で会う。 どんどん日が短くなってあえる時間が減ってゆく。日が落ちてしまう前に知行は扉を開けて音も無く階段を下りてゆく。私はその後ろ姿をじっと見つめて、終わり逝く街の風景を見届けてからチェックのマフラーを締め直し、溜め息をひとつついてひんやりとする鞄の取っ手を持って扉を開けて真っ暗な階段をそっと下りた。 知行が何をしているのか、全く私は知らなかった。 知りたいと言う欲求よりも雨がふらない事で知行と会える、と言う欲求の方が強かった。 手を握って、抱きしめて口づけを暖かい場所でする事だってきっと私には出来た。 そんな欲求が無かった訳じゃない。 けれどどこか怖かったんだと思う。それは、そんなことをしてしまった瞬間に知行が俗物になってしまうような気がしてしまっていたからかも知れないと思った。けれどそれは言い訳で、…きっと言い訳だった。 孤独は、日に日に影を深めて長くのばしてゆく。 二人で居れば居る程に変わってゆく自分と言う私を意識しないわけにはいかなかった。壊れてゆく感傷を感じ、それはパチンともカチッとも音を立てずにゆっくりと、しかし速度的に私に忍び寄った。
「ねぇ、もしかしたら世界っていうのはこんな風にしてゆっくり闇に包まれる時間だけが長くなっていって、光がなくなって、そうして終わっていくのかもしれないよ」 私はその日知行に言った。 「そうかもしれない。けれど、四季があるようにきっと闇が短くなる時間だってあっていいと思う。君は何か悩んでいるね…何についてかな?」 知行は私にそういった。 あなたの事… どれだけそういいたかったかわからない。けれど私はその言葉を飲み込んだ。言ってはいけない。言ったら全てが終わる。何が終わるのかはわからない。終わってしまう事で一体何が起こるのかもわからない。 どうしてもそれは言葉にする事はできなかった。 「何故君は泣いているんだろうね?」 無表情で知行は呟いた。眼鏡をあげる仕草がセクシーだと思った。 「何故知行はこんな所に居るの?あなたはもっといろんな人の中で愛されるべきじゃない?」 私は質問には答えず、知行に質問を返した。 いつの間に涙が流れたのだろう?どうして、いつの間にこんなに涙腺が弱くなってしまったのだろう?私は知行の手が伸びる前に自分の手でその涙を拭った。 「愛されるべきなのは君の方だろう」 「君なんていわないで、雫と言って」 「愛されるべきなのは雫の方だろう」 真剣な目で知行は言った。 『ああ、そうか、私はこの人のこういう目の事が好きなんだ』私は思った。…雫、私は自分の名前を呼んだ知行の声を頭の中で反芻した。麻薬のようにそれは甘美に私の中をエコーし続ける。 雫、雫、…雫。 声も冷たい手も、知行の全てが雫と呼んでくれればきっと幸せになれる。 「ラブレターを何通もらっても、満たされない事があるの」 私は言った。 「どうしてかしら?人間は何故こんなに理不尽に作られているのかしら?こんな風にわかりやすく染められて、染まってしまえばいいのに」 「…染められて、そして終わっていくよ、気がつかないんだ」 知行の声はどうしてだか寂しそうに聞こえた。 「夕焼けが闇に侵されるように、自分たちだっていつかは時間に侵される。…当たり前の事かもしれない。けれど、何故だか当たり前だと思えない。信じたくないんだ」 溜め息をついた。 「ねぇ、知行…、一つだけお願いしてもいい?」 「珍しい」 私は暮れ行く夕日を眺めながら、そろそろ知行が帰る頃だとどこかで考えていた。 帰したくない。 「私の為に、あったかい飲み物、買ってきて欲しいな」 「ココアかい?」 「レモンティー」 私は言った。驚いたような顔をする知行。 「レモンティーの何処が美味しいのか全くわからないけれど…」 「レモンティが良い」 「雫はレモンティが好きなのか」 頷き、知行は言った。 「レモンティなんて色を奇麗に見せる為の小細工なんだよ?」 「レモンティが飲みたい」 我が儘な私はそういって知行を扉へと追いやった。 知行に見せた唯一の我が儘。 一つぐらい、許してもらえると思った。 一つの嘘くらい。
