「ヤメテエエーっ!」 恭子は、渾身の力で叫んだ。涙を流し、半狂乱になっている。 「おれは、君に捨てられたら、生きていけないし、生きていく意味も無いんだ。」 恭子は、なおも叫びつつ耳を塞いだ。 男の声は、魔性のように気持ちよく恭子の脳髄に浸透してくる。恭子はその男の声を断ち切りたかった。さらには、その男との関係も断ち切りたい。 だが、この男との関係は、容易に断ち切れるものではなかった。 「わたしは、あなたとの関係を終わりにしたいっ!もう終わりにしたいのよーっ!」 恭子は、男の声も届かない、しかも、自分の悲鳴しか聞こえない、まさに結界を張ったかのようなこの狭い世界から、男に向けて叫んだ。 「恭子、目を開けておれを見てくれ。手を下ろしておれの声を聴いてくれ。でなければおれは・・・」 男はそう言うと、自分の手首に押し当てていた包丁を、思いっきり横に引いた。 ビシャっ! 目を閉じている恭子の顔は、生暖かい液体が当る感触を捉えた。その液体を自分の手で拭って、その手を見るために恐る恐る目を開けると、その目に飛び込んできたのは、真っ赤に染まった自分の手だった。 恭子の部屋の窓、ベッド、そこら辺が真っ赤な鮮血が点在してる。 「キャアアァーーっ!」 恭子は、声が潰れるほどの悲鳴を上げながら、腰が砕けたようにその場にヘタりこんだ。
「加藤、お願いがあるんだ。今度の土曜日に引越しがあるから手伝ってくれよ。おれじゃないんだけどさあ。」 夏もこれからが本番、といった時期、入社2年目の原田は、後輩の加藤の所に来ると、こう切出した。加藤は新入社員だ。たった1年とは言え、先輩の言う事に逆らえるはずも無いので、お願いとは言いつつも強制である事は間違いない。 こんなブシ付けな原田の申し付けにも、加藤はイヤな顔せずに明るく答えた。 「はい、いいっすよ。どこに何時に行けばいいんでしょ?」 「おれは前日からキョコタンの所に行ってるから、益田と一緒に来てくれ。何なら、前日から寮のおれの部屋使っていいから、寮に泊まれよ。」 「益田さんも手伝いっすか?メンバーは、原田先輩と、益田さんとおれの三人と言うことっすかね。キョコタンて人は、原田先輩の彼女っすか?」 益田というのは、原田と同期であるから、当然加藤にとっては原田と同じく先輩である。 「キョコタンは、これからおれの彼女になる。ガハハ。おれはキョコタンのボディーガードだ。」 「ふーん、そうですか。じゃ後は益田さんと話します。」 原田は普段から言ってる事もやってる事も、およそハチャメチャな感じなので、加藤もそれ以上突っ込む事はやめて引越しの労働力に徹しようと思ったくらいである。 「ところで、誰の引越しなんですか?」 今までの会話からは、とても申し付けの原田の引越しとは思えない。 「キョコタンかな?」 と思えなくも無いが、一応、加藤は確認してみた。 「キョコタン。」 「あー、そうですか。」 普通だったら、なんとバカらしい。と思うところだったが、何せ新入社員、その上体育会系で育った加藤にとっては一年先輩の言う事には、とりあえず服従なのであった。
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