社会人の入り口は食品業界だった。 商社務めを始めて10年余、その後半は水産担当で働くことができた。 食品関係ではいろいろな部署を経験したが、水産の業務は抜群に面白かった。 水産の仕事は扱う金額が大きく、魚種別に担当が分かれている。 上に管理職はいても仕事は専門化していて、全ての判断が個人に任されていた。 相場商品でもあり、取引は実にシンプルで明快だった。 人と人との信用を前提として、日常的に電話で交渉し売買の話を取り決めていくのだ。 それは契約と全く一緒で、契約書などなくても金額が大きくても小さくても、話した内容 が取引の全てであり、その後の駆け引きや嘘などは全く通用しない世界だった。 新人が商売をしたとして、その相手がベテランであってもどんな偉いさんであっても仕事 上では、全くの対等な関係で話を進めることが出来るのだ。 勿論会社と言う信用を背景にした話ではあったが。 一億でも二億でも買ったといえば、会社は間違いなく金を払ってくれる。 若い自分でも個人で大きな事業をやっている、そんな気分・心構えで仕事が出来た。 特殊な世界ではあったが、貴重な経験だった。 三十歳を越え、五年前に食品商社から独立を果たした。 若輩ながらも輸入と卸売専門の会社を経営し、業績はそれなりに推移してきた。 大きな成果と言える物はないが堅実な経営が認められ、弱小とはいえ業界では、一定の存 在感を示せる位置まで辿りつくことができた。 流通形態の激変で今後も様々な試練はあるだろうが、どうにでも出来る、そんな自信を持 つまでになれた。 それは創業以来一番の成果だった。 昨年の初夏、紅鮭のシーズンに合わせて大手量販店のバイヤーを数人引きつれ、アラスカ の漁場や現地工場を案内して歩いた。 根気よく根回しを続け、タイムリーにも天然=安全と言った社会の風潮にも助けられて、 これまでの努力が漸く実を結んだのだ。 海外からの「産直」と言うタイトルと明確な商品の追跡、いわゆるトレーサビリティが可 能であると強調した。 現地工場との提携で、量販店独自のブランド製品を供給する商談の成約に漕ぎ着けた。 これからも越えるべきハードルはいろいろあったが、毎年継続可能な大きな商談であった し、相手でもあった。
(今日このまま帰るには勿体無い) 今の気分を形にして、まずは祝杯を挙げたかった。 (本当に良くやった) 自分を褒めてもやりたかった。 アラスカの産地工場から受けた信用を頼りに会社を起し、それなりの組織に育て上げた。 スタートは本当の一人からだった。 (会社もようやく形になった) 普通だったら相手にされない大手企業相手の仕事だった。 (本当にありがたい) いろいろな人に助けられて、ここまで来ることが出来た。 勿論行き先は決まっている。 初めて「ななし」の暖簾をくぐった。 (なにか良いことがある) 確信に近いものがあったし、 (新しいことが起きる) そんな予感もあった。 わくわくしながら暖簾をくぐった。
格子戸を開けると、見事と言う表現が似合う自然木の一枚板で作られた、幅広で鍵型の カウンターがまず目に入ってきた。 ゆったり八〜九人は掛けられる長さで、その上には大きな俎板皿がそれぞれの位置に設 (シツラ)えてあった。一つ一つ焼きの種類が異なり、素人目にも贅沢で豪勢な皿に思えた。 店の奥には小上がりが一つあり、全体で十二〜三人が収まるような店の大きさに見えた。 整った木目の白木を多用したシンプルな内装で、店内は明るく清潔感があり、想像通り落 ち着いた佇まいの店だった。
「いらっしゃいませ!」 着流しにと言うのか、和装に襷がけをしたご主人が迎えてくれた。 白衣にネクタイ姿を想像していたが、如何にも「板前」を感じさせる着こなしだった。 店の雰囲気からして、 「ご予約は?」 などと問われるかも知れない、と覚悟していたがホッとした。 引き締まった顔立ちだが、目には柔和な光を湛えていた。 刈り上げた頭に若さを感じさせるが、表情には老いの入り口に立った、渋さを感じさせる ものがある。 ちょっと目には年齢不詳、そう言う感じの男だった。 「どうも、こんにちは! 初めてなんですがよろしいですか?」 「あ、お好きな席へどうぞ」 カウンターの左隅には和服姿が身に付いた風情の老人が、端然と独酌で楽しんでいた。 その隣に置かれた二脚の俎板皿の前には、予約を意味すると思われる二膳の箸が箸置きに 据えてある。右端では二人の男性客がゴルフの話題に興じていた。 自然にご主人のまん前の席を占める形になった。 カウンター越の大きな俎板の上には、柳刃包丁だけが置かれているだけで、食材は見えな かった。もちろんメニューもない。 どんな感じで、どのように頼んで良いのか? 戸惑いながらも静かに待った。
