神戸での作業の拠点を、オウクからテイヨウに移し、データのやり取りは、フロッピーを持って、行ったり来たり、というそれだけの作業が、住所録担当者の効率をかなり落とし始まっていた。どうしてもネットワークによるデータベースの同期が必要となり、その事が早川にとって、当面の課題となってきつつある。公衆回線でこの2つの遠隔地を接続するには、VPNなど大げさなものではなく、小規模なピアツーピアの接続で、ins64などのISDNを使用したかった。データ量から言っても大掛かりではないが、月々発生する従量課金をネックとして、他の方法の検討を、早川は強いられていたからだ。ADSLのような、安価で高速、定額料金で使用できる回線は、この後2年以上待たねば存在せず、まだまだ音声通信によるモデム接続が主流である。それに、インターネット網を使った遠隔地のPC制御や、ファイル共有などは、今現在、誰の考えにも無い。インターネット自体がマニアが繋ぐ特別の聖域であった。
神戸に入って、そんな早川の課題を聞いた加藤は、オウクに1本、テイヨウに1本、ビジネスフォンから用意させ、直接電話回線でパソコン同士を結ぶプログラムを作った。オウクに置いてあるPCをサーバーにみなし、そこに接続されたテイヨウのPCは、サーバーからデータをダウンロードする仕組みである。 朝、テイヨウのパソコンの電源を入れると、30分くらいかけて、データをダウンロードする。予算ゼロの打開策にしては、まあ上出来であろう、と加藤は自負した。 テイヨウと、オウクのデータベースシステムは、もう早川もついていけないほどのシステムと化している。早川を除いた他の者には、手も足も出ない事になっているのは、回りの皆が認めることになっている。加藤は、そのシステムの中身を、せめて早川にだけは引き継がなければならない。 もっとも、表向きは、ここの早川がネットワーク、インターフェイス、ハードウェアに至るまでの全てを作った担当者というこだ。加藤は、早川の教育担当者という枠を大きく飛び越えていた事になる。 「あくまでも、主役は、住所録のデータベースです。仮に、パソコン1台でこれらを処理しようと思えば、早川さんが作ったんですよ、簡単でしょ。」 「なんか加藤さん、いなくなっちゃうような口ぶりですねぇ〜。」 早川は、加藤といる時は、どんな会話でもケラケラとよく笑う。この時も、そんなありえない冗談を、とばかり笑った。 「でも、そのうち本格的に、このデータベースを使ってシステムを構築するって、小幡社長は言ってました。そうしたら、またまた加藤さん、忙しくなっちゃいますね。なんとか加藤さんが東京とか大阪に行ってる時でも、ウチだけで仕事が進められるようになればいいんですけど、すいません。」 「そう言う事なら、今の早川さんなら、十分立派にやっていけますよ。今でもおれは、早川さんに太刀打ちできないんじゃないの?」 「そやろ〜。ウチが加藤さんに教えてあげます。」 言うと、早川は、またケラケラと笑った。 「加藤さんは、東京からこっちに来る時は、いつも仕事ばかりで、観光もロクにしてないんじゃないですか?」 「いや、いろいろ行きましたよ、三宮、元町、六甲山、北野、道頓堀、なんば・・・、ルミナリエも見たし、結構思い出たくさんだ。」 「もっといろいろ行きましょう、大阪には、ジンベイザメもいるんです。見たいでしょう。」 「海遊館でしょう。行きましょう行きましょう。」 加藤にとって、もう仕事なんて、どうでもよかった。
