加藤は、これまでどこへ行くにも作業服だった。会社からはダメ出しされていたが、実情を見ろ、と開き直っていた。現場に作業服を持って行って着替える?そんな時間はない。現場に着くや否や、打合せがその場で始まるのだ。打合せの合間に現場を確認し、業者への指示事項、設計への質疑事項を手早くまとめ書類にし、会議に備える。その現場での処理が終われば、次の現場へ移動する。時に2時間以上もかけて移動する場合もあれば、途中、事務所による場合もある。新築工事だと言うのに、緊急事態が発生するケースも珍しいことではない。20時に事務所に電話をかけて「今から現場に来い。」などとおよそ常識を逸脱した現場所長もいる程だ。 休日祝日も含めて、そんな毎日を送る加藤にとって、スーツで身を固めてスマートに現場管理をし、現場を視察する時は作業服に着替えクールに業務をこなす、などの仕事っぷりなど別世界の話だ。 ところが、今日から違う。杓子定規にスーツを着、ネクタイを着用。寝グセも気にした。足元もクールに革靴で決めた。異動の第1日目だ。
前日に、吉崎の土木の同僚である今井が加藤の元にやってきた。今井は以前に、吉崎から加藤のことは聞いていたが、顔を見るのは初めてだ。会っておかなくてはな、と思いながらも、別段男になど興味もなかったせいもあって、加藤に会うのは前日になってしまった。今井は、田口を見かけると加藤はどいつかを訪ねた。田口は立ち上がり、 「おい、加藤、今井課長がお見えになったぞ。」と、いつものように元気な声で加藤を呼んだ。この期に及んでも外面だけはいいんだな。と思いながら加藤は「はぁい」と立ち上がった。 「あ、君が加藤君?はじめまして、今井です。今後ともよろしく。」 「よろしくお願いします〜」と、条件反射のように答えたが、明日出向するおれに初めて会って、「今後ともよろしく」もねぇーだろーにな。と、何の体もなく、ボーっと思った。 それを見透かしたように、今井が自分の名刺を差し出して続けた。 「おれは購買課にいる。必ずと言っていいほど会社にいるから、何か困った事なんかがあったらここに電話して。」 「吉崎さんが東京にいる時には、吉崎さんで対処できる事がほとんどだけど、彼は神戸が拠点だから、行き届かない事があったらおれが連絡役になるから。」 またしても加藤はワケがわからなかった。「連絡役って・・・おれが誰に連絡を取るために、この人に中継しないといけないのさ?」 もともとこの出向はわからない事だらけだった。この今井にしてもそうだが、サブコンに出向に行くだけなのに大げさすぎる。
実は加藤は、出向が決まったときに土木の同期の元へ行ってみた。同期は土木で営業をやっているから、それなりの情報を持っているかも知れない、と考えたし、土木に行くのに他にアテもなかった。世間話をしてから、さて本題、って程の間柄でもなかったので、第一声から疑問をぶつけてみた。 「こーわん、って何さ」 「あぁ〜、吉崎さんが関係してるみたいね。詳しい事はわかんないけど。字は港湾だよ。」 「ふーん。カクナカって知ってる?」 「うん。潰れた会社らしいよ。何をやってるか知らない。けど吉崎さんが行ってるみたい。」 「土木って、どーなってんのよ。」 「さぁ、おれに聞かれても。でも吉崎さんが行くって事は、左遷とかじゃないよ。あの人キレ者だし、支店長の懐刀だよ。」 どこをどう押しても加藤の理解の限度枠を超えていた。おれは潰れた会社に設備をしに行くんだ。加藤の理解の限度枠はここまでだった。
さらに今井は続けた。「吉崎さんから電話があって、当日は岸部さんが向えに来るような事を言ってるらしいけど、おれから岸部さんに連絡しとく?」 加藤は答えた。 「前に現場を一緒にやってまして、書類貰ってます。カクナカの住所はわかりますから、行けますよ。明日は直接カクナカに行きます。」 おれは子供かっ!?加藤はなんとなく面白くなかった。
