最近では、もうすっかり大阪にも慣れてしまった。相変わらずカクナカ大阪本社で仕事をする時は、倉田のマンションに同居するが、自分のペースで生活できるくらいになり、ストレスで体調不良を起こす事は全く無い。 オウクにいるときは、ホテル住まいなのはあいも変わらずだが、金の心配がなく、食住が提供されるわけだから、快適この上ない。が、早川ひとみとの仲は、日増しに親密になっていく。 「晩御飯を作ってあげるから、うちに来て下さい。」 早川は、加藤を自宅まで誘うようになっていた。 「いや、会社から経費が出ていて、それで食うように言われてるんだ。テイヨウの人とかオウクの人とか、お客さんにご馳走になっちゃいけないって、まぁいわゆるサラリーマン洗脳ってヤツっすね。申し訳ない。」 「会社の経費とはいえ、いつもウチがご馳走になってるんですよ、借りてるってことで返すんじゃ駄目ですか?」 「ほら、おれホテル住まいだから、ホテルの人に迷惑じゃん。」 我ながらアホかと思った。 出来れば、早川と二人っきりの早川の部屋で鍋などつつきたい、しまいにゃ鍋とは違うところもつつきたい、一人身悶えて考えてしまう事もあるが、頭の中のどこかで、「それはならん。それだけは決してあってはならんっ!」とブレーキがかかる。決まって声の主は、滝川だ。 「おれは、洗脳されている、おれは心の病だから、晩御飯はご馳走になっちゃいけないんだ。ご馳走になっちゃいけないのは、晩御飯だけじゃない。」 と、加藤の頭蓋骨と脳みその間の隙間は、きっと涙でいっぱいだったろう。 「ところで、会長っていう人は、米奥地区の出身なの?」 「よく知ってますね。そんな話を聞いたことあります。どこで言ってたっけかなぁ。」 「ふうん。そうなんだ。」 会長は、自然豊かな自分の出身地を、巨大なハブ空港を建設する計画を自ら進めている。 「小幡社長とか、倉田社長とかもそうなの?」 「いいえ、会長以外は、九州から来たって聞いてますよ。」 「へえ、そうなんだ。」 「どうします?その辺で会長が聞いていたら。」 「こえぇ〜な。会長って会ったことないけど。」 「会長は加藤さんのこと知ってましたよ。一度テイヨウの中で見たことがあるって言ってました。ウチも、いつ一緒だったか知らなかったんですけど。」 「ホントかよー。」 記憶を掘り起こしても、それと思われる人間は知らない。この頃、加藤は、人の顔と名前は忘れないように、何度も思い出すようにしていた。 「ひょっとしたら、いつも作業服見たいのを着てる、体小さいおじいさん?」 「ああ、そうですね。そんな格好です。」 廊下ですれ違った爺さんだった。会長と呼ばれ、倉田、小幡が崇拝する人間だから、勝手に、ゴツい人という想像を膨らませ、その想像と合わない人間をリストから外していた。 「ふうん。あの人が会長か。」 加藤としては、会長がどんな人間かわかれば、それで十分だった。 「むこうに、はね橋があるんです。ライトアップもされてて、きれいですよ。」 早川は、加藤の手を引いて走った。加藤は、その手を握り返した。それが精一杯だった。
夜、例によって、ホテルに吉崎がやって来た。 「大阪本社の経理システムは、ちゃんと動作してるのかな。」 「ボチボチ動き始めてますよ。潰れる前と同じ形態としてのシステムは動いてませんが、データは信用おけます。」 「ふうん。例えば東京支社の売上なんかを、大阪本社に来れば、見れるの?」 「逆も可能ですよ。カクナカ全体の経理情報を、東京で把握できる。実際、白川さんは、わざわざ月毎に大阪に来なくても、東京で処理できますよ。この前、倉田社長に、経理業務の問題点と解決案をレポートにしてまとめて提出したら、白川さんがエライ怒られちゃったんですよね。社長曰く、お前の仕事だろうって。もう大半はシステム上改善してるんだけど、それ以来、白川さんがかわいそうだから、倉田社長には言いずらくて。」 「ほう、大半ってのは?」 「インターフェイスのバグだの、データの不整合とかですね。おれが東京でいじれるように、若干設定もいじってます。だれも文句言いませんからね。」 「でかした。東京でデータを見ても、誰にもバレないのか?」 「ログを見ればわかりますけど、誰も見ないでしょう。」 「ここ半年ほどの金の流れが知りたいんだけどねぇ。」 「貸借対照表でいいっすか。帳簿としても打ち出せますけど、データをコピーしても同じシステムがないと見れないので、プリントしないと駄目です。」 「頼む。」
