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作品名:建設業サラリーマンの冒険 作者:Sita神田

第12回   夜の銀座で、社会勉強
加藤は、新宿アイランドタワーを出たその足で、吉崎の待つ木本建設へ行った。
どのような話があったか、一部始終を吉崎に報告しなければならない。
果たして、吉崎は待ちわびたように加藤を迎えて、どんな話があったか興味深げに聞いた。初めは、淡々と事実のみを語った。最期に加藤は付け加えた。
正直言って、データベースの方は恐らく何とかなるだろう。加藤の既知のソフトである。というよりも、設備部でも定評の得意なソフトであった。問題は、大阪で動いている社内システムを見させられる羽目に陥ったことだ。
吉崎は、加藤の話を、いつしか身を乗り出して聞いている。ところが、そんな態度とは裏腹に、吉崎が加藤に投げた言葉は素っ気ないものだった。
「ふーん。」
「加藤は、今日、これから何かあんの?」
「いえ。もう遅い時間だし、事務所に戻ろうかと思いましたが、長谷川部長も、特に用事はなさそうと言ってくれたんで、直帰です。」
「あそ。じゃ晩飯でも食っていこう。おれも神戸に帰るつもりが、延期したから。」
と言い、吉崎は加藤に待つように言って、席をはずした。
横で聞いていた今井が、加藤に身を乗り出して、ボソっと言った。
「これから忙しくなりそうだね。あはは。」
「どいつもこいつも、ひとごとで楽しそうだねぇ〜。」
さっき見た、39階上空から眺める新宿高層ビル群、夢のような景色が、急速に遠い過去のような記憶になりつつあったが、そこで言われた言葉だけが、生々しい現実としてちぐはぐな感覚だった。

一方、吉崎は、たった今加藤から聞いた情報を持って、滝川のいる支店長室の扉をノックした。
「どうだった?」
と滝川は、口を開くなり吉崎に聞いた。吉崎は、たった今加藤から聞いた話を忠実に滝川に伝えた。滝川は最期まで聞きはしたが、話の途中から最期まで表情は渋めだった。話が終わるなり、滝川は叫んだ。
「いかんぞっ!加藤を大阪に入れるなっ!」
「はぁ、これはかなりのチャンスだと思いますが。加藤も神戸を見るいい機会だし。」
吉崎は反論した。
「奴らはヤクザなんだ。加藤が使えるとわかったら、あの手この手で懐柔するぞ。大阪にノコノコ加藤を入れたら、連れ戻せなくなる。」
吉崎は、ハタと考えた。まさか、そこまでは考えてなかった。
カクナカの欲しいものは、今のところ、金と人材なのだ。消防設備業者の人材ではたかが知れている。せめて、港湾計画の認定団体として発足するまでは、設備企業として発展させなくてはならず、それにしても母体である「会社」を維持させなければならない。いまのカクナカは、この母体が瀕死の状態なのである。なんとかカンフル剤を打たなければ、港湾計画はおろか、カクナカ自体の存続すら危ういのである。加藤の稼動資金は、木本建設から捻出している。本来、港湾計画の営業の一環としてその予算を見込んでいるが、その当初の目的を見失って、加藤がカクナカのためだけに働き始まっては、本末転倒なのだ。
「いえ、先ほど話をしましたら、加藤もそれなりに会社のために考えているようですし、今後、カクナカを知る為には、加藤の今回のような存在は必要不可欠です。我々は港湾計画の上層部を見ることは出来ても、なかなかスタッフ側の層を見ることは出来ませんからね。それと、ある程度、システムから会社を見れるのは、かなりの強みとなるはずです。」
滝川は吉崎の言葉を聞いて、自分の意見とピタリと一致する事を確認した。
「とりあえず、しばらくはお前がついてろよ。」
忌々しげに滝川は吉崎に言い放った。
「分りました。」
吉崎は答えたが、「試されたな。」とも思った。元来、滝川が部下の意見ごときで自分の考えを曲げるわけが無い。初めから加藤を倉田のところへ送り込むことは賛成だったのだ。ただ、滝川は吉崎が短絡的に喜んでいたのが気がかりだった。そこで吉崎の考えを聞き、どこまで自分と同じ考えなのかを聞きたかった。
吉崎は、改めて気を引き締めた。それは滝川の計算通りだった。
「まぁ、システムったって、あんなボロ会社のシステム見たって、ロクなもん入ってねぇーぞ。」
「そうですね。」
吉崎は、それはそれでいいじゃないか、と思っている。
滝川と吉崎は、神戸も倉田も動きが緩慢で、飽きてきていた。吉崎は、出向して2ヶ月。そろそろ刺激が欲しいなぁ、と思っていたので、加藤の大阪神戸行きは、それなりに楽しみだった。
「ところで、晩飯用意してるから、食ってけ。」
「あ、あの、ちょっと加藤と二人で約束してるんですけど。」
「ああ、おれも仲間に入れろや。ちょうど加藤の分もあるから。」
滝川はそう言うと、上着を着始めた。
「先行っとけ。おれは少し遅れてく。おれの車、わかるだろ?」
「はい。ありがとうございます。」