カクナカ大阪本社では、経理システムが問題なく動いていた。白川は東京支社から、経理業務と称して出張するのも、今回が最期となる予定だ。後は、東京支社にいながら、と言うか、日々の入力作業さえ行っていれば、システムが動いてくれる。業務マニュアル、システムの取扱説明も、加藤の協力を得ながら白川が作った。マニュアルがあれば、トラブルがあったとしても、大阪本社と東京支社と連携をとりながら十分対処できる。 倉田は、システムそのものを見ることは出来ないが、業務を見ていて、これまでと違って流れに無理が無いように見え、加藤を大阪に派遣させて正解だったな、と思っていた。白川が毎月、大阪に出張する費用を削減できただけでも、大きな進歩である。 今度は、この経理のシステムに、消防設備保守部門のシステムを連結していかなくてはならない。まだまだ加藤が必要だ。加藤は、もう神戸に入っていることは、報告がきていて知っている。 「明日あたり、大阪本社に呼び寄せるか。」 倉田は、カクナカ大阪本社から見える古泉設備のビルを見ながら、誰に言うとは無く呟いた。 そんな時に、倉田の携帯電話が鳴った。番号を見ると、テイヨウの電話からだ。携帯電話のボタンを押して耳に当てた。 「会長。会長自ら珍しいですね。」 いつもと違う倉田の声だが、会長が倉田の携帯電話にかけてくること自体も、倉田が言うようにめったにあることではない。 「滝川さんから電話がありました。内容は、倉田さんの所にいらっしゃる加藤さんを、木本建設に戻したいという意向でした。」 恐ろしく無機質で、それでいて丁寧な言葉遣いに威圧感のある声だった。 倉田は、少し間をおいて、気持ちを整えてから会長に返した。 「わかりました。状況を確認した上で穏便にとらせます。」 会長との電話を切った後で、倉田は吉崎のいるカクナカ神戸支社へ電話をかけた。取次ぎを経た後、吉崎は電話口に出てきた。 「加藤君を戻すそうじゃないか。」 電話の向こうでは、同じ動揺した声が帰ってきた。 「えっ!?私は何も聞いてませんが、どこからの情報でしょう?」 「会長の元に、滝川さんから連絡が入ったらしいで。」 「こちらには、まだそのような連絡は、入ってませんね。」 神戸支社では、吉崎が支社長室でその電話をやり取りしていた。ある意味、これは想定内の展開ではあるが、吉崎自身は確かに加藤の引き上げは、決定した話としては聞いていなかった。 加藤の引き上げが、滝川の意思だったとしたら、近日吉崎も、神戸を引き上げなければならない。もし仮に、加藤の出向を解き、加藤に代わる別の誰かがカクナカに送られることは、絶対に不可能だった。もしも加藤の交代が滝川の命令だったとしたら、吉崎は滝川にクレームを出さなくてはならない。突然やって来た加藤の後任を教育することなど、今さら無理だし、何よりも倉田や、オウク、テイヨウも含めて、加藤の後任など認めない確証があった。今となっては、必要なのは、ただの設備担当者ではないのだ。 「動揺してるようだね。これは吉崎さんも知らない事だったのか。」 「正直言って、突然の話です。」 「理由が欲しいんだ。ワシも納得できる理由が。港湾計画に、共に立ち向かう同士がこんな事で決裂したくは無いからね。」 港湾計画をこの期に及んで出してきた倉田を、吉崎は鼻で笑いながら電話を切った。 しかし、あまりに唐突過ぎる滝川の決断に、若干とまどいはあるが、これは引き上げの合図である。 吉崎は、今井に連絡を取った。 「滝川支店長はいる?」 「いるよ。おれのすぐ目の前にいるよ。支店長の手にかかったら、吉崎さんの行動も読まれすぎだな。」 「だったら、話は早い。代わってくれ。」 滝川は、今井から受話器を取り上げると、がはは、と笑った。 「さすがの吉崎も、面食らったみたいだな。おまえには、倉田から電話が行ったんだろう。だからわざとおまえには言わなかった。」 滝川は、あくまでも、独断で加藤を、木本建設に戻すことにした、ということにしたかった。経理情報を盗んでまで港湾計画の真偽を確かめて、さらにその結果、加藤を戻すなど、連中は絶対に許さないからだ。 「まずは、おれとおまえで、加藤を無事、引き上げねばならん。次は、おまえが帰ってこなければならん。それには、加藤の引き上げを仕組んだのは、おまえ以外じゃなけりゃならんのだ。」 「時期はいつでしょう?」 とりあえず、滝川に作戦があるなら、それを全て聞かなくてはならない。 「1ヶ月猶予をくれ、と会長に言われたが、うやむやに茶を濁してやったよ。実は、加藤の行き先は決まってるんだ。もう設備には戻さない。本社に押し込む。」 