加藤は東京支社にいるときは、極力経理システムを開くようにした。通常の業務でも東京のログを残す為だ。おかしなログが残っていても、東京が開いたログを残しておけば、埋もれて気付きにくくなるだろうと思ったからだ。ログを見るのは誰もいない事はわかっているのだが、念には念を入れた。朝、出勤した直後にログを残したり、夕方、夜と、ランダムにログを書いていった。 東京、大阪、神戸を行ったり来たりの2週間ほど経って、東京支社に戻った時、夜中の3時に、加藤は東京支社に忍び込んだ。経理システムにログインし、ログを確認した。なんと大阪で経理システムにアクセスしてるヤツがいる。誰だかわからないし、どのデータにアクセスしてるのかは、加藤にはわからない。加藤は、半年分のデータにアクセスしようとしている。バッティングした場合、この時間にアクセスした意味がないし、ヘタをすれば、データの盗難がばれてしまう。まずかった。やはり、大阪でAS/400から直接データを吸い出した方がよかったんだろうか。そう思っていると、大阪本社でログオフのログが書き込まれた。 加藤は、データを抽出して抽出したデータを全てプリントアウトした。全部で、1000枚くらいの超大作だ。全てが終わった時は、もう朝5時を回った頃だった。加藤は、そのまま木本建設へ行き、時間を見計らって、土木支店購買課へ行った。暫く待っていたら、今井が出勤してきた。 「あれ?加藤じゃないか、めずらしい上にめちゃくちゃ早いじゃないか。」 「おはようございます。これ預かっておいて下さい。絶対に梱包は解かないように。おれはカクナカに帰ります。でわ。」 「慌しいヤツだな。」
その日の昼前に今井の元に吉崎がやって来た。 「お疲れさん。加藤から預かってる物、どれくらいある?」 「おう、相変わらず行動が早いね。」 吉崎は、言うが早いか、どっかと腰を下ろし、今井から受け取った書類をパラパラとめくって見た。 「すぐ会議室を取ってくれ。その会議室に、おれとおまえと、篠原が入る。篠原は経理が詳しかったよな。」 「会議室は、午後一から取ってある。吉崎さんがこんなに早く来るとは思わなかったもんでね。」 「相変わらず、先を読んでるねえ。」 「加藤は呼ぶのか?」 「いや、あいつには、今日1日東京支社にいろって言ってある。もしもの事が、ないとは思うが、一応予防線は張っとかないとね。」 「そんなヤバいもんなの?これ。」 「加藤は、おれよりヤバいよ。」 「吉崎さんよりヤバい?それはないでしょ。」
「今日は、この後予定はねーんだろ、ちょっと、一杯やるか?」 建築の東京支店長室で、滝川が片岡を誘ってきた。 「めずらしいですねえ。ちょっと部長にハッパかけなきゃならんから、一声かけてすぐ出ますよ。」 「こんな時間に残ってるもんか。」 もう定時はとっくに過ぎている。支店長クラスが残っている事自体がおかしな時間だ。 「いやあ、建築の人間は、真面目ですから。」 「土木の人間は真面目じゃないみたいじゃないか。今時、遅くまで残業するヤツは仕事の出来ない証拠だよ。」 「そういう言い方もありますね。」 東京支店の中は、まだ業務中のように賑わっていた。 「滝川支店長の考えだと、仕事のできない連中ばっかだな、ここは。」 片岡は、支店長の顔色を伺って、用事が無くても残業している部下たちを見回して思った。まぁ、おれ自ら定時で上がるようにしないと駄目か。とも思った。 片岡は、部長に一声かけると、滝川の待つ銀座に向った。
