油絵の具と溶剤のオイルの匂い、木炭で真っ黒になったカルトン、そこに挟まっているのは拙い絵で、静物のデッサンや友人を模写したクロッキー。 放課後の人気の無い校舎の端っこにある美術室に私は居て、イーゼルの前で新聞紙大程の大きさのキャンバスに油絵の具を重ねていた。下絵を鉛筆で描いて、どうせ見えなくなるのだからとそのままの状態で絵の具を重ねていくのが私のやり方だった。夕日が色彩感覚をおかしくする。蛍光灯をつけたときに苦笑いする自分の姿が容易に想像できる。それでもかまわないと私は思ってい筆を動かす。 私の目の前にあるキャンバスは真っ赤だった。 「…あ、駄目、今日は駄目」 絵筆を持つ手などかまわないと言った風に同級生の男は私を後ろから抱きしめた。 「どうして?」 耳元で囁く男の事が鬱陶しい。いつでも同じようにすれば機嫌が取れると思っているから稚拙な男は嫌いだと私は思う。きっとこのまま男性不信になったら全てこの男のせいなのだ。そうしよう。私はそういう風に心に決める。 「どうしてじゃなくてね、駄目なの」 私は絵筆を下ろさずにそのままの体勢でできるだけ冷たく男に言った。男からはシンナーの匂いがした。彼が使っている画材の所為である事は明らかだったが、それを差し引いてもそのツンとくる匂いを私は好きになれなかった。もしかしたらそれはこの男が使っている事に由来するのかもしれなかったが、そんな事は私には些末な事象だと思った。 「大声出すよ?やめて、離れて」 今度は少し語気を荒めて私は言った。最後通牒、と言う言葉が死語で無ければきっとこの場に最も相応しい単語であるのにな、と頭の片隅で私は思った。最後通達でもいい。そんな事をこの状況で考えている自分にどこかで笑ってしまいそうだった。 それをどうにか押し殺してツンとした表情を続けていると、ちっ、と言う男の声が聞こえた。私を両腕で抱きかかえるようになっていた体勢から解かれ、私は小さく溜息を漏らし胸を撫で下ろした。全身に再び血液が循環して暖かくなる。 「ごめんね」振り返らずに私は言った。嫌な訳じゃないのよ。ただ今は駄目なの。と言う言葉を付け加えようかどうしようか迷ってやめた。 「雫がどこでいいとか悪いとか判断しているのか全然判んないよ、俺」 男は年齢相応の言葉を口にした。 「子供にはきっと判んない基準なんだわ。あなたの方が早く大人になってよ」 理屈の通らない事を私は口にしているが、それを指摘されればしれっとすればいいだけの事だった。そもそもこの男はそんな事を指摘したりはしない。 「同い年の雫が大人でなんで俺は違うんだよ?どこが違うのか明確に話して欲しいんだけれど?そんな風に接されたって俺はいつまでも判らないままだからな」 不機嫌そうに男は続ける。やっぱり会話は噛み合わない。 「雫がもし俺を見て『だから男ってガキ』なんて思っているんだとしたらそれは間違ってる。何も言わずに誰かに何かをきちんと伝えられると思ったら大間違いだ」 笑いそうになっていた自分の胸がズキリとした。 「あなたが特別子供なのよ。他の人の事なんて私は判らない」 私もそれ以上に子供だけれど、比べるものじゃないのよ。私は最後の一言も二言をも付け加えることはしなかった。 「ああそうかい。…帰るよ」 窓から差し込む夕日でもういい時間帯だと言う事が判った。男は乱暴に自分の鞄を持ち上げると何も言わずに靴を履いて扉を開け、不機嫌をそのまま隠そうともせず廊下に大きな音を響かせながら帰っていった。 足音が遠くなって、そうして階段を駆け下りる音が聞こえる。 私は開けっ放しにされた扉をぼんやりと眺めて、長くなった自分の影と赤く染まった床との輪郭線を目にしっかり焼き付けようとした。 「ごめんね」 私の口から出た言葉は誰の耳にも届かない。 届かせようとはじめから思っていない。だから届かない。届かなくていい。届かない法外間よりもずっと幸せに生きられるのだ。きっと。 きっと、と言う達観な希望的観測的側面を持つ言葉を私は『きっと』好きだ。 振り返り、夕日の射す窓を見ると奥にある校舎が見える。 そこには一つの輪郭が不自然に浮かび上がっていて、私はほっとする。 誰だか判らないそのシルエットが私のその男を返した理由だった。ボーイフレンドのあの男よりも私は単純な理由で、男が言う『いいか、駄目か』を決めていた。 多分恋をしていると言ってもいいのだろう。 窓を開ける。十一月の冷たい空気が美術室の中に流れ込んでくる。