「と言うことは、次の人事異動ですね。1ヶ月ありませんよ。」 「おまえも含めて1ヶ月ってところだな。なんとかがんばってくれ、腕の見せ所だぞ。」 明らかに楽しんでやがる。ただ、継続ではなく、撤退が決定したのだ。ちょっと寂しい。吉崎は、とにかく加藤を戻せば、自分一人は何とかなるとふんでいる。 「ちなみに、これは片岡からの要望でもあるんだ。ISOも取らなきゃならないから、パソコンを全社でシステム化したいと考えとる。だけど、加藤がカクナカにいたんじゃ、一向に進まん。パソコンって言葉も、システムって言葉も、おれはわからんのだがな。次、加藤の行く場所は、その辺の部署だ。」 「パソコンに関しては、なんとも層の薄い会社だ」吉崎は、そう思ったが、それだけ聞ければ十分だ。あとは、自分がカクナカを脱出するにはどうするかだ。電話を切った後で吉崎はあごに手を当て考えた。
岸部は、大変だと思った。大屋と長谷川が突然いなくなっても、さし当たって何の影響も無なかった。なんの引継ぎも無く突然去ったのに、業務が滞ることはただのひとつも無い。それは、大屋も長谷川も、特にこれといった仕事を持っていなかったという事だが、加藤は、抱えている仕事が多すぎた。立川の現場は、木本建設が責任を持って竣工させるはずだし、そのような契約だが、加藤が受け持っていた顧客は、いちいち加藤から報告を受けていたとは言え、カクナカが潰れた時にひと波乱あったものを加藤が修復してきた顧客ばかりだ。加藤がいなくなっても、これらの顧客からの売上が確保できるか、頭の痛い問題である。だが、やらなくては、カクナカの明日は無い。加藤は、これらの顧客への電話連絡は避け、時間の許す限り自分から出向いていたことを知っている岸部は、習って顧客の所へ足を運んだ。心機一転腹をくくって、四本商事にやって来たが、やはり足取りは重い。 「毎度、お世話になっております。」 久しぶりの四本商事、久しぶりの高橋だった。 「珍しいね。今日は加藤ちゃんじゃないんだ。」 岸部は、高橋の機嫌のよさにホっと胸をなでおろした。
後日、加藤は、四本商事に書類を届けた。いつものように高橋の所へ行くと、いつもとは違う趣だ。 「岸部さんから聞いたよ。戻るんだって?」 「戻る?と言うことは、岸部は全てを話てました?」 「うん。きみのやり方は、これまでのカクナカとは違うと思っていたよ。わたしとしては、ありがたい限りだった。寂しくなるよ。本当は、このビルの保守も、カクナカから木本建設に代えたいくらいだが、それを言っても仕方が無い。」 思えば、この高橋との出会いは最悪だった。が、それがあったから今があるんだろう。加藤は、この四本商事に着たばかりの頃と同じ感想を、今噛締めた。 「営業も面白いかも知れない。」
加藤は、その帰りに、木本建設土木購買課に寄った。今井がいつものように、向かい入れた。 「おう。たった今業者が帰ったところだ。いよいよ秒読みだな。」 「おれは、引き上げの日取りが決まりつつあるんですけど、吉崎さんは、いつ引き上げとかって聞いてますか?」 「吉崎さんは、追い出されるみたいよ。」 「は?」 加藤は、聞き間違えかと思った。 「吉崎さんは、倉田さんとケンカして飛び出すってことにするみたいだ。恐らく今頃、カクナカ神戸支社の不平不満をまとめてる頃だろうよ。」 「ケンカして飛び出すなんて、器用ですねぇ。」 「たいした千両役者だよ。失敗したら、どうすんだろうね。」 「どうすんだろうね、って、どうすんでしょうね。まぁ吉崎さんの事だから、なんとかするんでしょうね。」 「そんなわけだから、吉崎さんの引き上げの日取りも、行き当たりばったりだ。出たトコ勝負だね。」 「すげ。」 「ところで、加藤は、これから設備と全然違う部署に行くんだって?立川の現場じゃ寂しがってたぞ。」 「ええ。じきに竣工だったので、ちょうど逃げられてよかったです。」 木本建設の現場は、工期に余裕をもっていても最期は必ず突貫になる。追い込まれないと腰が重い体質なのと、もともと受注条件がギリギリの工期、ギリギリの予算なのだ。