決行の日はやけに風が強かった。 木枯らしに煽られたコートの襟が何度も僕の頬を叩いて、鞭に打たれたようなその痛みに僕は軽く息を漏らす。大きなマスクで頬を覆っているにも関わらず、その下にはみみずが幾筋も這っているかもしれないと思った。両手でコートの襟をしっかりと押さえていればいいのだろうが、コートの右ポケットに入っているものが気になって、僕は右手を出すことができない。左手だけでうまく両襟を掴んでも、突風が片襟をさらって、やはり鋭い一撃を頬に食らう。段々と馬車馬のような気分になってくる。風は僕の背中を押すように吹き、そして「行け! 行け!」と鞭打ってくるようだった。 僕はコートの裾ポケットに入れた右手にぎゅっと力を込めた。手袋越しに拳大の石のごつごつとした感触を確かめる。この寒さにも僕の右手は少し汗ばんでいて、皮手袋の中にじんわりとこもった蒸気が、石の感触をより不快なものにした。 石がいいと言ったのは彼女だった。 どこにでもある物だから足が付きにいくいはずだという主張で、自信満々に彼女は愛くるしい表情のまま、「木を隠すなら森って言うじゃない。石は川に投げ込めばいいのよ。血は洗い流してくれるし、石同士が擦れあって形は変わるし、見つかりっこないわ」と力説した。事件において凶器の捜索にどれほどのウエイトが置かれるのか僕は知らない。でも、たとえば凶器が発見されなかったとしても逮捕されることは間違いなくあるし、立件されることだってあるだろう。人を殺すというのは彼女が言うほど簡単なことではないし、甘くもない。そう反論したのだけれど、惚れた弱みのせいなのか、僕は結局、諭すどころか彼女の頼みを断れず、駅の外の物陰で殺す男を待ってしまっていた。 プアーンと警笛を鳴らして、電車が駅に滑り込んでいった。それからしばらくして駅が人ごみを吐き出しはじめた。右手はそのままに左手で携帯電話を取り出し、彼女からのメールに貼り付けられた男の画像を開いた。ふくよかな男が柔和な笑みをたたえている。改めて見ても人の良さそうな男に見えた。これから僕はこの男を殺すのだ。震えがきたのは寒さのせいばかりではなかった。 人の波が途切れるようになっても、目当ての男はいっこうに現れなかった。見逃してしまったのかもしれないと不安に思いながらも、そうあればいいと願っていた。しかしその願いも虚しく、のんびりと駅から出てきた男を僕は見つけてしまった。男はベージュのビジネスコートを纏っていて、カジュアルな恰好で写っている画像の印象とは若干異なって見えたが、醸し出す温和な雰囲気が間違いなく画像の男であることを示していた。 迷う僕を鼓舞するようにまた突風が吹き、「行け!」と鞭打った。僕は戸惑いながらもせかされるように、慌てて男の後を追った。男をつけながら、どうしてこんなことになったのだろうと記憶を辿っていた。
「あなた、私のためにどこまでできる?」と訊いた彼女に、僕は「まだまだできるよ」と返したと思う。 羽毛布団をはぐって裸で横たわる彼女に覆いかぶさり、しなやかな白い首筋に唇を這わせた。ゆっくりと上昇していってキスを交わそうとしたところで、僕は彼女に「そうじゃないわよ」と押しのけられた。 目を丸くした僕に、彼女はこともなげに言ったのだった。 「私、結婚してるのよね」 「え?」 恋人同士だと思っていた僕は頭が真っ白になってしまって、彼女の言っていることの意味が呑み込めなかった。全身から力が抜け落ちて、手や腕が痺れているような感覚に陥った。そこへ彼女は念を押すように追い討ちをかけてきたのだ。 「だからね、旦那がいるの」 夜に電話をかけると決まって彼女は素っ気なくて、すぐに電話を切りたがった。泊りがけのデートに誘っても一度としていい返事をもらえなかった。おめでたいことに僕はそれらの訳をようやく知ったのだった。誕生日にファッションリングを贈ったことも思い出した。彼女は微笑みながらも少し困惑したような表情で、僕からのプレゼントを受け取った。僕はそれをずっと照れ隠しだと思っていたのだけど、何のことはなく実際に困っていたのだろう。