私は反射できにマフラーを首に巻き、そしてそのシルエットを眺めている。 彼は何を考えているのだろう?いつからあそこに居るのだろう?そもそも本当に人間なのだろうか?私が彼を思う時にとりとめも無く救い上げる設問は度でも馬鹿みたいに単純で子供みたいに無邪気なものばかりだった。 「寒くないのかな?」 声に出して私がまた単純な設問を投げかけた時、そのシルエットは遠ざかっていった。 もし彼が月の住人だったり火星の住人だったなら、こんな寒さなんてことはないだろう。 屋上への入り口は美術室のある校舎とは逆側にあったから、それは自然な行動であったのだけれども、私は毎回その事に対して残念な気持ちにならなければならなかった。顔も服装もきちんと捉えるには余りにも遠かったし、そして私の目は悪かった。
そのシルエットは梅雨明けの頃から姿を見せるようになった。いや、正しくは私が梅雨明けの頃から認識するようになった。もしかしたらもっと前からそれは居たのかもしれないし、私と時を同じくして現れたのかもしれない。単に雨だったからと言う理由で居なかったのかもしれない。現に雨の日に彼は現れない。そして決まって夕暮れ前の20分か30分の時間帯を見計らって現れて、何かを見て消えるのだ。いや何かを見ていると予測しているのは私で、本当は何も見ていないのかもしれない。けれど、それは判らない。問うてみない事にはまったく答えのない単語だった。 彼に直接質問をする? 考えてみる価値はありそうだった。けれど私は一人で紅潮してゆく自分を抑える事が出来そうにない。 そもそも彼はどんな声をしているのだろうか? さっき私を抱きしめた男と声が同じだったら? いや、そんな事はあり得ない。私は首を思い切り振った。コンタクトレンズは疲れるからと言ってかけた眼鏡が勢いに任せて飛ぶ。 カシャン。と言う音がして床に眼鏡が落ちた。赤いメタルフレームの眼鏡はこうして私によって何度も床に叩き付けられている。安物ではなかったはずだから、両親には申し訳ない事をしているのかもしれない。 立ち上がって眼鏡を取ろうとしたとき、部屋の暗さに驚いた。もう夜なのだ。 「つるべ落とし」 今の私の声は少しでも凛と響いただろうか?凛としている、と言う形容詞は自分では判らない。 一度でいいから誰かに『君は凛としていて美しい』と言われたいと思っていた。これはナルシシズムだろうか?私には判らなかった。 美術室の扉の近くのスウィッチを操作すると、2度3度の間隔が空いて蛍光灯の白い光で教室があふれた。 最終下校時刻の七時まではまだまだ時間があったが、私は荷物をまとめて帰る事を選んだ。もうどうせ絵筆は一筆分さえキャンバスに色を塗り重ねる事が出来ないであろう事は明白だった。 自明の理。最後通牒。 「ハハ…」 肌寒く冷えてしまった教室を見渡す。そろそろコートを出す時期かもしれない。 鞄を開けてPHSの着信を見る。誰からの用事もそこには届いていなかった。 黄色い封筒が見えた時、今朝の机の中から出てきたそれを見て『またか』と私は思った。私はそういう封筒やそれに類するもののおかげでずいぶんと周囲の女の子たちから遠ざけられていた。 美術準備室の扉を開ける。 「あれ?…まだ居たのかい」 美術教諭は30前の若い男だった。背の低い優男で、アーティスト的な雰囲気は持っていない。しかし彼の担当するクラスからの評価を聞けばごくごく控えめに表現しても”人望がある”といってもよい人物であった。私もこの教諭の事で何か困った事態に陥った事は無い。とても優しいのだ。 「ええ、でももう帰ります。先生もまだいらっしゃったんですか?今日は冷えませんか?」 「十一月だからね。空調にはまだ、と思っていたんだんけれど。そろそろ使っても構わないかもしれない。…ところで、僕ももう帰るところなんだ。何か用?」 美術部の顧問でもある彼は私に尋ねた。 「ハサミをお借りできないかと思って…」 「そこのペン立てにあるのを使えばいいよ」 私は教諭のペン立てからハサミを取ると、その黄色い封筒の封を切った。 「またかい」 楽しそうに彼はそういった。 「ええ、そうなんですよ」 私も笑顔を作って彼に答えた。 「どうせ捨てていくんだろう?…君の時間が許すなら、その手紙の内容を一瞥する時間ついでにコーヒーでも飲んでいかないか?君がイエスというのなら僕の帰宅時間も繰り下げよう」 苦笑いして彼はそういって私にマグカップに入ったコーヒーを渡し、ソファに座るように促した。 