加藤が戻れば、立川は突貫現場として、徹夜も侍さない状況だろう。出来れば逃げたいと思っていたが、本当に逃げれそうだ。 「そうか?本当は自分の現場だ。最期までいたかったんじゃないのか?顔にそう書いてあるぞ。」 正直なところは、全く今井の言うとおりだ。手がけた現場は、竣工を迎えないと一区切りつかない。立川は、加藤の仕事だったのだ。 「やっぱ、現場のクセが抜けませんかね。」 加藤は苦笑いをした。 「今度は、いつ神戸に行くんだ?」 話を変えて、今井が加藤に尋ねた。 「明日、大阪に寄って、夜神戸に入ります。明後日には神戸で通常業務ですよ。」 「あはは、この期に及んでも、通常業務をするのかい。やり残したことでもあるのか?」 「何に追われていようとも、時期が来ればこっちに戻ってきちゃうんですけど。一応、どこも整理してきます。」 「そうか。吉崎さんに会ったら、よろしく。」 「今井さんが次に吉崎さんに会うときは、カクナカの人間じゃないですね。」 「そういうことだな。何が残念って、もう神戸プリンが来なくなる事が一番残念だ。」
これが最期のはずだ。加藤は、東京駅を見回して、新幹線に乗り込んだ。最期だと思うと胸が痛む。ついに早川ひとみと、どうなる事も出来なかった。あってはいけない事なのだが、会う度に何かを期待して玉砕している。この場合、玉砕と言う言葉は適切ではない。加藤は、何も行動を起こしてないからだ。
新大阪に着くと、吉崎が、改札まで出迎えた。最初の2、3回は、こうして吉崎は加藤を出迎えたが、慣れてからはこんな事は無かった。 「相変わらず、新幹線は時間ぴったりだな。」 「もう、神戸支社はいいんですか?」 「いいんだ。もともとおれなんかお荷物だったからね。抜ける時は簡単だよ。」
吉崎は、神戸支社の福田部長にだけは、吉崎が近々木本建設に帰ることを語った。福田は、長い沈黙の後、 「わかりました。」 と切り出した。 「正直、私も、他のみんなも、吉崎専務がいなくなったら、カクナカにいる意味がありません。」 「おいおい、おれは、カクナカとしてではなく、神戸カクナカとして会社を育ててきたつもりだぞ。小林だって、他のみんなだって、生活があるんだから、簡単に潰すわけにはいかないだろうし。」 「わかってますが、カクナカ大阪本社かて売上が上がっておらんのです。今の形で神戸が存続していけるとは、どうにも思えんのです。」 確かに、吉崎という歯止めがいなくなって、なお倉田が神戸支社から売上を狙ってこないとは、吉崎にも思えなかった。 だが、ここから先は、本人たちがやらなければ、吉崎は助言すら出来ないのだ。 「あと、ちょっとは期間があるし。」 吉崎は、うやむやにして会話を切った。
「吉崎さんがお荷物なわけないでしょ。吉崎さんを頼るみんなの目は、尋常じゃないですよ、おれの目から見ても。」 「だが、どうしてやる事もできん・・・」 「切ないっすねぇ〜。」 「お前の方はどうなんだ?おれ以上に切ないんじゃないのか?」 「グサっ。」 「朝飯は食ったのか?軽くどっかに入っていこう。」 改札を出ると、春の日差しが眩しかった。
吉崎は、たばこに火をつけると、モーニングを注文した。加藤は、ジャンボフルーツパフェを注文した。 「金が全部、オウク、テイヨウに流れていたんだ。カクナカは、奴らの財布でしか無かったのさ。」 「想像はついてました。未だに辞めた人の退職金はおろか、社員の給料も滞ってるみたいですよ。今は、いくらかは出てるみたいですけど、満額じゃないって聞きました。」 「洗脳だな。加藤も一時危なかったろ。」 「大阪本社に何泊もした時ですか?すごいストレスだったのを覚えてますよ。」 「この先、カクナカに肩入れして行って、先をどう見るかってところだな。所詮、港湾計画っていう物流都市を作る計画自体が奴らにとっては大きすぎた。おれたちは、奴らの規模を見たって事だけでも収穫だったんだよ。」 「なんか収穫があっただけでも救われますが、拠り所に過ぎない気もします。」 「まったくだ。」
