翌日、長谷川と加藤は新宿アイランドタワーの地下4階にいた。地上階のきらびやかな華やかさとは正反対の、薄暗くなんの飾り気もない駐車場の奥、コンクリートむき出しの壁をどこまでも行き、ちょっとした普通の廊下に入って行くと、これまた飾り気のない鉄扉が並んでいた。そのうちのひとつの扉をガチャリと開けた。 「ご苦労さまで〜す。」と中から声が聞こえた。 中に3人、カクナカの作業服を着た若い作業員風が、長谷川と加藤に声をかけた。 リーダー格の男が、山川と名乗った。実は、カクナカ東京支社の社員である山川以下3人は、この新宿アイランドタワーに常駐をし、ここで消防設備の日々の保守を行っているのだった。実は、このビルの消防設備はカクナカが新築工事業者として入った現場で、昨年竣工したところだが、残工事や、保守といった雑務を毎日こなしている。 「悪いね。本当はもっと頻繁に来たいところだったんだけど。」 と、長谷川は山川にいいわけめいた事を言った。 「いやぁ、部長も忙しいでしょうからね。」 「今日は、ここにいる加藤君を連れてきた。みんな初めてだよね。」 加藤と3人は、お互い自己紹介を交わすと、山川が言った。 「まぁ、おれ以外は今月辞めちゃうんだけどね。もうやってけない見たいだから。」 「やってけない?って仕事が?ここは、居心地が良さそうですけど。」 なんて、加藤が山川に聞いた。 「あぁ、おれたちはここ3、4ヶ月ほど給料が出てないんだよ。」 「へ?」 加藤は耳を疑った。 「給料を貰ってないで、大丈夫なんすか?」 「うん。3台あった車を2台に減らしたし、保険も解約した。正直つらいねぇ〜。」 少なく言っても、3ヶ月無収入のまま2台の車を維持している。加藤にはおよそワケ分らない話だった。 「まぁ、今まで貰ってた額が多かったから何とかなってるけど、このまま続くと、おれも辞めざるを得ないねぇ〜。」 聞けば、今まで貰っていた額と言うのは、加藤の給料を3倍しても追いつかない金額だ。世の中狂ってるのか、それともここにいる山川が現実で加藤が狂っているのか。最近は、分らない事だらけな加藤は、それ以上はこの話を考えないようにした。 そんなやり取りをしている中、長谷川が加藤に話しかけた。 「僕らは、契約金でカクナカから貰ってるからね。こういう実体は、よく分らないんだよ。」 僕らというのは、この長谷川と、支社長で入っている大屋のことであることは加藤にも分った。「ふーん。」とうなずくのが加藤には精一杯だった。 「加藤君は、この後、倉田社長に会う約束になってるんだよ。」 長谷川は、誰にいうとはなしに、言った。山川はそれに答えた。 「あぁ、39階ですよ。行ったことは無いけど。」 「聞いてます。何で呼ばれたか分らないんですよねぇ。そろそろ時間なんで行って来ます。」 長谷川が頼りなげな声で加藤に言った。 「じゃ、がんばってねぇ。」 何をがんばればいいのか、教えて欲しかった。
39階でエレベーターを降りた加藤は、周りを見回してみた。「株式会社カクナカ」の案内表示があり、方向を示していた。同じ案内に、「株式会社オウク」と架かっている。認定会社には、カクナカの他複数の団体が挙がっていると、吉崎は言っていた。恐らくこれが、その団体の中のひとつなのであろう。 かすかに音楽が流れているが、それ以外は物音せず、気圧まで低いように錯覚してしまうほどだ。案内のカウンターが目に入り、その向こうに女性が座っていた。女性は加藤に向って愛想を振りまくと、 「加藤様でございますね?お待ちしておりました。ご案内致します。」 と、加藤が話しかけるよりも先に問いかけてきた。 「すいません。」 と、その女性の後をついて行った。 女性が扉の前に行き、ノックをすると、中から「どうぞ」の声が聞こえ、女性に促されて加藤は中に入った。 眩しい光景が部屋の中には広がっていた。巨大な窓の向こうに広がる、そびえ立つビル群。この新宿にあって、空が半分を占める光景に、かなり贅沢な気分だ。