暑い暑い夏、小島信次はいらつくなかで、車の運転をしていた。いつもは冷静で穏やかな信次であったが、今日は暑さと交通渋滞のなか会社に遅れ気味のためにいつもの状態とは違っていた。熊本の会社に転勤してもう、5年になろうとしている。熊本県の荒尾市出身の信次はこの熊本の赴任先は気に入っていた。疲れたときは両親のすむ荒尾市に寄って充電して、また熊本での勤務に励んでいた。しかし最近はその両親宅にも帰れないほどの忙しさで、いらいらはそのせいもあった。帯山の寮をでたのは8時50分、産業道路にでる直前のバス停でバスが止まっているのでそれを追い越そうとした時はもう9時20分を過ぎていた。バスを追い越した瞬間白いものが目にはいって急ブレーキをふんだ。鈍い音と、からだ全体に車から伝わる重い感触にしまったという思いとこれで完全に大幅な遅刻だなという思いが交錯して車を止めドアをあけて近ずくと倒れていたのは女性だった。そして顔をみた瞬間電撃的な思いが心と体を貫いた。しかしながら出てきた言葉は残酷な言葉だった。「馬鹿やろー何してんだ!!」榊捺津は19歳、人吉高校から熊本大学に合格して2年目。最初こそ熊本市での生活は戸惑っていたが、今年は慣れてきて毎日を楽しくすごしていた。2限目からの講義に間に合うようにと、道路をわたった瞬間、突然現われた車に思いっきり自分の反射神経をつかって左に飛び退いたつもりだった。そしていわれた言葉が馬鹿やろー倒れながならなんという奴だと思って振り向くと電撃的な思いが身をつらねた。何か遠い昔の懐かしい気持ちがありながら、左足の痛みと暴力的な言葉を聞いてほとんど気が動転してしまっていた。 周囲から人が集まってきた。おばさんが叫ぶ。”早く救急車を!”怒りに心を忘れていた信次が吾に帰る。”わたしの責任ですからわたしが連れていきます。”と彼女を車に乗せ熊本赤十字病院、通常の呼び名は日赤に向かった。車を運転しながら信次は何と言おうかと考えていた。しかし考えがまとまらないまま、”気をつけなさいよ!”と言ってしまった。奈津はかなり気が動転していたが、その言葉を聞くと、自分の方が飛び出してきたのにと思ったが、”大丈夫ですから降ろして下さい。”と痛む足を摩りながら腹立ちげに言葉を発した。その言葉に圧倒されたまま沈黙が続き、やがて車は日赤に着いた。救急外来に着くとそこは患者であふれていた。受付嬢の指示で車椅子を持って来た信次は彼女をのせて空きベッドまで運ぶ。受付嬢はベッドの脇で奈津の住所氏名年齢を書き取っていた。救急担当の看護師が二人にどうしてこうなったのかを聞いていると、若い医者が首に聴診器を架けたままやってきて”左脚が折れてそうだな。とりあえずレントゲンを撮ろう。”といって忙しそうに他の患者の方へと走っていった。そこでは何か患者の顔を縫っているようだ。看護師は”はい”といって、奈津のベッドを運び始めた。信次はその言葉を聞いてこれはえらいことをしてしまったと。青ざめていると、”付き添いの人はここで待っていて下さい”と言われ慌ただしい救急外来で待っていて、”あっ!とにかく電話をかけなくては”と独り言を言いながら携帯電話で病院の外にでて会社に連絡した。会社からは”充分な決着が着くまで帰って来るな!誠意を見せろよ。”みたいなことをいわれ、やはりこれは自分が悪かったのかなと呆然として救急外来の片隅で立っていると。やがて看護師さんと話ながらベッドに寝たままの彼女が帰ってきた。ベッドの上にレントゲン写真を置いてあり信次を見上げると顔をこわばらせて話を辞めた。”かなり怒っている様だな。”と思い、今までの自分の態度を後悔していると、レントゲンをシャーカステンにつけて覗き込んでいた医者が、”膝蓋骨骨折ですね。入院してもらって後で処置をしましょう。整形外科の空き部屋に行って、待ってもらっていて下さい。整形外科の先生には私から連絡しましょう。えーと歩いて道路を渡っていたら突然横から車が来てはねとばされたんでしたね。””はい”と言うやり取りを聞いて信次はよそから見るとそおゆうもんだろうか、ひょっとしたら自分はかなり悪いことをしたんではないかなと客観的な評価を聞いて、少し反省しだした。看護師がベッドをおしてエレベーターに乗るのに付いていき、整形外科の大部屋にはいるとそこは4人部屋でお婆さんが二人、中年の女性がひとり入院していた。空きベッドに移動性のベッドをつけると看護師は”大丈夫?自分で移れる?”と奈津に声をかけた。”ええ”と答えると看護師の介護を得ながらベッドへと寝転んだ。信次がベッドへ移った奈津の顔をあらためてみると極めて美しいことに気ずいた。看護師の横に受付嬢が来て、”健康保険や着替え、歯ブラシなど入院に必要なものはここにかいてあります。