購買課に戻ると、加藤が待っていた。
「滝川支店長が、ご馳走してくれるってさ。加藤と話したいみたいだよ。」
加藤は、滝川支店長をよく見かけるが、話をした事は無い。体は大きい方ではないが、声がやたらとでかく、元気なおじさんと言った趣だ。
「おや、そうなんですか。」
そう言って、加藤は緊張した。
恐らく、土木の一般社員でさえも、支店長と席を同じくして飲むなど無いだろう。それが、まるで関係のない、建築の設備部社員が土木支店長に誘われているのだ。勿論、港湾計画にからむカクナカに出向に行っているおかげであり、吉崎のおかげであるが、サラリーマン体質の緊張は、理屈ではないのだ。

事務所からエレベーターに乗って、地下2階に行くと、そこは駐車場になっていた。
二人は、社用車の溜りになっている所へ行った。すると、見るからに運転手といった趣のおじさんが近づいてきて、
「吉崎様お二人様ですね。滝川支店長から伺っております。」
と、車の扉を開いた。吉崎は、その車に乗り込んだ。加藤も続いて車に乗った。
そのまま回り込んで、運転手は運転席に乗り込み、車を発進させた。
吉崎は、運転手に聞いた。
「遠いの?」
吉崎もどこに行くか分らないらしい。加藤は、なんとなく変な気分だったが、別に何の興味も無かった。そういえば、腹も減ったかな?と思った程度だ。
「銀座でございます。」
と運転手は答えた。
車は10分ほどで到着し、車の扉が開いた。外で運転手が開けたのだ。降りた途端に複数の女性の優しい声が聞こえた。
「いらっしゃいませ。」
見ると、和服姿の女性が3人、深々と頭を下げている。大きな暖簾の向こうに、玄関を巨大にさせたような引き戸があった。引き戸をくぐると、両脇に松が植えられており、手入れが行き届いている。飛び石が3メートル程続いた奥にさらに引き戸の玄関がある。
招かれるまま吉崎と加藤は奥に入った。座敷に通されて入った途端驚いた。12畳の和室に床の間があり、床柱が巨大だ。どうしたわけか、床の間の真ん前に膳台が二つ並び、その向かいに膳台がひとつ。加藤はいぶかしげに吉崎を見たが、吉崎も首を捻っていた。

床の間の前に置いた席を上座といい、その向かいを下座という。目上の者が上座に座り、その他は下座に座る。
若い者は、このような礼節や作法を知らない。と思われがちだが、どっこい、体育会系や建築業、営業畑の者などは、まだまだこれらの上下関係をキッチリ分ける作法、マナーなど仕込まれる。上座、下座の配置などは、入社時に自然と叩き込まれるビジネス基礎編なのだ。
そこから行くと、この膳の配置はおかしい事が分る。床の間の真ん前には、膳はひとつ。ここに支店長である滝川が座る。その向かいに、二つ。左側に吉崎が座り、右側に加藤が座る。ところが、入ってきたら、まるで逆の配置なのだ。吉崎も加藤も、それぞれ、どこに自分が座ってよいのか分らない。二人で思案した挙句、襖の前に二人とも正座して、滝川が来るのを待った。加藤は、
「かっちょわるいなぁ。」と思った。