地下4階の世界とはまるで別世界、いや、毎日通っているカクナカ東京支社とも、まるで違う世界がこの部屋の中に広がっていた。 豪華な社長デスクの脇に立ち上がってる男が、加藤に椅子を勧めた。 「この男が、倉田社長か。」加藤は思った。 「どうぞ、座って下さい。」 「加藤君。」 「はい。初めまして。加藤です。」 「あぁ、自己紹介がまだだったね。カクナカの社長やっとる倉田です。」 「岸部からよく聞いていて、初めてという気がしなかったものだから、申し訳ない。」 まったりとした、西のイントネーションで、なんとも言えない笑みを浮かべながら倉田が言った。 「まぁ、堅苦しいことは抜きにして、楽にして座って。」 再度の勧めで、加藤は会議テーブルについた。 「加藤君のことは、岸部に聞いているよ。ものすごい活躍らしいね。」 「あぁ、いえ、特に遅くまで残業することなく、自由にやらせて頂いてます。」 「ほう、自由にやってその活躍か。たいしたものだ。それに引き換え、長谷川部長は、何をやっているのやら。日がな1日、ボーっとタバコ吸っとるんやろ。図星やないか?」 「いらっしゃる時はパソコンを睨んで、なにやらやってますが、わたしも現場に出たり、お客さんの所へ小間使いやら出たりしてるので、長谷川部長が何をしているか分りません。」 「そうか。時に歓迎会はやってもらった?」 「いいえ。」 「そうか。わたしの方は加藤君をきちんと歓迎したいんだよ。いずれ、ちゃんとした形でやらしてくれないか。」 「いやぁ。もう馴染んでいるんで、特に必要ないかな、と。」 「まぁ、いずれだから期待せんで待っといて。」 倉田はさわやかな笑顔で加藤を見た。 「現場や、お客さんも去る事ながら、加藤君はパソコンも得意と聞いたんだが、かなりやるそうだね。」 「わたしも一介の現場員なので、好きなだけで、得意かどうかは判断しかねます。」 「随分控えめだな。実は、神戸でパソコンを開発している子がおってな。外に出せないデータなので、社内開発や。その子がギブアップしてきよった。出来れば、その子に教えてやって欲しいのだが、できるかね。パソコンの名前は・・・。すまん、ワシもパソコン不得意でな、紙見させてもらうわ。」 倉田は、だいぶ砕けてきた。「わたし」から「ワシ」と呼び名が変わってきたし、西の訛りが顕著に出てきた。 「あ、そうそう、アプローチや。」 「あぁ、ロータスですね。データベースを開発してらっしゃるんですか。」 「おお、流石、よく知っとる。ロータスと言っとった。まぁ、一度神戸に観光がてら行って、話し聞いて見てくれんか。早川ひとみ、言う子や。」 「分りました。話聞きに参ります。」 加藤は、女性の名前を聞いて、ラッキーっ!と思い、喜んだのも束の間、次の言葉で一気に尻コダマが抜けた。 「良い答えだ。ついでに、カクナカ本社に寄ってくれないか。実は社内システムをいじって欲しいんだ。こっちは、わからん。加藤君が来るのに合わせて分る人間を用意しておくよ。」 「はい。」 答えはしたものの、何を言い出しやがるんだ?コイツは。と思った。 一体、社内システムを見る、という事がどういうことかわかっているのか、言葉を疑ったが、倉田の顔を見ると、至って本気のようだ。 「ひょっとしたら、おれのささやかな平和な日々は終わったのかも知れない。」 どのような規模のシステムであっても、社内システムは社内システムだ。それなりの金額をかけて、プロ集団が寄ってたかって組上げたシステムに違いはない。それを、「あんた、パソコン好きでしょ、だからやってよ。」と軽くおっしゃってるに過ぎない。 くそ忙しい木本建設から出向に出されて、一転、追われることの無い、平和で自由なヒマな日々。思えば、あまりにはかなく、あまりに短い日々だった。 窓の外の高層ビル群がかすれて見えてきた。
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