カクナカに神戸支社があった。 カクナカの経営が苦しくなったときに、拡大した事業所を次々と潰してリストラを図った。その中でも大阪本社、東京支社、神戸支社を残したのは抱えている業務の為だ。 大阪は本社だから当然として、東京では新宿アイランドタワービルの消防設備保守を抱え、神戸では、新神戸オリエンタルホテルの消防設備保守という大口定額の仕事を抱えていたからだ。新神戸オリエンタルホテルは、この約10年後クラウンプラザ神戸と名を変えるが、新幹線新神戸駅と直結した37階建てホテルで、高級感をかもし出している先進的なデザインのホテルだ。 さらに、神戸は、阪神淡路大震災からそれなりの時間が経過しているとは言え、建築関連業者にとってはまだまだやる事があった。 吉崎は、専務としてこの神戸支社に入った。東京に大屋支社長が三友建設から入ったように、吉崎も専務取締役支社長としてカクナカ神戸支社に入ったのだった。 大屋と決定的に違うところは、大屋の給料は、契約金と称してカクナカから支払われている事に対して、吉崎の給料は、普通の社員同様、木本建設から、支払われていた。 入った時期は、加藤と地下の喫茶店で会う1ヶ月前。わりと同時期だったが、それでも、元岸部設備工業の社長からカクナカ社員に転進した岸部とは、交流を持つ間柄になっていたようだ。 吉崎は今日、加藤に会う為に神戸から東京にやって来ていた。もともと吉崎も東京の人間で、神戸には単身赴任をしているから、東京に来るための用事は大歓迎なのだ。
吉崎は、加藤と会った後に土木支店に行って、同僚の今井に顔を出した。 「あー、おみやげ〜。」 吉崎は神戸名物と称されている神戸プリンが大好物だ。 卵をふんだんに使ったプリンで、見た感じ濃厚さを感じる。それに別に付いているカラメルソースをかけて食べるところが、高級さを演出しているのだ。ご大層に1つの箱に6個しか入っていない。その箱を5つ今井に渡して、受け取った今井は横にいた若い社員にそれを渡し、みんなに配るように指示をした。 「8月1日で言っといたよ。田口部長と一緒の所で言ったから、ちゃんと動くと思う。」 「内部の調整利くって?」 「さぁ?でも異動日にはカクナカに行って貰わなきゃこっちが困るよ。向こうには自信満々に言ったからねぇ。」 「加藤って奴、どんなだった?」 「ん〜、さっき会ったばかりでわからん。でも倉田社長が名指しで来たんだからいーんじゃない。岸部さんの入れ知恵みたいだけど。」 「岸部さんは加藤の事知ってんの?」 「電話で話しただけだってさぁ〜。まぁ、わからないヤツが来るよりいーんじゃないの。」 「返品されてきたりして。」 「まぁそれはそれでいーんじゃない。加藤ももう子供じゃないんだし。」 「それもそーだけど、まず行かなきゃなね。仮に加藤がそれなりの人材だったら、田口部長も延ばしてくるんじゃないの?」 「あぁ、その件で支店長に会うわ。いる?」 「うん。吉崎さんの報告待ってるよ。」 吉崎は、その場を立って支店長室に向かった。 支店長室は土木支店の中央、扉が閉まっているが中から怒鳴り声が聞こえるが、さすがに何を怒鳴っているかはわからない。怒鳴り声が聞こえることで防音壁の性能が悪いと見るべきか、怒鳴っている奴の声のでかさを褒めるべきかといったところだ。 吉崎は支店長室の前でネクタイを正し、ノックをしようとしたところ、扉が開いた。 管理部長と営業部長が、シュンとなって支店長室から出てきた所で、吉崎と鉢合わせになった。営業部長が吉崎に、 「今は止めといた方がいい。機嫌がわりぃ〜ぞ。」と忠告した。 吉崎は、支店長の機嫌の悪い時を知っている。口数が減り、物静かになるのだ。支店長室の中の空気はドロドロと悪くなり、居た堪れなくなる。あまりの重圧感に、吉崎は気分が悪くなり、退室を命じられたが、その後も頭痛がひどく、その日は早退してしまった。 それから比べれば、支店長に怒鳴られるなど、コミュニケーションのようなものだった。 「おぉ、来たか、入れっ!」支店長の滝川は、吉崎を招き入れた。滝川は、たった今、怒りで怒鳴りまくっていたとは思えない笑顔を見せた。 「管理部が営業の予算を取れないって、ゴネるんだよ。営業も、あんな資料じゃ管理部が予算取らないのもあたりめぇーだ。管理部も書類ばっかじゃなくて、もっと調整とれっ!と両方怒鳴ってやったよ。ワハハハ。」 と上機嫌だ。 「で、どーだった?」 「何が?」と、吉崎は聞かない。とりあえず田口部長と加藤と、会って出向の件を伝えた報告をした。 「港湾計画の話は伝えませんでしたよ。」 「あぁ、田口がいたからだろ。加藤には教えといた方がいいぞ。おれから言うか?」 「しばらくしたら、吉崎の話は合ってる、と一言加藤に伝えて頂ければいいです。」 「そーか。」 「大屋さんは、全治2ヶ月だそうです。」 「まぁ、頭から落ちたからな。三友には帰んのか?」