遠く足音が聞こえる。 傾く夕日がグラウンドを整備する男の子を照らす。影が伸びる。秋の終わりの風は私の髪をなびかせ、私の肺いっぱいに冷たい空気をすっぽりと納めてしまう。肺いっぱいの冷たい空気は鼓動になって耳まで伝わる振動になった。エネルギィを消費して私は呼吸をする。知行と一緒にいる。エネルギィは全て知行に変換されてふっと気を抜いた瞬間に自分の手元を離れてまた冷たい空気へと還元されていく。 循環型社会。 あの日、私が見入っていた影のことを知らずに後ろからぎゅっと抱きしめた彼は今頃どうしているのだろう?まだ失恋のショックから立ち直れないでいるだろうか?それともまた宿命的な恋に落ちて後ろからぎゅっと抱きしめるのだろうか?私はおかしくて吹き出しそうになった。簡単すぎる。単純で純朴で、…それから同じ所に私もいる。和あたしはその波に抗えない。それは身をよじると閉まるようにくくりつけられたロープで、時に筈とすればするほど身に食い込んでくる手錠で足枷だった。捕まったときには既に遅い。 夕闇が、グラウンドの彼の影と私の髪との境界線を消していく。それでもまだ伸びようするシルエット。風が吹くたびにその輪郭はブラーをかけられているように消えてしまいそうで、儚く脆い。 私はひやりと金属的な手触りのする形だけの手すりにてをかけて、境界線の向こうへと足を踏み出した。 柵になっていたその手すりの向こう側にたった私から見える世界は全てゆっくりと動いているように見えた。 カフェの一角にある自動販売機でしゃがみ込んでいる知行の一挙一動を目を細め動きを脳内でトレースする。全て見逃したくはなかった。屋上にいない知行。側にいない知行。一瞬前の夕焼けに沈む街並みがフラッシュバックする。あまりの美しさに卒倒するそうな感慨さえ覚えるその圧倒的な存在感を忘れはしない。口に含んだ大切な飴玉がいつの間にか消えてなくなっているように、全てのことは変化して、消えていくような錯覚を覚えていた。 いつなくなるの? 「わからないわよ」 私は自分の耳にも届かないような小さな声でそう呟いた。 息を止めてもなびくままになった髪が鼻にかかる。油絵の具の匂いがした。 結局私は何からも逃れることなんて出来なかったのだ。知行がいても、いなくても、そのシルエットの名前がわかっても、例えわからなかったとしても。そこには決定的な違いがあった。 多分。 私は気がつくと歩くことをやめてしまっていたのだ。ただ、それに気がつかなかっただけ。境界線を引いてくれる人がいたとしても、私のそれはとてもあやふやなものになってしまっていただろう。けれど、私はさっき飛び越えた境界線よりももうずっと前に立ち止まっていた。決定的な差違はあるのに、決定的に線引きできないなんてなんて理不尽なんだろう? 立ち上がる知行。 「ねぇ、知行」 私は大きな声で彼にそう言った。 一瞬の間をおいて頭を声のした方へと持ち上げる。 驚く顔。 初めてみた表情。 逆光で読みにくくてもわかる顔。 「あぶないよ」 知行の声は私には届かなかった。小さく動く唇が、私にそう呟いた。 「その、レモンティあげるよ」 知行に聞こえるように言った私は、泣いていた。 いや、泣いているのは私ではなくて私の体だった。雫が、雫であらんばかりに水滴を零していた。 けれどもその雫はこれで最後と、暮れる夕日がきっと乾かしてくれる。 一瞬の浮遊感。 知行は『きっと』幸せにはなれないな…。 冷めてゆくレモンティの顛末を不幸に思った。 「私の所為でごめんね」
そうして私は雫になった。
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