僕はショックを受けながらも赤面した。 「そ、そんなこと言ってなかったじゃないか」 「うん、初めて言ったもの」 何がおかしいのか、彼女はころころと笑った。 有線放送が場違いにラヴバラードを奏でていて、甘い歌詞が室内に響いていた。 「これで終わりってことなのか?」 「違うわ。どこまでできるかって話よ」 「できるかって何を?」 それがセックスのことではないのはもうわかっていた。夫のいる女がその上で何を求めるのか、僕にはまったく見当もつかなかった。 彼女はきっと眉をつり上げた。 「旦那を殺せる?」 僕らは無言で見つめ合って、そして睨み合った。奇妙な睨めっこで、先に音をあげたのは僕のほうだった。僕はぎこちなく、へへへと笑った。 「冗談だろ?」 彼女は表情を崩さなかった。 「本気よ」 言って、彼女はふっと頬を緩めた。 翻弄されてばかりだった僕は、言葉に詰まりながらやっとの思いで「なんで?」と訊いた。自分の夫に死んでもらいたい理由というのはそれ相応のものでなければならないと思ったし、そうでなければ僕は人殺しになどなれない、いや、たとえそうであったとしても僕には無理だと思っていた。夫のことが嫌になったのなら、離婚すればいい。結婚生活に我慢ならなくなった、世の中のほとんどの女性はそうするはずだ。根気よくそう説得するつもりでいたのに、僕は彼女の言葉に我を失ってしまった。 彼女はこう言ったのだ。 「あなたを愛しているからよ」 舞い上がってしまった僕の耳には、彼女は夫に死んでもらってまで僕と一緒にいたいと言っているように聞こえた。 そして彼女はこう続けた。 「あなたは私のこと愛していないの?」 そうだ。それで僕はなぜだか、彼女の夫を殺すことが、愛を示す唯一の方法だと思ってしまったのだった。
彼女の夫は善人を絵に描いたような男だった。途中寄ったコンビニエンスストアで釣り銭を当たり前のように募金箱に入れ、これなら僕にも殺せるかもしれないと思わせるくらいに、暴力の匂いがまるでしない男だった。 気付かれないように後をつけ、息を殺してチャンスを窺った。人気はもうなかったが、風は相変わらず、僕を見張るように強く吹いていた。少し先の角を曲がると外灯のない細道になる。下見をしたときにそれを知って、襲い掛かるのはここだと決めた。唾を飲み込んで自らに決意を促す。固唾を嚥下したとき、ごくりと思いの外大きく響いて、僕は動揺した。足も呼吸も止めて様子を見る。心臓が激しく脈打っていた。幸い、僕の喉音は彼女の夫の耳には届かなかったようで、彼女の夫は振り返りもせずに角を折れた。僕はほっと胸を撫でおろし、抜き足差し足、距離を詰めた。ポケットの石をぎゅっと握りしめる。 続けて角を曲がったその刹那、僕は卒倒しそうになった。彼女の夫がそこに立っていたのだ。彼女の夫は僕のほうを向いていて、いわば僕は待ち伏せされた格好だった。僕が鳴らした喉の音は聞かれていたのだなと思うよりも先に、僕は不覚にも「ひっ」と悲鳴をあげてしまっていた。 慌てて距離を測って身構えてみたものの、右手が硬直していて石をうまく取り出せない。石はポケットの縁に引っかかってしまい、反動と重力が石をまたポケットの底に戻した。半ば錯乱しかけていた僕に対して、彼女の夫は直立不動のままで、微動だにしなかった。僕と目が合った瞬間――正確には合ったような気がした瞬間――彼女の夫は僕に向かってちょこんと頭を下げた。その拍子に彼女の夫の右頬を青白い光がほんのりと照らした。彼女の夫が携帯電話を耳に当てているのを見て、僕は思わず大きくため息を吐いた。冷静になって考えてみれば、僕がそうだからといって、彼女の夫が僕に対して同じように殺意を抱いているわけではないのだ。待ち伏せされていたのではないと知って、途端に僕の右手は弛緩したけれど、それでも石を取り出すことはできなかった。 僕は襲い掛かるタイミングを逸してしまったのだ。その場に立ち尽くしていると、心の奥底に押し止めていた迷いが堰を切ったようにして溢れかえり、身体中をまた満たしていった。