女中に案内された部屋に入っていくと、すでに滝川は料理を頬張っていた。 「悪いねぇ。腹減っちゃったもんで、先にやってるよ。」 「おれも食わせてもらっていいですか。」 「まぁ、食う前に一杯やれや。」 滝川は、言うなり片山に杯をよこして、酌をした。 「加藤のことでしょう。」 片岡は、回りくどいことなしに滝川に切り出した。 「最近おれがおまえんとこに行くときは、それしか無いからな。単刀直入に言うと、奴を土木で引き取ろうと思ってる。」 「あいつは設備の人間ですよ。土木に持っていったって使い物にならんでしょう。」 「なんだよ、随分もってまわった言い方するな。お前らしくも無い。」 「お見通しですね。実は加藤を本社のIT推進室に持っていこうと思ってます。社長にも東京支店のIT状況を話ししたら、加藤に興味持ちましてね。」 「IT推進室って言ったら、社長が引っ張ってきた、あのワケのわからんおっさんのところか。あんな奴が加藤を使いこなせんのか?」 「岩田さんのことですね。岩田さんが加藤を使いこなすのは無理ですが、加藤は我々の言うことは理解できます。」
木本建設の社長は、パソコンの存在を早くから注目した上で、IT推進室と称して、ネットワークを初めとする、これからのIT化を調査推進する、社長直轄の部署を立ち上げた。全社IT化を目指したこの部署は、言っても、建築会社社員の集まりなため、その道に明るい担当者はいなかったし、たとえIT関連に詳しかったとしても、建築業務、特に現場という生ものを理解できる者は、ゼロと言っても過言ではない。その上、社長は、ホストコンピュータを扱っていた会社を退職した社長の後輩を、引き取る形でIT推進室の室長に収めてしまったのだ。この男が岩田だ。岩田は、出身がコンピュータ会社と言うだけで、コンピュータの知識も建築の知識も皆無だったが、社長の後輩、というコネの隠れ蓑の中で、全社IT化は遅々として、見通しも立っていない状態である。 そんな中、建築の東京支店だけが、片岡自らITを推進してる理由で、突出して進みすぎている状況である。
「土木と建築で加藤をコントロールするってか。」 「IT推進室は、本社機構なんです。全社的にIT化を進めなきゃならん時に、岩田さんには荷が重過ぎる。ベンダーを入れるにしても、加藤のような社内経験者がいないことには、先に進めないと思いますが、どうでしょう。これは土木部署内にしても、メリットは大きいと思いますが。」 「加藤はカクナカだぞ。」 「時機を見て戻したいんですがね。しかしもう頃合なんでしょ。先ほど、土木に戻したい意向を聞いたので、ここまでお話しました。」 片岡は、滝川に酌をしながら、自分の読みが当たってることを確信するように滝川の目を覗き込んだ。 「察しの通り、吉崎と加藤を戻そうと思ってる。」 「港湾計画は失敗ですか?」 「港湾計画自体の失敗じゃないが、このままカクナカに構っていても、おれたちの旨みはあまり無いことが今日判明した。詳細は、吉崎たちが徹夜でまとめてる。吉崎と加藤のお陰で、いい線まで行ってるんだが、これから先は危険が大きい。」 「危険、とは?」 「奴らが、おれたちを欲しがってる。あの手この手で落としにかかろうとしてるんだ。どうも、加藤が深入りしすぎたな。」 「加藤の落ち度ですか?」 「いや。まさか吉崎も加藤も、ここまでがんばるとは思わなかったヨ。おれの誤算だ。特に、加藤の特性が、ここまで時代に合致するとは思わなかった。これからは、あんな人種がはびこる事になるぞ。」 「IT化の波ですね。」 二人は同時に、杯の中の酒をのどに流し込んだ。
加藤は、東京での仕事が終わると、神戸へ帰る。最近の加藤のニュートラル位置は、神戸だ。それは、ひたすら早川ひとみのいるオウクにいたい本能が働いているためだが、周りの目には、データベース開発という大型案件を神戸で行っているからと見ており、加藤には好都合の捉えられ方だ。と思っているのは、実は加藤だけかも知れない。 今日も、夕方から新幹線に乗り、神戸へ帰ろうと思っていが、その前に今井のいる土木、購買課に寄らなければならない。 「おれも、今日の夕方の新幹線で神戸へ帰るから、一緒に新幹線に乗ろう。その前に、おれも購買課にいるから、来ないか?」 「それじゃ、仕事がケリつき次第そっちに向かいます。」 そう言えば、何日か前に、朝のわずかな時間に、今井に書類を預けてそれっきりだったな。