大屋は有頂天になっていた、が同時に落胆もしていた。 これまでは50人の部下を持つ部長だったとは言え、それでも中間管理職のそれとあまり変わらない待遇に、半ばあきらめもあった。それがカクナカ東京支社の支社長になった。 頂点だ。支社を切り盛りして、より繁栄させる。自分の会社を手に入れたかのようにうれしかった。 そこでピカピカの事務所にすえられた、ピカピカの支社長の椅子にふんぞり返って座り、部下を叱り、時には褒めて育て、順風満帆のとは行かないまでも、みんなと共に会社を育てていこうと思った。
そして、長谷川と二人で乗り込んだカクナカ。二人が目にしたものは、オンボロ倉庫だった。看板など、剥げ落ちている。倉庫には、設備を経験した二人にとって、ごくおなじみの配管の材料や、消防設備に使う部材が、所狭しと置かれていた。さらに隣に、2台分の駐車スペースがある。脇に錆びた鉄骨階段があって、ここから2階へ上がれるようだ。さらに3階へ続く。二人は2階へ上がった。扉を開けると、中から女性が出てきた。 「いらっしゃいませ。」 「あぁ、聞いてないかな。大屋と長谷川だけど。」 「お待ちしておりました。あちらが支社長室です。ご案内致します。」 女性は、こんな汚い所は似つかわしくないくらいの美貌だったが、警戒を解いたときは、まだ20代のかわいらしい顔をしていた。 見回すと、打合せテーブルを囲むように、書庫がいくつもそびえ立ち、中にはファイルがギッシリ詰まっていた。その奥には、事務机が並び、15人程度の事務所であることがわかるが、今は迎え入れた女性と、岸部、他2名がいるだけだ。他の者は、みな現場に出ているのだろうか。 今は、これだけの人数なので閑散としているが、もし現場担当者が帰ってきて、みな事務所で事務仕事を始めたならば、恐らくいっぱいになってしまい、息が詰まるだろう。その前に、このファイル書庫の重さに15人が加わったら床が抜けはしないか?と思わせる狭さとボロさがこの事務所にはあった。 「大屋支社長、長谷川部長、お待ちしておりました。」 岸部が、寄ってくるなりカクンと腰を折って挨拶をした。 「すごいねぇ〜。新宿に呼ばれた時には、こんな事務所、想像できなかったよ。」 「申し訳ありません。これでも整理して大掃除しましたんけど。」と、岸部は関西弁で詫びた。 「まぁ、新宿は綺麗でしょうからね。」
カクナカ社長である倉田は、新宿アイランドタワー39階にも事務所を構えていた。 新宿アイランドタワーは、地上44階建て、店舗も擁した食住一体型の複合高層ビル群で、この前年竣工した、新宿の中でも最先端最新鋭のビルだ。 大屋は、この新宿アイランドタワーで初めて倉田と会った。「港湾計画」の骨子を説明された後、共にカクナカを盛り立てようと、握手を求めてきた。大屋は、この涼やかな倉田の、凛とした演説に引き込まれていた。このビルの39階から見える景色も、その壮大な計画の成功を想像させる演出として、バッチリだった。大屋は、自分より若いであろうこの倉田のために、一肌も二肌もぬいでやろうと思った。大屋は、奮い立ち、高揚した。
「まぁ、新宿と比較にならんとは思うが、あまりにも落差がありすぎるな。社長は39階で、支社長は錆びた鉄骨階段を上った2階か。」 大屋は、やる気を奮い立たせた新宿を思い出した。新宿では、倉田が別れ際に言った。 「受け入れはバッチリです。三友からガンガン仕事を取ってこれますよ。契約金に見合う営業をしてもらわなければ。」 その時の大屋は壮大な計画にいい気分も手伝ってか、 「そう言えば、ガンガン行ったら、契約金も上げてもらわくっちゃいけない。」 とボーっと思っていた。