「ありがとうございます」 コーヒーメーカーの横にあるスティックシュガーとミルクのポーションを取ると私はソファに座り、ホットコーヒーの中にそれらを入れ、マドラーでかき回した。一口目を口にすると体の底から暖かか味がわき上がってくるような錯覚をした。自分でも知らないうちに相当冷えていたらしい。 「おいしい」 教諭はブラックのままそれをすすり飲んでいる。私には見なくても判る。砂糖もミルクも自分の為ではなく、ここに入ってくる生徒たちの為に彼が買いそろえているものなのだ。 「多分体が冷えていたんだ。美術室には空調が無いからね。暖房、入れようか?」 「いえ、構いません」 「そうかい」 彼はそういうと自分のデスクのチェアを引き、そこに腰をかけた。 手紙の内容はごくごくありふれたラブレターだった。最後の一文だけが『いつ、どこで待っています』では無く自分の携帯電話とメールアドレスが記載されていると言うところだけが少し今までもらった同様のものとはと違う感じであった。メール機能付き携帯電話を持っている生徒はまだほんの僅かだったからそれは異例と言ってもいい。 「君、それ何通目?」 私が手紙を置いたのを彼は見ていたらしく笑いながら私に聞いた。 「さぁ?途中から数えるのが馬鹿らしくなりました」 私はソファに深くもたれかかり、コーヒーを飲んだ。 「何通目から数えるのが面倒になったのかな?」 「入学の翌日に2通来て、その次の日に3通来た後で、ああ、みんな同じ事しか考えていないんだって思って」 教諭は笑った。 「最近は少なくなったでしょ?」 「ええ。それはもう最初の頃に比べれば格段に少なくなりました。…本当に私のどこがいいんでしょうか?」 そういって苦笑いをして口に出すと私は本当に私のどこがいいのだろう?と思うようになる。 「顔じゃない?君の顔は黄金分割されたように整っている」 「顔だけですか」 「いや、話していて知性を感じるところもいいね。けれど成績は人並みだ。頭はいいのに、それを勉強に使おうとするところが無い。刺が無いんだ。だから平均的な男はそんな君に好意を抱く」 「褒めてもらえていますか?それ」 彼は笑った後何も言わすにコーヒーをすすった。私もマグカップに口を付ける。 「男は何でも分析したがるからいけないね。モテないよ」 呟いた教諭の左手の薬指には銀の指輪が光っている。 「お子さんいらっしゃるんでしたっけ?」 「いや、いないよ。まだ欲しいとも思わないな」 それから私たちは数分の後に荷物をまとめ、教室と準備室の鍵を閉め階段を下りた。私は自転車にまたがって、教諭は3年のローンを組んで買った中古のスポーツタイプの車に乗り込んでそれぞれ校門を出た。
この話は私とシルエットの彼の話なのである。 この後教諭とボーイフレンドの男が出てきたとしてももうそれは殆ど話の本質とは関係のない事である。 私の高校一年生の十一月はこのようにして過ぎていくはずだった。 その夜に先述のボーイフレンドと手紙の主に同じ文面で一緒に居る事が出来ないという旨を伝えるメールを送り数時間の一悶着があったことも全くこの話には関係のない事である。 関係のない事だ、と言う事を教えたのはそのシルエットの彼で、彼は病的とも言える程に人間の事を軽蔑していた。いや、どちらかと言えばしているように見えた、と言った方が正しいだろう。いや、むしろ無関心と言う単語の方が適当であるかもかもしれない。 …これでは話が飛躍しすぎているように感じてしまうかもしれない。しかしそもそも私である『雫』にとってもさえそんなに長い話ではない事を理解していただきたい。これは込み入った話ではなく、未来の無い私に対する今出来る精一杯の慰めの言葉達。意識と伝達の無駄遣い。けれど私にとってこの話こそが私を象徴するものであって、存在なのだ。 私のバックグラウンドは美術室と香りと夕日でほとんどが埋め尽くされる。それに屋上を眺めると言う事象を含めれば、それで私の全ては説明が終わる。 私を構築するファクターはそれで埋め尽くされるのだ。 けれど私はそれで悔いるような事は一片たりとも思わない。私はそれで結局の所十全であったのだと思うのだから。 秋が木から風を吹かせる度に葉を取っていくように、私は呼吸をして、そういうメールや言葉を交わす度に自分と言う葉を取っていったのだ。必要な分だけ。
この話と私にハッピーエンドは無い。
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