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作品名:どうして私は『雫』なのか? 作者:yN

第2回   issue, 対話 : 空白: 怖い事
 薄暗く誇りっぽい階段をゆっくりと上る。うっかり手すりに手をついてしまわないように私は注意深く歩みを進める。知行から言われた事だった。”気付かれてしまうのは、気付いてもらいたいとどこかで思っているからなんだよ。自分が注意深くしていればそんなに簡単に気付かれたりしないものさ”屋上に現れた私にまず彼はそういった。”手すりにつかまったりしてないだろうね?ここは一応立ち入り禁止だから、わざわざ目に見えるように痕跡をつけたりしないようにするんだよ”と言って口元だけで笑った後”まぁ、毎日僕がきているんだから、先生達は知ってるだろうけれど”と、彼は付け加えた。
 夕日のおかげではっきりと彼の顔を見る事が出来た。
 中世的な顔立ちに、病的に澄んだ瞳を彼は持っていた。私は彼になんと声をかけていいか判らなかった。
「よく開け方がわかったね」開け方なんか知らなかった。ただ扉を押すと音も立てずにそれは開いたのだ。
「ドアノブをまわすと空かない仕掛けになっているんだ」説明するように彼は言った。そうして彼は微笑んだ。(ように見えた、今度は顔全体の筋肉を使っていたのだろうけれども、それが本当にそうであることなのかわからなかった)
 階段を上りきると私はドアノブを捻らずにそっと扉を押した。古く重い扉とは思えない程にスムーズにその扉は開く。次の瞬間私は夕日に目を焼かれる。そうしてなれてくる頃に私の目にはそのシルエットがはっきりと浮かんだ。
 風の強い日には彼の学生服やコートやマフラーや長い髪は不必要になびく。それは優雅とも美麗とも違っていたが、目を引くものがあったのだ。それは自然と同じなんだったと思う。雲が流れるように、木がなびくように、風が葉を運ぶように、そういうものと同じ儚さを体現しているようであった。人間には思えない自然と言う世界が彼にはそもそもあるらしかった。自然が内在する体。
 そのあまりの不平等さに私は腹が立った。なんで私は一般人なんだろう?そんな風にさえ思った。それは多分、彼が人間ではなかったからなのだ。
「ところで学年一の…いや、学校一の有名人が僕に何の用かな?」
「用なんてものはありません」
私は言った。
 屋上に上るのは二度目だった。この間はすぐに夕暮れが来て、彼は自分の名前を言い残してすぐに私の横を通り抜け、扉を開けて階段を下りてしまった。私はその間一つも言葉を声に出す事が出来なかった。彼の自然の声と比べればどれだけも自分の声は俗っぽく聞こえるような気がして恥ずかしかったのだ。彼の声は目と同じ程に澄んでいた。ともすれば聞き取れない様な気さえした。しかしその声ははっきりと私に届いていたのだ。『自然』と言う周波数があるとしたら彼のそれはそこのチャンネルにしっかりと縫い合わされているようであった。
「君は僕を見ていたろう?用がなければ来はしないよ」
彼の目は細められていて、その視線は私を突き刺すようでもあったし、もしくは私など通り超えた向こうを見ているようでもある。
「知しらないだろう?僕は疑問符が多い人間なんだ」
あなたは人間じゃないわ。私だってきっとあなたを人間にしてあげる事は出来ない。
「きちんと答えてくれないと僕は困ってしまう」
「何を見ているんですか?」
「君も疑問符の多い方の人間だね…多分。それじゃあ僕らは仲間だ」
答えよう、と言って知行は視線を私から外した。つられて私もその方を見た。けれどそれはフェンスの近くまでいかなければ見えないものであるようだった。私は知行と言う人間ではない少年のそばまで歩いていき(このときの自分の鼓動のあまりの五月蝿さを私は憶えている)そして隣についた時、
「何が見える?」
と知行は私に聞いた。確かに疑問符の多い種類に属される、と私は感心した。
「街…です」
「何色?」
ぶっきらぼうとも言えてしまう程無関心に彼は私にそれを聞いた。
 眼下に広がる自分たちが住む街は一面が朱色に染まっていた。動かない足は動かないのではなく動けなくなっているのだと思った。
 美しかった。
「色では表現できないね」
多分その時知行は私を見て笑ったのだと思う。
 それから数分間(もしくは数十秒)私はその街を見入り、知行は私を眺めた後、街をもう一度見た。
「飽きたりしないんだ。人工物の固まりなのに、何故だろうね。街になると自然物になるのかな?いや、そんな事はあり得ない、全てこれらは人工物でしかない。けれどこの時間帯は自分たちがほんの僅かな時間のゆらぎに許された存在だって優しく教えてくれるように、街を自然物へと変遷させてしまうんだ」
知行は私に言った。
「すばらしい眺めだろう?雨が降っていてはこうはいかない。曇っていてもこうはいかない」
「そうで…ですね」
「雪の日はまだみていないけれど、きっと同じような感慨にとらわれるんだろうな」
「…はい」
やっと押し出した声に自分のあまりの動揺ぶりに自分自身が唖然となった。
「どんな用事で来てしまったんだい?」
もう一度、彼は私に聞いた。
 私は知行の方へと顔を向けて(ようやく向ける事が出来たのだ)その目を見た。
「あなたに会いたくて」
驚く程に素直な意見だった。
「単純にして明快で建設的な回答。それから、光栄だ」
数秒も置かずに知行は私に言った。
 私に息を飲ませる程に彼の目は澄んでいた。何を見ているのか全く判らなかった。
「君の眼鏡を借りてもいいかな?」
突然の申し出に私は何の事だか全く理解できなかったが、勝手に私の眼鏡をそっと外し、自分でかけてしまった。
「よく見える。君の視力は?」
「…0.1あるかないかです」
「僕と同じぐらいだ」
見えない街を見ていたと言うのだろうか?