絶句。夏の暑い盛りに加藤はスーツを着込んで見上げていた。カクナカの文字がはげかかっている看板。いや、はげているところもある。下に視線を移すと、シャッターが下りていて、扉を開けたら配管材料を納めたラックが所狭しと鎮座していた。 「すいませーん、加藤でーっす。」と加藤は叫んでみた。誰かいませんかぁ?と再び叫んでみても、薄暗い倉庫の中に人影は見えない。 奥へ行くとユニットバスがあり、脱衣所に2年前のマンガ雑誌が積まれていた。その横に、なんとパソコンが無造作に置いてある。と言うよりも、投げ捨ててある感じだ。数えたら4台。 「使えんのか?1台30万と考えて、120万だよ。もったいねぇ〜」と、ビンボー根性丸出しだ。それよりも、おれが部外者だったらどーすんだ?随分無防備だな、ここ。 さらに目を凝らすと、配管材料も決して安物ではない材料がゴロゴロ転がっている。FMバルブ、アラーム弁、ステンレス管などなど、トラックで横付けされたら500万以上損害だぞ。などと、職業病かのように算出してしまう。 「こんなこったから潰れるのか?それとも潰れたからこんな無防備なのか?」 だれもいない倉庫を後にした。ふ、と横を見たら、錆び付いた鉄骨階段が上に伸びている。迷うことなく加藤は2階に上がり、安っぽいドアを開けて叫んだ。 「おはよーございまーす。今日からお世話になる加藤でーす。」 「あー、おはようございます。」 大屋を迎えたかわいらしい女性が出てきた。 「加藤です、よろしくお願いいたします。」 再度加藤は会釈した。「ん〜ラッキーかも知れない。」と、加藤は鼻の下を伸ばした。 「あー待ってましたよ、奥に入って。」と、ちょっとガタイがよい、丸刈りの男がやって来て、関西弁で加藤に話しかけた。 「毎度お世話になりまして、岸辺です。」 「あー、岸部部長。その節はお世話になりまして。」 と加藤も答えた。 「いやー、秋葉原に迎えに行こう思てましたん。車だし。倉田社長が新宿で待ってはる。その足で新宿に行こ、思うてましたねん。新宿は次の機会にします。」 「はぁ」 見回すと、岸辺と女性の他、2人。2人ともドロっとした顔をしながらも、加藤に愛想を見せた。はじめに加藤は自己紹介をすると、2人とも立ち上がって自己紹介を始めた。 「山中です。」見ると、うだつの上がらなさそうなオヤジで、声も小さい。 「長谷川です。三友建設から来ました。」と背が高く、白髪の中にたまに黒毛が混じったような人の良さそうなオジサンがやや胸を張って加藤に自己紹介をした。 加藤は、女性に視線を移した。オジサン本人がどう思ってるかは知らないが、加藤の興味は、三友建設よりも女性の方のプライオリティが上だった。 「坂本といいます。よろしくお願いします。」 「よろしくお願いしまーす。」加藤は全体を見回したフリをして元気よく答えた。
「ボクは設備部の部長。キミは設備部所属だよ。席はそこ。」 と長谷川が加藤に極めて簡単な説明をした。 「長谷川部長、よろしくお願い致します。で、わたしは何をすればいーでしょう。引継ぎ書類とかありますか?」 加藤は勤めて大声で長谷川に言った。ナメられてはいけない。なぜか本能的に加藤は思った。現場が嫌いな筈なのに、染み付いた体質は現場の習性だ。加藤は気がついてなかった。 「あー、特に。・・・そこに座ってて・・・」 「そこに座って、それから何しましょう?」 「んんん〜っと、書庫にあるファイルでも読んでて。」 「はっ、わかりました。」と加藤は答えておもむろに加藤に与えられた席に着き、もって来た鞄を置き、書庫へ行った。書庫の影に身を隠すと、 「むむむ〜、なんなんだ?こいつらは。8月1日異動厳着って、仕事もねぇーのに人を呼んだんかぁ?」 加藤は首を傾げた。書庫の中を見たら、消防設備検査記録と称して、あらゆる現場の消防設備のデータが記載されたファイルがギッシリ詰まっていた。 消防設備は、新築工事の時に設置してしまえばそれで万事OKというわけではない。毎年1回、設備によっては半年に1回程度、それらの消防設備を点検し、その性能が建築基準法、または消防法などの法規上の数値を満たしているか消防署に提出しなければならない。定期的にこの点検が入る為、潰れたカクナカにとっては、今や貴重な財政源のはずだった。