ちゃんとした話もしてなかったから、今井課長にも会っておくか。加藤は、吉崎に答えながら、そんな事をボヤっと考えた。 ここ2、3日の間、吉崎は、ずっと木本建設に貼りつきだったし、加藤は、東京に帰ってくると、さすがに仕事が山積みになっていた。立川の現場、顧客へのフォロー、そして何より、木本建設内部の社内ネットワークとアプリケーションの選定、作成が東京に帰ってくる加藤を待ち構えている。 それとは逆に、神戸での吉崎の仕事が、空けた2、3日のために火を噴出していた。カクナカ神戸支社のルーチンワークや、その他全ての判断が必要な業務については、部長である福田の自意識の高さも功を奏してがんばっているが、決裁などの、吉崎が必要不可欠な業務になると、日々こなしていかなくてはならない。それが、ここ2、3日で限界に達してきたのだった。吉崎が、全ての予定をそっちのけで神戸を出てきた割には、留守を預かる福田はがんばった方だ。
「こんちはー。」 「あ、加藤さん、こんにちは。お疲れ様です。」 木本建設土木、購買課には、電話番をしている若い社員しかいない。 「今井課長は?購買課に課長が不在なんて、けしからんのじゃないですか?」 「けしからんのだそうですが、今は緊急事態のようですよ。今井課長は、吉崎さんと会議室にいます。ここのところ何日かこもりっきりですよ。」 「そうですか。行ってみますよ。」 「とりあえず、誰も入れるなって言われてるんで、内線かけてみますね。」 「ありがとう、まあ、待つのもヒマなんで、行きますよ。」 加藤は構わず会議室に向った。
会議室に行って、ドアを開けようとしたら、中から鍵がかかっていた。加藤は、ノックをし、名前を言うと、中から鍵を開ける音が聞こえ、 「おう、待ってたよ、入れ。」 と、少々疲れ気味の吉崎の声が聞こえた。 会議室の中では、吉崎と今井、そして土木の管理部にいる若い篠原がヨレヨレになっていた。 会議テーブルの上は、書類の山と、空き缶が散乱し、灰皿にたばこの吸殻が山となっていた。 「おやまぁ、みなさんお疲れのようで。」 「おれと今井は、慣れない経理の書類で、ヘトヘトだ。全部篠原がまとめてくれたよ。」 篠原は、吉崎と今井に強制労働させられている、と言わんばかりにやつれ気味なって、未だに書類を左に置き、電卓を叩いている。 「かなりがんばったが、もう終わりだ。金の流れも大体掴めたしな。」 書類に数字を書き込んでいた篠原が、懇親の力を振り絞って叫んだ。 「これで終わったので、帰ります。」 「おお、すまなかったな。お疲れさん。」 今井は、書類を見ながら、 「まあ、おおよそわかってきたし、今回はこれまでだな。」 加藤は、会議室を見回して、空き缶と灰皿の片付けを始めながら、紙と電卓によるデータ掌握は、もう限界だろう、とまるで違う事を考えていた。
吉崎と加藤が飛び乗った新幹線は、本日、博多行き最終電車だった。 「もう、くたびれた。おれも今日はオリエンタルに泊まろう。」 新神戸オリエンタルホテルは、新神戸駅に直結されているので、新幹線に乗りさえすれば、あとは楽チンである。 「で、あの書類を精査した結果、どうだったんですか?」 「そのうち、滝川支店長から正式に加藤に伝わるんじゃないか。恐らく、加藤の予想通りの結果になると思うぞ。カクナカの金は全てオウク、テイヨウに吸われてる。滝川支店長には、大雑把な報告は入れておいたが、細かい金額までの報告は、まだ先の話だ。とはいえ、滝川支店長も腹くくったんじゃないかな。」 「もう近々ですか。」 「わかってるとは思うが、早川さんに別れは言っても、絶対にヤるンじゃ無いぞ。でもまだ、撤収かどうかはわからんけどね。」 「吉崎さんこそ、気をつけて下さいね。深酒は身を滅ぼしますから。」 「そうなんだよね・・・」 少し間をおいて、吉崎の顔が加藤に近づいてきた。 「お前、なんか知ってるのか?」 「いえ、一般論を話したまでですよ。おれも一般論の上で神戸じゃ毎日耐えてるんです。」 「そうだな・・・。今日は、ホテルに帰ったら、エロビデオ見て寝よう。」 吉崎は、声にならない呟きを吐くと、シートをリクライニングさせて目を瞑った。
|
|