“ただいま!” 美千代の声が響き渡る。 隆一は、 “あっつ。姉さんだ。お父さん、姉さんが帰って来たよ。” “わかっとる。おとなしくすわっとけ。” 隆一は父に促されておとなしく父とともにウィスキーを飲んで座っている。 やがて美千代とともに信次が現れた。 “今日は。お邪魔します。” “おう!そこに座れ!一緒にウィスキーを飲もう。この丸い氷を入れるとウィスキーがうもうなっとぞ。” そう言ってウィスキーのグラスを自分の前に置き、信次を自分の前に座らせた。 必然的に美千代は自分の斜め前に座ることとなる。 “美千代もウィスキーば飲むや?” “私はいらん。” 美千代は家庭では殆どアルコールは飲まない。美千代にとってアルコールは一種のファッションみたいなものだ。無理に飲まなくても良い。友達や会社の付き合いで飲むだけである。あまり美味しいとも思わなかった。まして今は信次しか知らないが妊娠している。父親に知られたら激怒を買う。 テレビの音は鳴り響いているが、ウィスキーの中の氷の音だけがテレビの音声の中に響き渡っている。 台所仕事を終えた美沙枝が美千代と息子の隆一の間に座った。 “信次さん。いつも美千代を送ってくれてありがとうね。” 緊張をやわらげるのは何時も年齢を重ねた女性である。男が喋ると緊張が高まる時がある。もっとも信次も文隆も頭の中では忙しく会話をしていた。口に出ないだけである。二人ともこの場に相応しい会話を思い付けなかっただけである。日本人にとってこういう時は何時も沈黙は金である。 “信次さんどう?会社は忙しい?” 美沙枝はさり気なく会社の話題を始めた。 “はい。夏のこの時期ですから、空気清浄器や冷房はかかせないですから。” “じゃあ会社は儲かっていいわね。” “そうですね。会社は儲かっているんでしょうけど、かなり商品を値下げするもんですから忙しいだけで、それほど利益は出ていないんですよ。” “そうそれは大変だわね。” 隆一も会話に入ってくる。 つけっぱなしのテレビのお笑い番組は聞いてもらえる主もいなくて空しく空中をさまよっている。 “やっぱし年齢が上がっていくに連れて給料は上がるもんですか?それとも働いた実績によるもんですか?” 若いだけに聞きたいことをずばっと聞き込む。 “定期昇給は毎年少しだけはあるよ。ほんのすずめの涙程だけどね。それで年をとった人が少しだけ高いかな?働いた実績はボーナスに反映されるんだよ。” 信次は丁寧に答える。 “ふーん。” “隆一君はどんなとこに就職するつもりかな?” 台所でおつまみの用意をしていた良枝が自分のサイダーを入れたコップを持って来て美沙枝の対面、信次と父親文隆の間に座りサイダーを飲みながら会話に加わる。 “お兄ちゃんはまだ決まっとらんみたいよ。工学部の土木だけん。あんまり熊本には就職がなかていつも言いよるけん。” “お前は二階におらんか?” 文隆がとがめるが、 “よか!よか!” といって居座るつもりである。良枝にとって姉と信次の事は興味深いし、自分が将来好きな男ができて家に連れて来た時の大きな参考になる。父親は男という戦争相手を連れてくるのは、難攻不落の要塞みたいなものであった。 案の定、文隆は一言も口を聞かない。 “お前らはど位の付き合いや?” “結婚なんかは考えとらんとやろ?” “お前らの給料でやっていけるとや?” “俺はまだ結婚は認めんけんな。” “お前は俺の大事な美千代を取りやがって1発殴らせろ。子供の頃の美千代はそれはそれは可愛かったつぞ。” 頭の中ではいろんな言葉が出てるが、全く口からは出てこない。静かにウィスキーを氷の音をさせて飲んでいるだけである。時々良枝の用意したピーナッツやおかきを摘む。 “ポリポリ。” 口の中の音があたりに響く。すると美沙枝が肝心なことに触れて来た。 “今日はなんか用事が会って来たの?” 反射的に信次は口に出してしまった。 “いや!御両親に挨拶をしようかと思って。” 文隆に緊張が走る。それを微妙に感じ取って、 “いや!あの!美千代さんとおつきあいをしていることを話そうかと思って。” このように言って、信次はしまったと思った。 これは両親公認の付き合い宣言をしたようなものである。しかし妊娠しているからしょうがないかとも思う。かといって奈津を完全に諦めた訳ではない。 美千代はこの言葉を聞いて安心した。涙がひと雫出て来たが、誰にも気がつかれないように黙って立って、テレビのリモコンを探して消した。 “お姉ちゃん。やるー” と良枝は思って父親の反応を見る。 テレビの音だけが静寂を気がつかせなかったがテレビを消すと本当の静寂となった。文隆の頭の中は物凄く忙しくなる。しかし黙ってウィスキーを飲むだけである。ウィスキーの量が進む。ウィスキーと氷を新たに注ぐ。 “そんなことは許さん。” “じゃあ清い交際をするんだぞ!” “ふざけるな。どんな思いで美千代を育てて来たと思ってるんだ。” “交際は許さん。美千代は私が選んだ教師と結婚させるんだ。” いろんな思いが頭の中を駆け巡るが言葉には出せない思いばかりである。 “おい!ウィスキーもっと飲まんね!全然すすんどらんたい。” 出て来た言葉はこのようなことである。美沙枝は、 “まあ!よろしくお願いしますぐらい言えんとだろか?” と思ったが口に出せない。自分が言うと必ず後でなじられる。美沙枝は無難な言葉を選んだ。 “たまにはお父さんのウィスキーにも付き合ってあげてね。” “はい!” 嫌ですとも言えずに信次は答えた。 “信次さん。お酒はいけるとですか?” 興味たっぷりの良枝が聞いた。
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