どんなビルの点検を入れるのか、はたまた、どんな施主と付き合っているのか?それがこれらのファイルから読み取れるはずだったが、加藤にとって、そんなのわざわざ今やる事じゃないだろう。とタカをくくっている。 「あのー、下の倉庫、見て来ていーっすかぁ?」と加藤はひょいと顔を出して長谷川に聞いた。 「あぁ、えぇ〜けど、何もあらへんよ。」と岸部の声が答えた。 加藤はさっきの倉庫に戻った。「あぁ〜、なんかここの方が落ち着くな。」加藤は部材を丹念に隅から眺めていった。配管材料であるエルボや、チーズを1個1個見ながら、これらから配管が結ばって行くんだなぁ〜、とボーっと思っていたら、急に周りが明るくなった。 「電気のスイッチはここにあったのに。」見ると、岸部が倉庫に入ってきて、中の電気を点けてくれた。 「前はもっとあったんや。会社が潰れてもーて、残ったのはコレだけ。コレらかてもう使う事はあらへんやろ。みんなゴミや。いずれ捨てて、ココも事務所にせなあかん。」 「え?宝の山っすよ、ここは。」 「あはは、設備屋さんやのー。」 おまえもだろー、と加藤は思ったが、「まてよ、」と別の話を切り出した。 「向こうの方にパソコンが何台か転がってましたけど、アレ、だれも使ってないんですか?」 「あー、あれもゴミやけど、使う気なら使えへん思うわ。」 「じゃー使えるようなら、おれ、使ってもいーっすか?」 「あー、ええよ。ケーブルとか部品なんかはこっちにあったと思ったなぁ〜」 と岸部は自ら体を動かし、その辺のダンボールのふたををガサガサと開け始まった。 「あー、探していいならおれやっときます。」と、加藤はニヤけながら答え、ひそかにガッツポーズをした。岸部は続けた。 「実はな、カクナカにコンピュータ部門があったんや。それらは、そいつらが入れて行ったパソコンや。今は使わへん。会社が潰れた時に、出て行った社員の奴らがパソコン盗んで行きよった。あいつらハイエナや。ハイエナが残して行ったパソコンだから、恐らく五体満足に使えるモンは無い思うわ。」
「どうしたの?それ」 ドカドカとパソコンを自分の席に置き始まった加藤を見て、長谷川はパソコンを指差して聞いた。 「あー、倉庫に捨ててあったんです。岸部さんに聞いたら使っていいって聞いたもんで、おれ使います。」 「おー、使えるのあった?」と岸部。 「4台の中の使える部品、倉庫で組み合わせて、使える1台に仕上げました。どれもそのままじゃ動かなかったっすねぇ〜。」と、加藤は満足げに答えた。加藤はハイエナ以下か。 「ふーん。倉庫にそんな物があったんだ。おれは入った事もないなぁ〜」と長谷川は失敗したような声で加藤に言った。続けて、 「おれは、自宅からパソコンを持ってきたよ。」 と、ノートパソコンを加藤に見せた。 「ふーん。三友建設は、みんなパソコン使ってるんですか?木本建設は、設備部に1台しかパソコン無かったっすよ。」 「あぁ、ウチもパソコン使ってるのはほんの一握りだよ。でも部に1台ってことは無いなぁ〜」 と、パソコンの事となると長谷川の話題の食いつきも良くなった。 「ワシはパソコン好かん。」と、岸部が話の腰を折った。
夕方になったが、相変わらず事務所の中は、この5人だった。加藤は聞いた。 「あの〜、他にだれもいないんですかぁ?」 「上に経理がおるで。」加藤は、腰を抜かさんばかりだった。1日いて上の存在に気がつかなかった。どこぞの大企業か?とイヤミっぽく思ったが、加藤の聞きたかった事はそんな事ではない。現場の担当者がいれば、そろそろ現場から事務所に帰って来てもおかしくない時間だ。 3人いるが、みんな新宿アイランドビルの詰め所に常駐しているとの事。 「ボクも設備部長として会いたいので、いつかいっしょに新宿アイランドビルに行ってみよう。」 と長谷川は加藤にのんびり答えた。 おれは一体、ここで何をするんだ?と加藤は、机の上に置いた、古いけどちゃんと動くようにした、加藤専用の愛しいパソコンでゲームをしながら思った。
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