「いらっしゃいませ」 (奥さんだろうか?) 「お飲み物は何になさいますか?」 店の奥から出てきたこれも和服の女性が、お絞りと箸を置いてくれた。 「ビールをお願いします」 「サッポロの小瓶しかありませんけど、よろしいでしょうか? 」 「お願いします」 と答え、どちらにと言うでも無く、この近くに住んでいること、お店の前を通るたびに、 一度覗いてみたいと思っていたことを告げた。 「そうですねぇ……うちの店は入りにくいって言われますねぇ、確かに。まぁ私の我侭で やってるだけの店なので、しょうがないんですけどね」 苦笑いしながら言い訳するように話をつづけた。 「うちはお酒も肴(アテ)もたいした種類(モン)は置いてませんので、その日にお出し出来るも のだけで、楽しんでいただく形になりますが、よろしいですか?」 「お願いします」 と、うなずく自分に 「もちろんお嫌いなもんは仰って下さい」 こちらを試すように笑顔を向けてきた……悪戯好きの子供のような視線だった。 私は今日思い切ってした、小さな決断の成功を確信した。
出てきたビールは適度に冷えたサッポロの小瓶と極薄のタンブラー。 強く握ったり、口をつけるのが不安になるような薄さだった。 ビールのつまみなのだろう、一緒にだされた小皿には何かの殻のようなモノが載っていた。 (なんだろうこれは……?) 不思議なものを見つめているとご主人が 「あ、それはシャコの爪です。割って中身を取り出して、お召し上がり下さい。もうじき 空豆も茹で上がりますから。」 (お、結構いけてる) 初めて食べてみたが微妙にビールに合っている様な気がした。 乙な味? そんな風に言うのだろうか、割って食べる作業が妙に嬉しかった。 太い節の部分が無くなると、残りの細い節に手を掛けた。 たいして身は入っていなかったがその作業が面白く、楽しかった。 小皿が殻だらけになり、身が入った節を探すのが難しくなってきた。 「すいません大将これ、どこまで食べればいいんでしょうか?」 ご主人は笑いながら 「普通は太い節だけなんですが、そこまで食べて頂けると嬉しいですね」 もう食べるところも無くなったところに、タイミング良く空豆が出てきた。
二人の先客は、常連なのだろう。 親しげにマスターとか苗場さんとか呼び、話しかけている…… 大将の名前は苗場さんと言うのだろう。 二人にはオーダーも無しに流れるように酒と肴が供されていく。 お造りで平目、鮪の赤身と中トロ、小振りで一本もののキュウリに田舎味噌、サヨリの皮 の串焼き、鯖と赤身でヅケの握り鮨が一貫ずつ、蒸し上げ立ての鮟鱇のキモ。 見ていると一見脈絡の無い供し方に見えるのだが、それぞれが客のペースに合わせて出さ れて行く。 俎板皿の上に、小鉢で、平皿で、そして手渡しでと、そこには見ていて小気味の良いリズ ムがあった。 和服の老人に対しては、また別の流れで応じていた。 黙ってその様子を楽しんでいる私も、そんな風に遇されるのだろうと思えた。 大将の手元を見ているだけで、そこにいる価値があった。 芸術とまでは言わないまでも、次々と見ている間に作品が出来ていく、そんな様子だった。 自分も同じようにと言う期待を込めて、 「私にもお酒お願いします」 早く一緒に何かを出してほしかった。 「お冷とお燗どちらがよろしいですか?」 「あ、お燗でお願いします」 燗酒を呑んでいる人を見ていたので、酒は燗だと思い込んでいた。 「これで、いかがですか?」 ご主人がお猪口を選んで差し出してくれた。 古伊万里だろうか、綺麗な赤絵のぐい飲みタイプのお猪口だ。 「素敵なお猪口ですね、有難うございます」 お酒の銘柄はなんだろうと思ったが、黙って待った。 これまでの雰囲気で余計なことは言わないのが一番、と判っていた。 「清酒を”お酒”って言って注文して頂けると、なんか嬉しいですね。日本人がお酒って 言ったら清酒じゃなくちゃと思ってるんです。わざわざお酒を”日本酒”って言う言い方、 おかしいですよね?」 と、笑いながらご主人が語りかける。 (えっ?) っと思ったが、曖昧に頷いた。 「とりあえず、これでやってて下さい」 出来たてのアンキモを小鉢で出してくれた。 蒸し立てで暖かいアンキモなんて初めてだ。 (美味いっ!) ポン酢に合わせて頬張ると、濃厚な旨味が口一杯に広がり、蕩(トロ)けるような味がした。 (酒といったら清酒に決まってるじゃない) どうやら、注文の仕方が気に入ってもらえたようだった。 なにやらいろいろと拘りがありそうな店だ。 楽しめそうで期待が持てた。
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