加藤は、カクナカ大阪本社で、世話になった者一人一人に挨拶して回ったが、倉田には、会えなかった。外出しているらしい。加藤は、夜には神戸に行くつもりなので、神戸で会えなければ、倉田とはそれっきりだろう。
「おはようございまあす。」 加藤は、いつものようにオウクに入っていった。いつもの場所に行くと、これまたいつものように早川ひとみがいた。 「加藤さん、おはようございます。久しぶりですね。なんかとっても久しぶりな感じします。」 「そうかな?いつもと変わらない期間だと思いますけど。」 加藤は、いつもと変わらないように朝来て、いつもと変わらないようにオウクでの1日を過ごした。 そして、いつもと変わりないように、加藤は早川を晩飯に誘った。 「メリケンパークに行きましょう。神戸に来て、初めて覚えたところです。」 「結局、1度もあたしの部屋に誘えませんでしたね。」 早川は寂しそうに言うと、 「でも、今晩は、加藤さんがかわいそうなので、一緒にいてあげます。」 言うと、早川はケラケラと笑った。
メリケンパークの桟橋は、真冬と違って、潮風もだいぶ穏やかになったとはいえ、まだ涼しい。 「加藤さんは寂しくないですか?あたしは、とっても寂しい。」 「う〜ん。すげぇ寂しい。」 本当は、泣くほど寂しかったが、さすがにそこまでは言えないだろう。 「これから、加藤さんにやって欲しい仕事も、いっぱいあったんです。そんな仕事も、これからあたし一人でやんなきゃなんないんです。本当に寂しいです。」 「仕事かよっ!」 思わず、コケそうになって、早川を見た。 早川は、目に涙を溢れさせていた。
加藤は、早川を抱きしめてブちゅっとやりたい衝動と必死に戦った。戦って戦って、戦い抜いた。血みどろの自分戦争の上、それでも勝利したのは、サラリーマンである加藤だった。我ながらクズ野郎だ。 「おれは、企業スパイなんだ。テレビに出てくるような、映画に出てくるような、かっこいいモンじゃない。会社の命令なら、泥棒もするし、ウソもつく。女の気を引く事だってする。そんな汚い人間なのさ。」 加藤は、のど元まで出かかった言葉を飲み込んだ。そんな言葉を吐く度胸なんて、加藤には無かった。 「アンヌ隊員、見てくれ。」と言って、その場でウルトラアイを取り出し、ウルトラセブンに変身できれば、どんなにカッコいいだろう。 今はただ、早川ひとみの前に立っているだけで精一杯だ。「ジョヤっ!」と飛んでいきたかった。 自分で思って、気がついた。 「おれって、スパイだったんだ。ヨゴレだったんだ。こんな事をしなけりゃ、こんな思いもしないで済んだ。」 早川に逢えたことが、カクナカに来た全てだった。 「駅まで送るよ。」 加藤がやっと搾り出した言葉は、その一言だった。 「せめて、駅まで、恋人同士みたいに歩いていいかな。」 「こうやって腕を組めばいいですか?」 「うん、そんな感じ、そんな感じ。」 「高いですよ。」 「領収証が出れば、いくらでも払うよ。」 早川は、いつものように、ケラケラと笑ってくれた。
翌日、加藤の元に、オウク、テイヨウの皆が集まった。皆で加藤に礼を述べた。 「最後、車で新神戸駅までお送りしますよ。」 古川が気を利かせて、車を出してくれた。 加藤は、最後に早川のところへ行った。 「あの、次に会うときは、もっと違う形で。」 「加藤さん、次に会っても、きっと煮え切らないからな。でも楽しかったよ。最後に、これ焼いたんです。帰りの新幹線の中で食べて行って下さい。」 袋の中に、たくさんのクッキーが入っていた。 加藤が乗り込んだ車が走り出した。リアウインドウから見た早川は、今までで一番かわいかった。走り出した車を追いかけて、いつまでも手を振ってくれていた。 加藤は、最後まで会社に踊らされ、全てを吸い取られたように、虚脱感が体中を支配した。 「港湾計画って、一体なんだったのだろう?おれって、一体なんなんだろう。」 迫ってくる六甲山が、今日はやけにでかく感じた。
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