家族のヒトをよんで持って来てもらってはどうですか?”といわれたが丁度奈津の父は人吉市役所勤務だが東京へ出張中だし、母は父の出張のついでで途中まで一緒に行き、信州に旅行にいっていた。”父も母も2、3日いないんです。”困った顔でいうと、”私が持って来ましょうか?”と信次が申し出た。下着なども書いてあったので、少し赤くなりながら信次の顔をうかがうと優しそうで端正なマスクをしている信次の容貌を認め、今までの悪印象が和らぎ、どう仕様もないのでこの際仕方ないかと思っていると、受付の女性は、”あそうだ、事故だから保険は効かないのです。””えーとあなたは対人保険に入ってますね。保険会社に連絡して下さい。それとこれが入院に必要なもののリストです。”と、信次にも入院案内を渡した。奈津は学生アパートの地図を書き部屋のカギを信次に渡すと、”ではお願いします。”と下を向いて恥ずかしそうに話した。そのとき信次は心臓の鼓動が強くうっている自分に気ずいた。偶然両者の手がふれたとき両者とも突然スペインのグラナダにあるアルハンブラ宮殿の中庭の情景が一瞬目に浮かんだ。もちろん2人とも海外旅行に行った事はない。そのときは分からなかったが、じきそれは分かる事になる。信次はそのまま自家用車に乗り、奈津の学生アパートへ向かった。車は左前方が少し潰れていた。奈津のアパートは熊本学園大学より裏手に50メーターほど入った場所で、車を空き地にとめて学生アパートに入っていった。地図を見て2階の203号室に入っていった。そのとき大きな地震のようなものを感じ、その場に座り込んだ。何となく懐かしい思いが始まった。スペインのグラナダにいた。同時期に日赤病院でやっと落ち着いた奈津にもくらくらとめまいがして寝ていたベッドに倒れこんだ。一瞬にして信次と奈津は自分らの長く悲しい物語を知った。いや感じた。 それは紀元後千3百年程の時期であった。アルハンブラ宮殿で過ごしていた19歳のシャルム王子は49人の王子達の28番目の王子であった。20歳になると王宮を出ていかねばならなくなる。ナハトム王は77人の妻を持ち55人程には手をつけたが、22人にはまだ手のついていない妻がいた。多くは18前であった。しかし王の妻に対しては、何人も手をだしてはいけなかった。ハーレムの中で王は7人程の妻達と入浴し、体を洗ってもらうが、そこで宮廷楽団が風呂の上に作られた壇上で音楽を奏でる。その楽団は奥方の裸を見ないように目を潰されている。当然王の妻をとる者は何人も極刑にされる。依然にも禁止されているにも関わらず美人ぞろいの妻の一人に手を出して殺された家来が3人ほどいた。その22人の妻の中に17歳のナイ−ダがいた。属国のモロッコの小国ルイトンの姫だったが、はるばるグラナダのナハトム王に献上されたものだ。ライオンの噴水のある中庭でルイトン側からナハトム王に引き渡された時は数カ月前で、ナハトム王は思った。“この娘は我妻の中でも特別美しい。 もうしばらくして女らしくなってきた時が楽しみだ。“そして部下に命じた。 “できるだけ自由にふるまわせよ。”殆どの妻達は自由に宮殿内を歩く事は許されない。しかしナイーダはその命令のおかげで違った。今日もヘネラリーフェ(天の楽園=水の庭園)をのんびりと歩いていた。時は春、赤や紫の花が咲き誇っている。そこでシャルム王子と会った。シャルム王子も自由に王宮内を出歩く事は許されていない。王子達は普通は15になると王宮を出されて、地方の王の元で使える。しかし能力が高く剣技に優れている王子は20歳まで宮殿にいて王見習いとなり、地方の王となって赴任していく。王女達は12歳になると有力なモロッコ、スペインさらにはエジプト内の有力なそれぞれの国へ嫁いでいく。シャルム王子は王子の中でも特別に能力が高く次期王の候補の一人でもあった。だからといって王の妻と近づくことは許されていない。王子達に講義があり、合同でイスラム教の教典の講義の最中だったのだ。シャルムはこっそりと抜け出して、花の中に身を隠し、顔を出したところにナイーダがいた。“まあ!そんなところで何を為さっているの?”ナイーダガ驚いて尋ねた。おつきの侍女が代わりに答える。“シャルム王子様。また講義の途中で抜け出されたのですね。先生がお知りになったらお怒りに成りますよ。”端正な顔立なので侍女達にも人気の高いシャルム王子は答えた。“悪い悪い!!この事は内緒だよ。ところでこの方がナイーダ姫かい?”“ナイーダ姫様ではございません。ナイーダ奥方です。”と侍女が言う。“こんにちは!ナイーダさん”とシャルムが言うと、“若様!王妃様に話し掛けるのは禁じられています。”するとシャルムは“もう怒られる事をしているから1つも2つも一緒だよ”と言って、“でもお前が罰せられると悪いから、退散して退屈な講義を聞きに行くとしよう。