最初は苛立ちもしたが、何度も同じような話を聞かされるうち、それが兄なりのコミュニケーション手段なのかもしれないと考えを改めるようになっていた。どうせなら、もう少し別の形でのコミュニケーションを求めたいとも思うけれど。やがてわたしはサンドイッチを食べ終え、情緒もなにもない説法ともとれる話をやめたと思ったら、「朝はこれだけで十分なんだ」と浄水器の水をいつまでも飲んでいる兄をリビングに残し、歯を磨こうと洗面台の前に行く。兄が通信販売で買った石鹸歯磨き粉を歯ブラシに少量つけ、丹念にブラッシングしながら、鏡に映しだされる自らの顔、髪の質感、目のくま、目やにの濃度、唇の力強さ、全体像としての少女性などをなんとなく癖で確認しながら、「今日も調子は悪くないな」と意味もなく優しい声で自分で自分に囁くのだった。
家を出る予定の時刻までまだ少し余裕があるので、ここはやはりと、太らない体質だからと、チーズビットなぞ食いながら、リプトンのレモンティーなぞ飲みながら、2chを見たり、ニコニコ動画に「wwwww」と不毛なコメントを書き込んだりしているうちに不思議なもので、自分が思っていた以上に時間が経っているなんて、ざらもいいところである。ほいで、出かける時間のギリギリになって、ああ、やばい、とっとと支度しないと、運気を逃す、というか、間に合わない、なんて言いながらすでに心は鬼と化し、物理的にちょっとあり得ないであろう速度で服を着替え、靴下を履き、パンツを新しく穿き替えるかどうか迷うが、結局穿き替え、さあ出かけるぞと思った刹那、今日という日において大事なものを忘れていたことに気がついた。履歴書だ。今日面接じゃん、なのになにも書いていないどころか、恐らくはいま家に一枚もないはずだ。バンドの練習が終わってから、一度家に戻って書くか。いや、そんな時間はない。って、判子。どこに置いてあるんだ。見当もつかない。親は朝早くに出かけていないし、兄は自室に籠っている。こうなったら兄は人として機能しなくなるから、親に連絡して聞くしかない。親の携帯電話の、えと、だめだ。知らない。電話番号。まあ、いい。しょうがない。ここは拇印ですませるとするか。わたしのか細き指で、ぼつんつて。それでいこう。押してやろう。などと考えながら、靴箱の上に申し訳なさそうにめそめそと飾られている花を眺めていた。これは百合だろうか、芙蓉だろうか、はたまたカンナだろうか、と思ったところでわたしに花の種類がわかるわけもない。花を見て、瞬時にその花の名前がわかるような人生を残念ながらわたしは歩んでいない。というか、そのように気前よくぼんやりしている場合ではなかった。履歴書だ。うーん、とはいっても、いまの状態を鑑みれば、こりゃスタジオで書くしかないなと判断せざるを得ず、履歴書はコンビニで買うとして、いいかげん出かけないと約束の時間に間に合わなくなるので、極限まで履きつぶされた、最高にお気に入りのスニーカーに片足ずつ勢いよく突っ込み、最後に我が愛器ストラトキャスターを背負い、家を出、待ち合わせ場所である新宿に向かった。
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