吉崎を送り出した後、滝川は、建築支店へ行き、支店長室へ入った。ノックもせずにいきなり入るが、片岡は、いつもの事だし、滝川の方が目上に当たる為、何も言わない。別に腹を立てることでもなかったし、その方が滝川らしいと片岡は思っていた。
「ごくろうさまです。」
片岡は滝川に言った。
「あぁ、加藤な、」
滝川は片岡を見るなり、いきなり切り出した。片岡は何も言わず滝川を見た。
「しばらく、調整が難しくなる。この前言った、立川の件、大丈夫だろうな。恐らく、加藤は行ってらんないぞ。」
「あぁ、元いた担当者は変えたんで、問題は無いと思いますが、田口部長には念を押しときますよ。」
「頼む。それから、お前のパソコンの方はどうなんだ?」
なんとなく、嫌味っぽく滝川は片岡に聞いた。
こっちはビッグプロジェクトを追っかけてんだ。パソコンなんぞにかまけてるな。と滝川は言わんばかりだった。
「ゆくゆくは事務処理全てにパソコンを導入しますよ。データも紙で保管するのを取りやめてパソコンに入れて、全員がそれを使うようにする。今、月末月初に徹夜してる奴らを全て定時で帰しますよ。」
「ほー、壮大な計画だなぁ。できんのか?」
片岡は、希望的観測でものを言う奴ではないことを滝川は知っていた。
「加藤を使えば、出来そうですねぇ〜。」
「パソコンってのは、そんなエラいもんかねぇ〜。おれはどうもねぇ〜。」
「これからは、コイツの時代が来ますよ。」そう言って、片岡は自分のノートパソコンをたたいた。
「加藤の代わりはいないのかぃ?パソコン好きな奴なんて、他にもゴロゴロいそうだがなぁ。」
滝川は、おとなしげに片岡に聞いた。
「前に二人、そんな奴らを選んで話聞いたんですがね。」
「じゃあ、今回もそいつらに任せたらどうだ。加藤は出向に出てるんだし。」
「実は、このノートパソコンもそいつらの見立てで買ってきたんですよ。自分らもパソコンが好きだし、出来る。って言ってたもんでね。」
片岡の残念そうな声に、滝川は思わず聞いた。
「そいつらと、加藤の決定的な違いって何だ?加藤より劣っていても勉強させれば追いつくだろうに。」
「意識の違いですねぇ。」
意識ねぇ〜。滝川はますます分らなくなった。およそ道具を使うのに意識もへったくれもねぇーだろ。と思い、その辺を片岡に突っ込んでみた。
「パソコンは道具ですが、誰でも使いこなせるモンじゃない。ところが、これを仕事で使わせようと思ったら、使えない奴も使わなきゃならないし、使わせなきゃならない。加藤は、恐らくその辺を分ってるし、前の二人はその辺を分ってないんですよ。」
「ほう。」
「教えられて出来るようにする、なんて甘いモンじゃないですねぇ〜、コイツは。」
片岡は、得意げに滝川に説明を続けた。
「例えば、これは加藤が作ったモンなんですがね。」
と片岡は、自分のノートパソコンを覗き込んだ。つられて滝川も片岡のノートパソコンを覗き込んだ。
加藤が設備部時代に組み、その後片岡の要望で、次々と組直し、その時よりも使い勝手が向上した、例のデータベースが開いていた。
「こいつは、データベースと言って、過去の建築工事が調べられる仕組みです。設備部のパソコンから移植したもので、支店長室の前のパソコンと、設備部、副支店長のパソコンにも入れてあります。」
「これのために、加藤はカクナカからここに来てるのか。」
滝川の口から思わず漏れた。
「こいつは、我々パソコンを良く分らないけれども、そんな奴にも使えるように作られてるんです。パソコンをわからないヤツでも、過去の現場を知りたかったら、知りたい現場をここに打ち込んでボタンを押せば、瞬時に知る事が出来る。恐らく将来はこのようにパソコンを使うようになるだろうし、こうしないとパソコンを企業に入れる意味が無い。加藤は、初め自発的にこれを組んだんです。設備部のみんなが現場を検索できるようにね。」
「なるほどねぇ。これならおれでもパソコンで現場を検索できるわ。」
「こんな風に、では、現場の請負金は?合計は?どの現場に誰が配属されているか、現場はいつ着工していつ竣工するのか、などたちどころに知らなければならない事が我々は多すぎます。パソコンなんぞ勉強もしたくはないが、この仕組みを応用すればパソコンで知る事が出来る。他の二人はここまで考えが及ばなかった。パソコンを使えない奴には、教育だ。と、そこ止まりでした。」
「他の企業はやってるんだろうな。」
「恐らく、加藤のような人材は、他に行けば普通かも知れない。」
「いやぁ、そうでも無いかも知れないぞ。カクナカでそんな加藤のスキルを欲しがってる。加藤を大阪にやろうと思っとるんだ。」
「そこまで来ましたか。おれにとっては痛手ですねぇ〜。」
「しょうがねぇ。そこまで聞いちまった以上は、極力東京に居させるようにするよ。大阪神戸と東京の二重生活になるかも知れねぇーが、加藤には耐えてもらうわ。」
「すいませんね。加藤をお願いします。」
「おう。それじゃ、行くぞ。」
滝川は、片岡の部屋を出た。
吉崎と加藤、どこまでやってくれるか見ものだ。滝川は口をへの字に曲げて、笑いを耐えるようにして思った。
滝川は、車に乗り込み、急ぐように運転手に伝えた。