「自分の眼鏡は持っていないんですか?」
「当然、あるよ」
こともなげに彼は言った。
 ぼんやりと赤く染まった知行の像を見ようと目を細めていたが、ディティールまで掴む事は出来なかった。それでも赤いメタルフレームは彼に似合っていると思った。
「君は美しい」
知行の口が開いた。口説かれ文句としてしか聞いた事の無い台詞を知行はまるで皮肉でも言うかのように私に投げてよこした。
 実際それは皮肉だったのだろう。
「皮肉ですね」
「頭もいい。勉強を君はした方がいいんじゃないかな?できるんだろう?しないだけだ」
「したくないんです」
「少なくとも絵を描いているよりは君にとって生産的な活動だと思うけれども」
「あなたは私の先生じゃありません」
「失礼」
そして眼鏡を外し、両手で私の頭へとそれを戻した。
 口元だけに笑みを浮かべた知行がそこに立っていた。
「しません。したくないんです。…それに絵は好きなんです」
「前者はイエスでも後者はノォだ」
「決めつけないでください」
けれど知行が言った事は確かだった。絵の事について私は何か表現したいと思ってしていた事ではなかった。時間が余っていて友人に誘われたから、と言う理由で美術部に居るだけの話だった。描いていてもそれは何かを指し示すものでない事ぐらい自分でも判っている。
 目の前に居る知行と言う男の事を私は何も知らない。年齢もクラスも、勿論成績も趣味の一つも知らない。…いや、それは違う。ある意味で私は彼の事を良く知っていた。言葉にはできない極めて極端なベクトルについてのみの事だったが、知っていると言う事には違いない。夕暮れのシルエットについて、その自然さと不自然さについて。私は多分本人よりもよく知っているのだ。
 少なくともそんな勘違いをしている。
 今更彼が使った『来てしまった』という表現を思い出して笑いそうになった。
「何が可笑しいのかな?」
「いえ、余りにもあなたがおかしな話し方をするから」
唇の端が持ち上がった事を彼は見逃さなかった。
「そうかな?…そうかもしれない。友達が居ないのはそういうところに由来しているのだろうか?」
「いないんですか?」
「いるよ」
そして彼は遠い目をした。
「別に居ると言っても可笑しくない程度には居ると思っているんだけれど。昼休みに笑い合ったり、休日に食事に行ったりする相手の事を指し示すんだろう?」
「それで間違ってないと思います。定義をわざわざするなら…そうなるんだと思います」
「わざわざ定義しないと居ないならば、居ないと言ってもおかしくないのかもしれない」
ふっと知行の顔に影が映った。
 多分知行と言う人間は寂しさの固まりでアンバランスな美しさを作り上げているのだろうとその時初めて予測できた。
 同じだ。
 私は思った。
 結局のところ誰も私と言う人間をきちんとカタチとして見てそれを掬い上げてはくれないのだと思った。
 もう二度と彼の笑った顔を見る事が出来ないような気がした。このまま永遠とぽっかりと穴をあけたような表情をしたまま永遠とも思える時間が過ぎるのではないか?と私は思った。そんな事は嫌だと心の底から思った。
 怖い。
「酷く冷えるね。こんなに風が強いと、自分の存在ごとどこかへ飛ばされてしまうんじゃないか?と錯覚してしまう」
「マフラーをしていない私の方が寒いんですよ?」
「じゃあ貸してあげるよ」
そういって知行は自分の首から黒く装飾の無いシンプルなマフラーを抜き取り、私の首にそっと巻いた。
 少年の香りがした。
「あなたが寒いじゃないですか」
巻いてかけられた後私が言う言葉ではなかったが言わないわけにはいかなかったのだ。
「学校一の美人にマフラーを貸したい男は山ほど居るんだよ。嗚呼、僕は光栄だ」
芝居がかった口調でそういうと、彼はその場を離れ、扉へと歩いていった。
「あ、あの」
私が声をかけると知行は振り返り、
「何故、女の子が男の子に手編みのマフラーをプレゼントするか、君は知っているか?」
呆然と知行を見ていると彼は皮肉の笑いを浮かべた。
「首ったけ、だって」
外人俳優がやるよりももっと控えめに首をすくめて知行は言った。
「それはあげても良い、…もう二度とこないと言うのなら。それじゃ、風邪を引かないうちに早く帰りなよ」
彼はその後振り返る事無く、扉を開け、姿を消した。
 街はもう朱色ではなかった。宿命的な暗闇にこれから支配されようとしていた、私は少しの間そこで立ち止まったまま扉をぼおっと見ていた。
