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作品名:マンガ喫茶だより アマポラ編 作者:樸 念仁

第1回   天女の印誌


山なみは見えず、アマポラ。リンディシマ・アマポラ。

男は口ずさむのだった。

雨の木曾路を赤いマウンテンバイクにまたがり、背には大きなバックパック、宿場から宿場への旅ぐらし、目にする風物を原稿用紙に書きためながら、京都鴨川のながれにかかる三条大橋をめざしていても良いはずだった。

木曾路がすべて山の中であるとは、誰知らぬ者のない文学的事実である。現在ではコンクリートとアスファルトの中にあるようになった部分も多いという。

なぜ岩村啓一が山なみを見ていないかといえば、いるのは信州の宿場ではなくて、東京は杉並区の住宅地にあるハイツ・イーグル、その二階部屋に仮寓しているからなので。ハイツ・イーグルの二階より見える山はない。見えても杉の並木が関の山である。

本当のところ、それさえ見えはしない。窓を開ければ目の前が隣家の物干し台で、何の花だろうか、さして美しくもないやつが数鉢置かれているが、いずれもヒナゲシではあるまい。

してみると、山なみは見えず、アマポラも見えず、と口ずさんでも良さそうな場合なのに、

山なみは見えず、アマポラ。

と、啓一は口ずさむのである。美しい人の影が、去らず心を占めている結果と推量される。

美しい人の「おもかげ」と言うべきところを、いま、あえて美しい人の「かげ」としておくのは、啓一が思うその人への、我々の気づかいである。

彼の思いびとはあるシルシをもってこの世に生をうけた。

だからと言ってむやみに人をふびんがる啓一ではない。

ところが、当の彼女は、限りなく醜いものとしておのれのそれを憎んだ。見る者をして必ず自分に対するさげすみの念乃至あわれみの情を催さしめずにはおかないようなそれだと、頭から決めつけた。

ためにそれは皮膚組織にのみとどまることをせずに、転移して内面にも痕を残すものとなった。成長するに従って、持ち主の人格に破壊的な作用を及ぼす力を得たのである。

シルシは天女の顔の上に認められた。


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