こういう場合は、嘘でもこちらから言葉を発したほうがよいのだろうか。予定不調和の沈黙っぷりに、またさらに動揺していくのが自分でもわかる。しかし、わたしがいかほど動揺しようが、男は無言のままだ。ひょっとすると、試されているんではあるまいか。メイドなるものは、こういう電話でのプレイ的な、面識のない相手の無言による圧力を耐え忍び、そこからなにかしらのエロスを生みださねばならないみたいな暗黙の了解があるのかもしれない。ひとつの動揺がまた別の動揺を呼び込み、いろんな思考が空回りしていく。ああ。やばい。薬飲みてぇ。さっき飲んだばかりなのに。とはいっても、わたしももう子供じゃない、ここが堪えどころと捉え、迫りくる抑鬱の気配を丹念にぶち殺していき、ありったけの誠意を脳の一点にかき集め平常心を装う。
「あの、えと、ですね、募集はまだやってますか? アルバイトの」 「……アルバイト?」 「はい、アルバイトの、です」 「……」 「……」 「地獄の黙示録」 「え?」 「ゲフン!」 「……」 「ああ、ごめん、ちと、ゲフン! ゲフン!」不意に男は攻撃性の強い咳をしだすと、その咳に負けじと勢いよく鼻をすすった。じゅーじゅるじゅる。ああ。なんだかあちらの状況が容易に想像できてしまう。が、ここで風邪でもひいているのかなと気遣えるほど、いまのわたしに余裕などあるわけがない。当然のように容赦なく、相手の次なる言葉をねだった。
「あのぉ」 「……グスン」 「あのぉ、ですからですね、アルバイトの件で、なんですけど」 「ああ、うん、ごめん。いまちょっとあれだ、鼻が、グスン、ちょっといいかな、かんできても。このまま、グスン、この按配で電話を続けるのもいろいろとあれだし、もちろん君にとっても、多分そのほうが、うん、まあ、どっちにしろ、グスン、ちょっと失礼。すぐ戻りますから」と男は言い、電話が置かれた場所から少し離れたのだろう、ティッシュで鼻をかんでいる様子が受話器越しから伝わってくる。「ごめんなさい。お待たせしてしまいまして」と一分もしないうちに男は戻ってくると、その後も攻撃的な咳をするたび、鼻をすすったりかんだりもしたが、そういうのが何度か繰り返されるうち、ふたりのあいだになぜだか程よいグルーヴ感が生まれはじめ、さっきまでの沈黙はなんだったんだとばかりにズカズカと話は進んでいき、あれよという間に面接する日時が決まっていた。
明日の日曜日、昼の3時。
受話器を置き、ヤニまみれの歯や歯茎や歯糞なんかの臭いを大量に含んだ、いかにも不衛生なため息をついた。まさかアルバイト募集の電話をかけただけでここまで精神的に疲弊するとは思わなかったが、なんにせよ面接日が決まった。いや、むしろ決まってしまったとでもいうべきだろうか、いまの心情を吐露したら多分そっちのほうが正解だ。面接が行われる日時が具体的に決まったことで、さっきまでの電話での動揺とはまた異質の緊張感がじわじわと噴出してくる。そういや、アルバイトの面接なんて何年ぶりだろう、なんてことを考えてみれば、そりゃほんのりと鬱にもなるでしょうよ。
|
|