「これは料亭だぞ。料亭なんて入ったことあるか?」
ヒソっと吉崎は加藤に聞いた。
「あるわけないでしょ。めちゃめちゃ緊張してます。」
吉崎は、今や足を崩していたが、相変わらずどこに座っていいものやら分らない二人は、部屋の片隅に居た。
次から次へと、これは何かの試練か?加藤は、逃げ出したくなってきた。
「支店長も、そろそろ来ると思うけど、加藤も足崩せよ。」
加藤もそろそろ足がしびれてきた。足を崩そうと身をよじった時に、バーンと襖が開き滝川が入って来た。
「やぁやぁ、遅くなってすまん。ん?どうした、そんなとこにちょけんと。」
どこに座っていいのか分りません。とはまさか答えられない。
「いやぁ、我々支店長をお待ちしておりました。」吉崎はすかさず答えた。
加藤は、「お疲れ様でございます。」と挨拶するのが精一杯だった。
「なんだよ、悪かったな。座れ座れ、足崩して座れよ。」
加藤は、目に入った一番下座を目指した。どこをどう考えても加藤が一番下っ端だ。上座にあと二つ膳があるが、そっちは吉崎に何とかしてもらおう、と思った。こら、早い者勝ちだ。
ところが、
「おう、そこはおれの席だ。」
なんと滝川が加藤を払った。
「今日は、お前らがお客さんだ。おれがもてなすんだよ。」
なるほどね。と加藤は思ったが、吉崎の方は心中穏やかではないようだ。だいぶ困惑している。ところが、もう滝川は一番下座に座ってしまっている。二人はおとなしく上座に座った。
「おう、じゃ始めてくれ。」
滝川は女中さんを呼んで、宴会の始まりを合図した。
「加藤は、吉崎に何でも言えよ。遠慮はいらん。飯食わせろ、歌歌わせろ、金よこせ、何でもいい。こいつは、なんでも知っとるから、いいとこ連れてくぞ。」
加藤からビールを注がれながら、滝川は大声で言った。
「そこまであつかましくてもいいんですか?」
取りも直さず、滝川のこの発言は、「細大漏らさず、吉崎に報告しろ。」と言ってることに、他とりようが無い事が加藤には分ったが、わざととぼけて答えた。
「おう、なんでもな。」
念を押すように滝川がいい。
「分りました。出来の悪い後輩社員みたいですけど、なんでも報告します。」
「わはははは、おまえ、面白い奴だなぁ〜。」
あまりの緊張に、キレの利いたオチで返す事は出来なかったが、とりあえず「ヨシ」みたいだ。と加藤は思い、吉崎を見たら、吉崎もホっとしたようだった。