大屋は、それでも現場からたたき上げの、無骨な建築設備屋だ。タバコは1日80本。酒は、ビールの後日本酒1升半はいける。いけると言うよりも、いきたいと思うくらいだ。それでも最近は歳のせいか、若干弱くなってきたかな、と思っている。後半は飲むよりも歌っていた方が楽しい。今日は日暮里にある飲み屋で、決起集会だと称して、長谷川と岸部を連れてきて、得意な歌を披露している。かつて日暮里で現場を持った大屋は、程なくこの飲み屋に入ってここのママが気に入った。それ以来足蹴もなく通っているから、いき付けになってもう10年以上になる。穴倉のような階段を上って、2階の扉をくぐると、これまたこぢんまりとしたフロアが広がっている。この辺も大屋は気に入っている。 長谷川は、そのヒョロっと高い身長に白髪がちょぼちょぼと混じっている程度だが、その割には老けて見える。あまりしゃべらず、しゃべってもポソポソっと言葉を吐き出す。その日も大屋の歌を聞くだけに徹して、チビチビとウィスキーを飲み、着いた隣の女の子に、聞かれたことだけをポソポソと答えていた。 岸部は、と言うと、ウーロン茶を飲み、姿勢を崩すことなく、大屋の歌を半ば辟易しながら聞いていた。 岸部も酒を飲まない訳ではない。むしろ好きで毎日晩酌をしたいと思っている。だが、岸部設備工業が潰れ、カクナカに入り、倉田に忠誠を誓い、頭を丸めた時に禁酒を誓った。家族と離れ、東京に単身赴任。寂しい時もあるが、これは自らの所業により、自らの判断でカクナカに来て酒を断った。東京支社長の運転手もやろうと思った。だからこんな飲み屋にも、車で支社長を連れてきていたし、家までも送り届けようとしていた。 「酒を断ったことも時には役に立つなぁ〜」と、岸部はウーロン茶を飲みながらつまみを食った。 大屋は、酔っていた。久しぶりに壮大な計画を聞き、若さを取り戻したかのようになっていたのに、東京支社事務所のみすぼらしさに落胆したが、まぁ考えてみれば、潰れた会社を引取ったのだ。それくらいのリスクがあったとてそれが何だ。かえって経営者冥利に尽きるではないか。やってやるさ、あぁやってやるとも。酒が入って気分も大きくなった。 「よーし、今日は帰って明日からがんばるぞっ!岸部、車を回せ」 オーバーアクションだ。 岸部は「大丈夫でっか?」と関西弁で聞いたが、見た感じ大丈夫でないことは明確だ。大屋は女の子二人に抱えられている。女の子に「よろしくなぁ」とだけ伝えて、車を店の前に着ける為に一足先に出た。階段を下りて右に曲がれば、路上コインパーキングがあって、そこに車を停めている。急いでエンジンをかけ、車発信させた。一方通行を右に曲がり右に曲がり、右に曲がったら店の前の道路だ。店の前に車をつけて階段を上った。階段の踊り場に大屋が立っていた。階下を背に、ママに手を振っている。これからもまた来るぞ、なんてママに愛想を振りまいている。と思ったら、大屋がそのまま後ろに下がり、躓いた。岸部の見ている目の前で、大屋は仰向けに倒れ、そして2階の踊り場から1階の道路まで、階段をまっさかさまに落ちた。頭は血だらけになり、店のママも女の子もパニック。長谷川はどうしていいかわからず、岸辺を頼るばかりだった。岸部は、そのまま大屋を動かさないように長谷川に指示をして、店の電話を借りて救急車を呼んだ。その後に、ケータイを取り出し、倉田社長の電話番号を押した。コールの間も「社長、すんまへん」と呟いていた。
岸部は後日、吉崎に電話をかけ、事情を説明した。なんと言っても、木本建設からカクナカ東京支社に出向社員が来る。当日は支社長不在だ。それどころか、2ヶ月も支社長が支社に来る事はない。失態であった。 大屋は、不幸中の幸いで、頭を切って出血は多かったので、それなりに大変に見えたが、脳波などに異常は見られず、2針ほど縫いはしたが、それほどではなかった。それよりも、むしろ肩の打ち所が悪く、脱臼した上に腫れがひどかった。
「それじゃ、全治2ヶ月って言っても、頭の傷が塞がれば、出てこれるんだろ。」 土木支店長室で、滝川は、岸部からの連絡を受けた報告をしている吉崎に聞いた。 「岸部さんも責任感じているみたいで、2ヶ月養生させたいと言ってました。」 吉崎は、続けて滝川に伝えた。 「2ヶ月養生って、それは倉田の意向か?」 コンコンっと、誰かが土木支店長室の扉をノックしたようだ。吉崎が扉を開けた。管理部長と営業部長が揃って立っていた。 「おぉっ、ちょうど話が終わったところだ。入れっ!」滝川は二人を招き入れた。 「それでは失礼します。」吉崎は支店長室を後にした。
