20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:群青色の木の下で 作者:会田葉介

第1回   1
「如月くんって何やっても怒らんよね。温和ちゅうか、心が広いちゅうか、ワシらより一回りも二回りも年下ちゅうのにアンタまるで好々爺みたくにこにこしとって、大人びとるわ。シュウさんが気に障ることはないとね。また如月くんの言いつけ破って煙草吸ってたんやろう。肺わるうて床に伏せって挙句にボケが回ったっちゅうに。あれは確信犯やぞ。如月くんが怒らんって分かってるもんやから」
 さっぱりした性格のモトさんはいつも切り口上に話しはじめる。食事を運んできただけの如月にもう10分ほど一方的に話続けていた。言葉尻は鋭く断定的で、安易には同調できないが、むきになって反論するほどの話でもない。博多生まれの九州男児。これが九州の男の世間話なのだろう。
「まあ、如月さんも分かってるんですよ。私がちゃんとたしなめたら、素直に謝りましたし」
「だからそれで済むってわかってるからや。たまにはがつんと言ってやらんと、本人のためにもならんとよ」
「じゃあ、今度煙草吸っていたらそうさせて戴きます。今日の味噌汁はなめこ入りですよ。好きでしたよね。なめこ汁」
 トレーをテーブルにおいて席を立った。モトさんはやれやれとばかりにため息をついて、温くなった味噌汁に口をつけた。
 介護付有料老人ホーム「サンリベラル周桑」の朝はゆっくりとしている。だいたい朝10時までに朝食を配り、オムツを変え、着替えを手伝うくらいしか仕事はない。午前中はレクレーション等の行事もないし、持病を抱えた方も午前中は調子がよく、いきなりの発作に部屋に駆けつけて薬を飲ませてやるということもない。闇に怯えやすい認知症患者も徘徊することなく大人しくしていてくれるので、ゆったりした時間を過ごせる。同僚の中には夜間ほとんど寝らずに午前中にだけ仮眠をとるという人もいるくらいだ。午前中の安寧の時間、張り詰めていた神経が弛緩するのを感じ、思わずんっと背筋を伸ばした。
 一通り食事を配り終えた如月は、同僚に一言声をかけてから食堂を出た。
「おはようございます」
「おはようございます。今日は調子どうですか」
 すれ違う入居者と挨拶を交わし、つい如月は相好を崩した。いつもの日常だった。
「今日は晴れとるから、すこぶる良いわね」
「そうですか。よかった」
「先生こそ今日は顔色がええね。何か良いことでもあったの」
 介護師のことを「先生」と呼ぶ入居者も少なくない。入院患者が医者に対して先生と呼ぶのと同じ感覚なのかもしれない。
「毎日いいことばっかりですよ。楽しい人たちと過ごさせてもらっていますし。充実の一言ですかね」
「へぇ。なんだか爽やかやねぇ。やっぱり先生はええわ」
「そうですかね」
「そうや。そう」古さんと呼ばれる年配の女性は目を細めた。「もっと自信もっていいくらい」
 まだまだ元気がある。こんな古さんを見て、こういう風なおばあちゃんになりたいな、と同僚の女性介護師が不意にこぼしたことがあった。
「そういえばシュウさん。また煙草吸っとったよ」
 といきなり古さんは声を低くした。
「ええ。らしいですね」
「いや、ちがうのよ。今、駐車場でね、吸ってるんよ。ゴホゴホ咳しながら」
「今、ですか」
「ちょっとばかり先生優しすぎるところがあるからね。シュウさんばかりはちょっとキツく接したほうがよいかもしれないわね」と残念そうにする。
 シュウさんの寝煙草がバレたのが昨夜のこと。如月は怒りはしなかったものの心配しているから喫煙は金輪際しないようにと釘を刺した。あれから半日も経っていない。モトさんのいうとおり、少しは叱っとくべきだったのかもしれない。
「ちょっと見てきます」
 着ていたエプロンを脱ぎ捨て、早足に渡り廊下を進みはじめた。
 十和田昭六87歳。
 肺に腫瘍が見つかり、都内の国立癌センターに入院したのが3年前。幸い早期だったらしく高齢ながら抗癌剤の治療に耐え、半年あまりの入院生活で彼の身体は全快した。ただ長時間の入院生活のためか、アルツハイマーの兆候がみられるようになってしまい、家族が気づいた頃には、通帳の場所も、亡くなった伴侶の墓の場所も忘れてしまっていた。それと前後して夜間の徘徊が始まり、幾重も警察に保護された。物忘れが激しく、情動を制する自我も、情愛も忘れて、可愛がっていた猫を鍋で茹でようとしたこともあった。
 彼の長男夫婦は自分達の手で親を介護したがっていた。ただ経済的な理由、時間的な理由で難しかった。介護老人ホームに勤めるものならばよく聞く話だった。入院生活で身体も動かさず、老眼で本も読めず、することといったら日がな一日テレビを見るだけ。そうやって刺激の無くなった脳は、この先永遠に自分の記憶など不必要な状況になったと自分勝手に判断し、数多の思い出を機械的に消去してしまうのかもしれない。
 ショウさんは癌が発症するまでは、一度たりとも煙草を吸ったことが無かったらしい。だがこのホームに着てからは、人の目を盗んで煙草をふかすようになった。
 彼の主治医から煙草は厳禁と聞いていたため、私達は彼の行動に目を光らせていた。それでも一日24時間ショウさんだけに張り付いている訳にもいかない。彼はどこからか煙草を調達し、ベッドの中や夜中の食堂、トイレの中で喫煙を繰り返した。私達がそれに気づくのは、彼の部屋が煙草臭くなっていた場合だけだ。その都度、口を酸っぱくして注意するが、ちゃんと意味を理解しているかも疑わしく、正直手を焼いていた。
 正面玄関の扉を開けると、右手にある駐車場にショウさんはいた。
 身体を大の字に広げ、大仰に寝転がっている。口先にはフィルター近くまで火のついたマルボロがあった。
「何やっているんですか」如月は詰め寄ったが、老人はほとんど動じなかった。
「木を……みとった……」
「煙草。身体に障りますよ」
「かまわん」
 今のショウさんは認知症の症状は無いみたいだった。それでも煙草を吸っている。
「ショウさん。もっとしっかりしてください。自暴自棄にでもなってるんですか」
「ジボウジキ……か」
 老人は乾いた目を如月に向けた。生気のない漆黒の瞳が如月を少したじろがせた。
「……自暴自棄に、なれるもんなら、ええわな……」
 風に吹かれて煙草の灰が彼方へ飛んでいったのを見て、まるでショウさんの魂の一部が霧散してしまったかのように思えた。


次の回 → ■ 目次

■ 小説&まんが投稿屋 トップページ
アクセス: 268