では姫!さらば!!”“姫ではございません”と言う侍女の声を後にもとの講義室へと忍んで戻った。ナイーダは“くすっ”と笑って、“面白い人”と言った。“ダメですよ!王様の耳にはいったらどんな事になるか分かりませんよ。”と侍女が答えると、“何も話さなかったじゃ無いの。”とナイーダは答えた。一抹の不安を感じながら侍女は“はあー”と生返事で答えた。講義室に戻ったシャルムは講義の内容は頭に入らず、ひたすらナイーダのことを考えていた。“何と美しい姫であろう。” “まるで天女のようだ。” “あのように美しい方は今までに見た事が無い。” “また会えないだろうか?” “会っても父上の奥方だからな、手を出したら、私も殺されるのだろうか?” “でも会ってみたい。” 講義の時間中あたまの中はナイーダの事で一杯だった。 講義も終わり自分達の部屋に帰る時13歳のキアリ王子が近付いてきた、 “兄者!一緒に帰りましょう。” “おお!キアリか、実はさっきな、講義を抜け出してヘネラリーフェの中に隠れていたのだが、花の穴から顔を出すとそこにはこの世のものとは思えない美しい姫がいるでは無いか。それからずっと夢のなかにいるみたいだ。” “兄上!それはナイーダ様ではございませぬか? 私の3つ上の実の姉ぎみが話し相手になっていますが、それはそれはおきれいな方だと話していました。” “キアリの姉上というと、ルイーザか?” “はい” “ルイーザとは2、3回話した事があるが、とても話好きな明るい方であったな。” “はい、私にはとても厳しく、剣と学問をもっと鍛えよと言うばかりですが。” “私には母の同じ実の兄弟はいないが、母の同じ実の姉弟はそんなもんだろう。” とシャルムは答えた。 “それよりも何でもいいからナイーダの事を教えてくれ。” “私はルイトンから領地の保全の為嫁いで来たと言う話を聞いただけですが。エーと隣のなんとかと言う強国に対抗するためみたいでしてノノ今日の夕食時でも姉上から聞いてきます。夕食後、娯楽室で会いましょう。” といって自分達の屋敷へ走り去って行った。シャルムはキアリにとってあこがれの的なのだ。 一人になったシャルムは自分の屋敷へと向かった。シャルムの屋敷はアルハンブラ宮殿の周囲を取り巻く屋敷の中の1つで、2階建てで、1階にはかなり広い食堂があり、2階に王子の個室や、年をとったために直接王には接しなくなった王妃の大きな部屋の他に、侍従の部屋が1つ侍女の部屋が1つあり狭い片隅には小さな個室に5人の女性の使用人もいる。1階には食堂の脇に男性の使用人が5人狭い部屋に共同生活している。使用人は10人とも奴隷だったが行いが良く(反抗的な態度が見られず)、王に忠誠を誓ったため自由人となり王子に使えている。使用人達はスペインの各地から戦地で捕虜になったキリスト教徒である。イスラム教が国教であるので、公には禁止されているがこっそりと信心は続いているみたいである。その中でもアベルという23歳の男性の使用人はシャルムとはとても仲が良かった。そして最も忠実な家来でもあった。 アベルは女性の使用人であるケイトと恋仲であり、王子の隣の部屋にこっそりと忍んでくるのを王子は黙認していた。いやむしろ積極的に応援していた。そして王子は相談相手としてアベルによく頼っていた。自分の屋敷に着くと、食事の準備をしていたアベルを呼び出した。他の使用人はいつもの事だが少し嫌な顔をする。1人足りないと他の使用人の仕事が増える。王子の部屋の中にアベルが来た時、シャルムは言った。 “忙しい最中すまないが、昼ナイーダの姿を見てから、ナイーダのことが頭から離れないのだ。” するとアベルは、 “ナイーダ王妃様は噂に寄ると王様が最も気に入った方ではございませぬか?早いうちに諦めなさるのが、身の為でございますよ。王子様が王位を継がれた後には、どんなに美しい奥方も思いのままになるのでございますから。” “うん、そうだね。ありがとうもういいよ。” あまり引き止めるとアベルも迷惑だろうし、思ったような答えを言ってもらわなかったので、早めに仕事場に返した。1人で部屋で悶々としているとアベルが呼びに来た。 “王子様食事の準備ができました。” 1階にある食堂に足を運ぶと、 キリアーニ、21歳、ビルノア、28歳、ダリル、24歳の王子のお尽きの騎士達もそろっていた。彼等は王子が小さい時から一緒にいて、王子が王になると大臣になる可能性のある人たちである。その為に王子には王になって欲しいと強く望んでいる。また、シャルムがアルハンブラ王国での王になるもっとも近いところにいるのも事実である。
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