 マフラーを手で触ってみると、何かとてつもない不安に教われた。
 しかし動けなくなる前に私はきちんと家に帰る必要があると本能的に誘導され、その場を離れた。
 私はその時本当に自分が女の子である事を感じた。
 本当に馬鹿らしい事だと思う。

 それから暫くの間は秋の最後の雨が降った。
 私はあいも変わらず美術室で放課後に絵筆を持っていた。いっこうに進まないキャンパスの上の絵画っぽいものを見ながら、もっと別にやる事があるのではないか?と考えるようになっていた。本当は違った。私はキャンパスの上に絵を描いていかなければならないのだし、美術部とは本来そういうところだからだ。果てしなく絵を描いてゆく。一体誰の為に、どんな意味があってそんな作業をしているんだろう?どんな意味もどんな価値も誰の為でもなくて絵を描いているのだろうか?それならそんな無価値としか自分で思えない行為なのだとしたらほかに時間の使い方は如何ようにもあるのではないだろうか。
 いや、自分を誤摩化すのはやめよう。
 雨は窓の外でしとしとと降り続け、窓のキャンバスに枝を伸ばしては消えてゆく。何の為に雨は降るのだろうか?何か、行為というもののサイクルの象徴としてそこにあるのだろうか?雨を運ぶ黒い雲は世界を終わりに導いているようにすら感じる。それは当たり前のようにしみを沢山作っていき、最後には私を飲み込む大きな力になるのかもしれない。そういうしみを見て私は自分に似ていると思う。…駄目だ、自分に同情する程弱い自分に一体いつなってしまったんだろう。
 知行はどうしたのだろう。雨だからやはり居ないのだろう。そもそもやはり彼は人間だったのだろうか?私は他の人には見えない誰かと話していたのではないか?彼は私にしか見えない存在で、私によってのみ存在を許されているようなそういうものではないのか?いやしかし彼は言ったのだ。皮肉だとしても『学校内で一番有名な貴方にマフラーを貸せた僕は光栄だ』と。いや、それは彼が存在していなくても遠くから見ていれば判る事ではないか。
 私はじっと鞄の横に置いてある紙袋をみた。知行の黒いマフラーがそこには入っているはずだった。
 いや、入っているのだ。確認してからそんなに時間が経っている訳ではない。物はそんな簡単に消えないのだ。私は知行と言うシルエットに会ったのだ。憧れの存在に一日ではなく、二日掛けて会ったのだ。幻なんかじゃない。
 そうだとしても私にはそれを確認しないだけの余裕はどこにも無かった。
 紙袋におそるおそる腕をのばし、そして自分の膝ノ上にそれを置き、じっと目をつぶり、まじないをするかの情に紙袋の中をのぞく。マフラーは当たり前にきちんとたたまれて其所に在った。
 溜め息を吐く自分が居る。安堵で息が漏れる。
 ふと窓の外を見て、私は何処へ行きたいのだろう?と思った。どうしてしまったのだろう。何故こんなにも弱ってしまったのだろう?私の中のしみはいつの間にまともな部分をしみに見せてしまう程に広がってしまったのだろう?
 全て雨のせいだ。雨が私を弱らせたのだ。雨の粒が私の中に入って、そう、それは種のような役割をして傲慢な私の嫌な部分を吸収してあっという間に根を張った。そしてその根は太い茎を持って私の完全な位置に取って代わった。
 いつ?
 わからなかった。私は頭を振った。目の前のキャンバスを全て真っ黒に塗りつぶしたい気分になった。けれどそんな事をしてはいけない。何故?やはりその設問にも誰も答えてくれそうになかった。一人で解決しなければならない問題なのだ。いや、解決すべきそんな重要な問題は一体何処に在るのだろうか?この首を絞められてそのまま持ち上げられたような不明瞭な息苦しい浮遊感は一体何処から来ているのだろうか?やはり私は頭を振った。
 紙袋からおそるおそるそのマフラーを取り出し、両手で持って顔をそれに埋めてみた。
 ゆっくりと深呼吸をする。心のどこかの鎖がどこかで一つぷつりときれる音がした。私は今にも浮き上がりそうな程の安心感を得ていた。
 何故。
 もうそんな問いなど答えたくはなかった。何処にその問いに答える意味が在ると言うのだ。
 そんなもの何処にも見当たりそうになかった。
「無意味」
私は自分に確認するようにそう呟いた。


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