始終、滝川は上機嫌のようだったが、吉崎にとっても、加藤にとってもとりあえず、ソツなくこの場をこなし続け、これ以上飲むのは、ヤバいかも知れない、と加藤が思った頃、滝川がこれまでと同じ調子で話し始めた。
「おう、加藤、あいつらはヤクザ者だから、気をつけろ。」
「あの、支店長、それはまだ加藤には早いと思うんですけど。」
「構うかっ。加藤だってもう子供じゃねぇーんだ、社会と言うものを知っとかなきゃならん。」
「奴らは、使えると思った奴はあの手この手で自分のとこに引き込むからな。そう思って、奴らから金は一切受け取ってねぇ。お前らの給料もこっちから出してる。おまえも、大阪に行こうとも神戸に行こうとも胸張って行けばいいんだぞ。」
加藤は、カクナカ東京支社にいる三友建設から来た二人を思い出した。なるほど、二人はカクナカの顔色を伺っている気配を感じていた。もっとも加藤もそうだが、加藤はぺいぺいだからであって、二人の質とは違っていた。
「倉田っての、気をつけろよ。奴は普通じゃねぇ。これから大阪、神戸に行ったら、そんな胡散臭い連中がゴロゴロしてる。吉崎はすでにそんな奴らに会ってるが、加藤はこれから会うだろう。お前は木本建設の人間なんだ。必ず帰らなきゃダメなんだぞ。」
「奴らは自分とこの社員には、給料も払ってねぇんだぞ。知ってるか?」
新宿アイランドタワーで会った山川は、もう3ヶ月は給料が未払いだと言っていた。山川の話と、39階事務所の格差が激しく、違和感を覚えた。加藤は、「はい。」と答えた。
「そんな連中に、こんな港湾計画なんぞまとめられるわけねぇ。」
加藤はハっとなって吉崎の方を見た。吉崎はグラスをグイっと空けた。加藤は、滝川のグラスにビールを注ぎ、続いて吉崎にビールビンを向けた。吉崎はグラスを傾けた。
「でも、これが失敗に終わってもいいじゃねぇーか。いい夢見れたな、でいいじゃねぇか。だがな、それには、おまえらがちゃんと戻って来なきゃ、なんにしても終われない。」
滝川は声を潜めて、加藤に言った。
「倉田はお前を呼び込むかも知れん。直接言うか、金を使うか、女を使うか、それは分らん。倉田はヤクザだ。それを忘れんなよ。」
吉崎は、たまらず滝川に言った。
「そんなに脅さないで下さい。加藤はこれからカクナカ本社に行くんです。」
「わははは、例えだよ、例え。そう心配するな、加藤は大人だ。」
対する加藤は、それほど答えてなかった。あまりにも現実離れした話もさることながら、倉田が加藤を引き込む道理が無い。引き込んだところで、何の役にも立たないだろうと思っているからだ。たったひとつ魅力的な理由がある。それは、無料で人を使えることだ。給料は木本建設が払う。加藤を引き込むことによって、自分の腹は痛まずに自分のために働く人材ができるのだ。しかし、今のカクナカ社員もタダ働きだ。それが一人増えたところでなぁ、と加藤は思った。引き込むために使う金と女の方が高くつきそうだ。
「吉崎から何かあるか?」
滝川から吉崎にフった。
「あの〜、加藤にケータイを持たそうと思ってんですよ。」
「そんなこと、おまえの判断でやれよ。そのために金預けてんだろ。それと、ケータイ持つなら、デジタルにしろよ。」
ケータイには、アナログ式とデジタル式がある。アナログ式は、暗号化せずに音声を電波に乗せる為、盗聴される可能性が極めて高かった。アナログ方式が絶滅し、全てのケータイがデジタル方式となるのは、この後、何年と経たないが、今はアナログ方式が主流だ。滝川が、盗聴を警戒した事は言うまでも無い。
「大阪に持たせんだろ。手配してあんのか?」
「いえ、これからですが。」
滝川は、自分のポケットからケータイを取り出すと、なにやら電話をかけ始まった。
「あぁ、おれだ。ケータイ二つ用意しとけ。明日、吉崎が取りに行くから。」
加藤は、驚いた。かくも上司と言うのは、こんなに打てば響くものなのか。設備部部長、田口を思い出し、加藤はしかめっ面をしてしまった。
「明日、今井んトコに取りに行け。昼前には届くぞ。」
今日、この時間に指示を出されて、明日に用意って、そら無いよなぁ。今井さんも災難だな。加藤はどうしても指示を出す側ではなく、出される側に同調してしまう。
「じゃぁ、話はお終いでいいか?いいなら次行くぞ。」
聞くなり滝川は立ち上がった。
「今度はな、すまんが車使えんのだ。近所なんで歩いてくれ。」
すげぇな。近所って事は、銀座で飲むんだ。ザギンだ、ザギン。もう、加藤は有頂天になってしまった。
料亭を出て、滝川が先頭を歩き、吉崎、加藤がそれに続き歩いた。恰幅のいいどこかの店の店長のような男がにこやかに滝川に近づき、カクンと腰を折った。
「滝川さん、おつもお世話になっております。」
「おお、そのうち行くからよ。」
「ええ、お待ちしております。」
ちょっと歩くと、和装の美人が二人ほど近寄ってきた。
「滝川さん、言われた通り、行ったわよ。よかったわぁ。肩も上がるわ。」
それを見て、向こうでゴミ出しをしていた若いコックのような男が駆け寄ってきた。
「おう。母さん、どうした?」
「おかげ様で、お袋も、すっかり良くなりました。ありがとうございました。」
滝川と銀座のコックがやり取りをしている。加藤は思った。
「ここは、支店長んチの町内会か?」
程なく歩いて、銀座のクラブに着いた。美人ぞろい。
クラブの個室というものに、加藤は生まれて初めて入った。巨大カラオケボックスと言えなくもないが、ミロのビーナスが飾られ、ロダンなどの彫刻が置かれ、何よりソファは事の他柔らかく、「このメンバーでこれはいかん。」と思いつつも踏ん反り返ってしまう。口を開ければ、隣に寄り添う美人が果物を入れてくれた。あっけに取られている加藤に、気を使って話しかけてもくれた。
「生きてこそ、生きていてこそだ。」加藤は泣いた。


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