彼女の夫はそんな僕を不思議そうに見ていたような気がした。僕は彼女の夫に彼がしたのと同じように頭をちょこんと下げて、一歩を踏み出した。 彼女にどう言い訳しようかと考えながら、彼女の夫から遠ざかっていると、背後で彼女の夫が彼女の名前を口にした。僕は待ち伏せされたと勘違いしたときよりも激しく狼狽して、泡を食って周囲を見渡した。闇夜に目を凝らして彼女の姿を捜したけれど、それらしき人影はなく、ただ彼女の夫の陽気な声だけが狭い路地に木霊していた。 携帯電話のディスプレイが放つ淡い光の中に、僕は彼女の夫の緩んだ頬を見た。その瞬間、何かがパチンと音を立てた。理性の弾ける音だったのか、嫉妬心のはぜる音だったのか。気付いたときにはガンという衝撃が石伝いに僕の手にあって、足許に「うぅぅ」とうめく彼女の夫がいた。 何キロもない石ころをただの一度振り下ろしただけなのに、僕の呼吸はひどく乱れていて、心臓はばくばくと鼓動を響かせていた。もう後戻りはできなかった。止めを刺すために右手を振り上げた。些細な動作なのに、それがひどく難儀で不意によろけてしまった。 そのとき僕の視界に、地面でほの白く月光を反射しているものが映った。コンビニエンスストアのポリ袋から少し顔を出していたそれに僕は見覚えがあった。月明かりだけではそこに書かれている文字までは読めないのに、僕にはその白いパッケージに何と刻まれているのか見えていた。それは彼女が好んで食べるチョコレート菓子だった。
夜が明けて昼になっても眠れずに布団の中で震えていると、彼女からのメールを示す着信音が鳴った。いつもなら歓喜して聴くメロディも、やけにけたたましく聞こえて、僕は耳を覆った。爆発物を扱うように携帯電話を手にして、恐るおそる彼女からのメールを開封した。 メールにはまず彼女の夫のことが書いてあった。結果として、彼女の夫は死ななかった。それどころか怪我は極めて軽く、全治まで一週間もかからないという。結局、僕は一撃食らわせただけで、止めを刺すことはできなかったのだ。あのチョコレート菓子の白いパッケージを見た瞬間、僕は殺意どころか戦意まで失ってしまった。戦意とは何がなんでも彼女を奪い取るという意志のことだ。一時は殺害することも厭わないほどに煮詰まっていたのに、それがなぜだか急に薄まってしまった。チョコレート菓子に、彼女の夫の彼女への愛を見てしまったせいかもしれない。それに比べれば、僕の彼女への想いなどは熱病みたいな恋にうかされて出来た愛とも呼べない代物のような気がした。僕には彼女の夫を殺す権利はなかった。そのことに気付いて、僕は逃げ出したのだ。頭を抑えて喘ぐ彼女の夫から、そして彼女からも。 逆恨みが怖いからと彼女が言ったことで、彼女の夫は警察沙汰にするのを止めたらしい。病院で散々訝られたが、なんとか誤魔化すことができたと書いてある。とんでもないお人好しだと呆れながらも、敵わないなと思った。彼女の夫が軽い怪我で済んだのは、あの後、彼女が助けに行ったからだろうか。彼女は一体どんな思いで、受話器越しに彼女の夫が襲われる瞬間を聞いたのだろう。 メールは『私のためにありがとう。私のせいでごめんなさい。』という文句で締められていた。 それにしてもなぜ彼女は僕に自分の夫を殺させようとしたのか。彼女は僕を愛しているからと言ったけれど、僕は今も本当の理由を知らない。メールで尋ねようかと思ったが、書いては消し、消しては書いてと繰り返すうちに、本当に僕を愛してくれていたからかもしれないなと思うようになった。 それから僕は携帯電話に登録してある、彼女の電話番号とメールアドレスを削除した。そして彼女からのメールが振り分けられるフォルダを選んで、中のメールを一括消去した。進行状況を表すメーターが左から右へゆっくりと進んでいく。 右端まで一分くらいかけて辿りついたとき、僕は、僕の彼女への想いが愛に昇華したのを感じて泣いた。
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