加藤は、ボーっと作業服で歩いていた。暑い日が続いているが、田舎道はなんとなく涼しい気がする。そして何よりも、時間に追われる事がなく現場についても、誰に怒られるでもなく、誰を怒るわけでもない。 加藤が向かっている現場と言うのは、築10年のマンション。そこで作業が終わったら、その近くの築8年のマンションへ移動する。実は早稲工が各ゼネコンに註文を発した。それは、早稲工が開発したPSへ給湯器を設置するその設置形態を模倣している現場がある。これは、特許侵害にあたるものであるから、過去10年にさかのぼり費用を請求する。 云々と言った内容だった。 PSとは、建築用語でパイプシャフトの略だ。大概建物には、このPSが設置されていて、主に水道管、ガス管などの上下階にライフラインを送るシャフトを指す。電気のケーブルを通すシャフトをEPSと言うが、マンションの場合、ほとんど水道管、ガス管、ケーブルを通し、ついでに湯沸器も設置する所もある。湯沸器を設置する場合などは、同じ所に、ガス管、電気ケーブル、そして湯沸器と同居させる事になるので、危険なイメージが付きまとう。確かに危険なのだが、その危険を回避するためにあらゆる手を講じられる。特に建築基準法、消防法などが複雑に絡み、その建物ごとで、設置にはかなりの検討を要する箇所である。 早稲工の主張に対する、これらの現地調査を、まず行わなければならない。 設備部上層部は、めんどくさいながらも短期決戦なこの仕事を、加藤に押し付けた。
あの地下の喫茶店で吉崎と会ってから、程なくして滝川土木支店長が自ら設備部へやってきた。土木支店長が設備部にやって来るなど、嘗て無かった事だ。田口は有頂天になって、支店長を招きいれ、「加藤の引継ぎは首尾よく行われています。」と、自ら宣言した。 「現場の担当は全部はずしてくれた?」と、滝川はわざとトボけて聞いた。今の設備部の現状として、すぐさま現場担当者から現場をはずす事は出来ない状況を良く知っての事だ。 まぁ、他に回すはずの仕事を回すことも出来ずに、再び加藤に頼るくらいだから、言わずもがと言ったところだろう。 「おい、加藤、土木の支店長が直々に来たぞ。それぐらいすごい事なんだぞ、この出向は。」 田口は、設備の課長2人を呼び出し、至急加藤の担当現場を吸出し、他の担当者へ割り振るように指示をした。
「引継ぎなんて、徐々にやりゃーいーのに。まだ1週間も先だよ。異動まで。」 田口のゴマすり効果が功を奏して、急ピッチで引継ぎが完了し、加藤は異動を待つばかりとなったが、その事で加藤はヒマになってしまった。 担当現場が10件、1日1現場に打合せに行っても2週間かかる計算で、その上、夜、現場から帰ってきたら設備設計作業をしなければならない。設計物件も抱えていて、設計もそれなりのボリュームで、夜帰ってきて図面を引くだけでは間に合わない。追いつけるために、土日に休日出勤をしてこなす。それだけでもパンクだと思っていたのに、データベースを理由にされて、期限を縮められた積算が入ってきた。これは、同僚、先輩、後輩らに引き継ぐ事は、ツラいながらも可能であるが、データベースだけは違った。これだけは、他に出来る者がいないのだ。パソコンをいじれる者は、今の所加藤をおいて他、誰もいない。今年の新入社員で一人パソコンが得意、という奴がいるにはいるが、実は何もできないことが判明し、部内の誰もが落胆していた。だが、データベースのアプリケーションの作りこみは、データ入力をしている武田恵美子との連携で、バグなどの不具合は大方解消されている。今では、武田恵美子の方が毎日このアプリケーションをいじっている分、加藤よりこの建物管理システムをうまく使えた。自分で作ったデータベースを、これから便利に使っていけないのはちょっと残念だが、それも仕方ない。この頃にはだいぶデータも打ち込まれていて、このデータベースで過去の現場を検索する、と言うことが徐々に定着して来ていた。
実は、この現場周りもデータベースを活用した結果、粗方の予測を立ててPSの調査に来ている。加藤のデータベースの最後の仕上げだ。これらの調査結果もパソコンに打ち込んでおこうと思った。 それにしても、先週までの思いっきりな忙しさがウソのようなのんびりした仕事だ。夏も真っ盛りで、日差しが暑いのだが、気分がいいから気持ちもいい。のんびり歩いて行こう。と加藤は歩き出した。 「こんな日がいつまでも続かないかな。」 年寄りじみた独り言が思わず口から出た。8月からはいやな日が続くだろうな。と加藤は思った。
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