グループ ソ ラ 【 プロローグ 】
1. その店は地下鉄の駅に続く表通りから、一つ奥まった閑静な住宅街の一角にあった。 閑静と言っても近くには、見上げるようなタワービルがそびえ立っている。 元々この辺りは都内でも「陸の孤島」と言われ、地下鉄が通るまでは交通の便が悪く、静 かで落ち着いた土地柄だった。 そのタワービルを中心とする一帯は都市再開発の象徴とも言える存在となり、多くの人 たちを引き寄せ賑わっていた。新と旧が入り混じる街並みには、不思議な調和が見られた。 住宅街の通りに面した店の表に看板と言った類のものは無く、高い塀に囲まれたその店 は注意していないと見過ごしてしまいそうな佇まいだった。 粋な風情と言うのだろう、小さな門構えの奥には淡い照明に浮ぶ竹の植え込みに、短く 石畳が玄関へと続いている。 格子戸の入り口には、軽妙な筆文字でデザインされた「きまぐれ酒処・ななし」と言う名 に、渋茶に染められた暖簾(ノレン)が下げられていた。 暖簾のイメージと店構えから、和食系と言うことは想像できた。 酒処、というからには酒は楽しめるのだろうが、「きまぐれ」と言う軽いタイトルが不釣 合いに思え、少々気に掛った。 外観には充分高級感もあるのだが、それ以上に重厚ではなく軽妙・洒脱と言う雰囲気を 醸(カモ)し出していて「大人の店」と言う拘(コダワ)りが感じられた。 門から店へ続く造作(ツクリ)には、充分に気後れを感じさせるものがある。 価格は良いとしても店構え全体が敷居の高さを主張しているようで、一見の自分にとって はなかなか入りづらい店に思えた。 朝は住宅街に溶け込んで目に止まることはない。 灯りが入って、帰り道に観る店の様子と格子戸越しに映る人影は、随分と魅力的に見えた。 いつも誘い込まれるような心地になった。
2. 一連の売買にはインサイダー取引の疑いがあった。 このところ東京証券取引所の売買で、何件かの注目を集める株取引が見られた。 一部上場企業の数社で大量の空売りを浴び、大きく値を崩す銘柄が出たのだ。 それは特定のファンドや競合する企業が組織的に仕掛けたような動きではなく、単純な売 買差益目的の取引と思われた。 注意深く調べてみると、その売買はパターン化され、いわゆるデイトレーダーが組織的 に集中攻撃を仕掛けている、そんな構図が浮かび上がってくる。 デイトレーダーとはパソコンを使い、いわゆるネット証券を利用することで株式の売買 を行う人たちのことだ。それはインターネットが生んだ新しい株取引の手法で、個人が二 十四時間、しかも在宅のままで取引することが出来た。 今時のデイトレーダーには資金量が百億規模の人間もおり、個人と言ってもその影響力を 無視することは出来なかった。
東京証券取引所では前場の終了時間が近づいていた。 グリン製薬、投資家情報(IR)の部署では、常時IR担当が株価をモニターしていた。 「おい、なんかうちの株価おかしいぞ、前場が開けてから下げっ放しだよ」」 後場に入っても下げ基調は変わらず、状況に変化はなかった。 「ええ〜、ぜんぜん下げ止まんないぜ。いったいどこまで行くんだ?」 総務部の一角で起きた騒ぎは、会社全般に伝播していった。 「おい、急いで上に報告しろ! やっべぇぞ、これ」 その報告は間に合わなかった。 「オォ〜!!」」 総務部全体に揺れるようなドヨメキが起きた。 株価は値幅制限一杯まで落ち込み、ついにストップ安となってしまったのだ。 「なんだこれ、おい、ストップ安じゃないか。どうなっているんだ?」 騒ぎは止め処も無く拡大していった。 「ストップ安って、なんか会社(ウチ)で発表したのか? 材料はなんなんだ?」 総務部の殆どの者がモニターの前で凍り付いていた。
パターン化された売買と言うのは、大量の空売りを仕掛けられた企業の不祥事が、売買 の後数日以内に必ず噂となって流出し、売り浴びせの根拠が明らかになることだ。 それは製造物責任の隠蔽や談合・贈収賄の違法行為等、企業にとっては大きな痛手となる 問題で、露見した企業の中には謝罪会見をさせられた会社もあった。 噂に加えて不祥事の詳細がマスコミに通告されるなど、ダメ押しまでする周到さだった。 パソコンを使った取引を追跡調査するのは比較的容易で、証券会社のデータや口座の動き をチェックした結果、全体の構図が浮かび上がってきたのだ。 一部のデイトレーダーたちが組織化され、そうした情報を共有した上で、同時に売買を始 めると言う、従来には見られない手法が使われていた。 それらの事実を不正な手段で知り、何らかの方法でグループを作り、株の売買をしている と言うことであれば、インサイダー取引と見なされ処罰の対象にもなり得るのだ。 ただ不特定多数のデイトレーダーが、どのようにして情報を共有し、組織的に対応するの かは未だ不明で、現時点で取締りの対象にすることは難しかった。
会議室では届けられた夕刊を前にして、役員全員が深刻な表情をしていた。 「臨床での死亡例って、新薬のことか? 」 「隠ぺいって何だ、こんなこと聞いてないぞ!」 「人体実験モドキって一体なんのことだ? 誰かそんな話知っているのか? 」 「誰か説明できる人間はいないのか? 担当役員!」 全員が押し黙る会議室の中で、社長一人が怒鳴り散らしていた。 その騒ぎは夕刻になり、ますます拡大していった。 総務部には問い合わせの電話が殺到し、全員が対応に当たっていた。 それは新聞を見た一般株主や市民たちからの抗議の嵐だった。 「今日一日の株暴落は、これが元だったんだ。おい、これが本当なら会社はヤバイぞ!」 その場にいる人間は記事の内容を理解し、電話を手に呆然と立ち竦(スク)んだ。
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