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秋葉原に着いた。鉄筋コンクリートで固められた駅構内、電気街口と表示のある改札から一歩外に出た瞬間だった、あたり一面が純粋な真新しい白の世界となり、視界をはじめあらゆる情報が遮断されると、地中から老若男女諸々がじわりじわりと現れながら、ひどく無機質な声でなにやらつぶやいている。耳をすます。
吐きそう、吐きそう、吐きそう、吐きそう、吐きそう、吐きそう、吐きそう、吐きたい、吐きたい、吐きたい、吐きたい、苦しい、吐けよ、吐きたい、吐きたい、吐きそう、吐けば、吐けよ、苦しい、助けて、吐きたい、吐きたい、なんで、吐きそう、吐きそう、吐きたい、ひとりだ、ひとりだ、死ねよ、笑えよ、顔をもたない化物が、ひとりだ、ひとりだ、ひとりだ、ひとりだ、ひとりだ、苦しいよ、ひとりだ、ひとりだ、ひとりだ、ひとりだ、ひとりだ、ひとりだ、ひとりだ、
生暖かい物体に頭を押さえつけられるような、鈍い重量のそれ、不思議と違和感なく消化されていく。やがて老若男女諸々が姿を消すと声も聞こえなくなり、ふと気づけば、いつもどおりの秋葉原の風景に戻っていた。所狭しと並ぶビル、激安、中古、新品、PC、HDD、テレビ、DVD、エアコン、カメラ、アダルトソフトといった言葉が混沌のなかを小躍りしている。幼い純粋性と汚らわしさの間で瞳がでかくてデッサンはでたらめでバカで下劣にも高笑いしているキャラクターが描かれたクズみたいなどでかい看板をバックに、空中を蝶が舞っている。殺してくれと舞っている。メイド服を着たお姉ちゃんがチラシを配っていて、そのまわりを数人の男が囲む。チラシを受け取る者、写真を撮る者、お姉ちゃんと会話している者、ここはまさに秋葉原なのだと思わせる風景がなんとも心地よい。穏やかな空気の下、どこからかワルツが流れてきて、童貞ごと優しく包むようだ。
秋葉原という街には、一方ならぬ思い入れがあった。当時の、もう二度と出会うことはないクラスメートに連れだって初めて訪れたときの電気街のスケール感、中央改札口から出てすぐ目の前にある建物の近代的な佇まい、建築美、手塚治虫の漫画を想起させる未来絵図が具現化されたかのようなその存在感に、わたしはただただ圧倒されていた。あのときクラスメートはメンスで重い日だったのに泥酔していて、メタリックなビルのなかをうなだれていて、ビルの柱やら壁やらに頭を埋めながら唸ったりしていて、けっこうあれな状態で、ちょっと酔いが醒めてきたからと電気街の方を徘徊していたところ、生まれて初めてナンパされて、「ナンパされたー、アキバでナンパされたー、呪いじゃー、漫画ブリッコ中森明夫の呪いじゃー」などと叫んでナンパしてきた男たちもろとも周囲を引かせ、わたしは笑っていた。クラスメートも笑っていた。多分、本気で。そう、わたしたちは本気だった。もう出会うことのない、戻れない、あのときの風景をいまは懐かしむことしかできない。懐かしむことしかできないのなら、いっそのこと忘れてしまったほうがいいんじゃないかと思う。
携帯電話のメモ帳に記録しておいたメイド喫茶の住所を確認し、コンビニエンスストアなどで売られている、B5サイズの地図を見ながらこの辺りかと目星をつけて歩きだす。表通りには、家電量販店、ディスカウントストア、PCショップ、ゲームショップ、玩具店、本屋、マンガ喫茶、飲食店、ゲームセンターなどが大小規模を問わずびっしりと並んでいて、沿道を行き交う人々は、渋谷、原宿、新宿、下北沢、吉祥寺、銀座、お台場、どことも似つかぬ異質さがあった。表通りをしばらく歩き、適当なところで左に折れた。通りの左右には、PC関連の店や飲食店があって、狭いなりに客入りは悪くないようで、どこもそれなりに繁盛している様子だ。地図を頻繁にひろげ、現在地を事細かに確認しながら道を進む。ぼろけた建物の前に停車してある白い軽トラック。薄べったい親爺が運転席で煙草をふかす。この暑さだ、車のエアコンで涼んでいるのだろう。しかし今日はやけに蒸す。暑さのせいで、いつのまにか髪が若干湿っている。目を閉じると陰気くさい親爺の顔がいやに鮮明に呼び起こされ、一銭にもならないこの残像はなんなんだと反省しつつ、わたしは考えていた。かつて、この道をわたしはクラスメートと一緒に歩いたことがあるんではないだろうか。クラスメートが小石に躓き、膝から血が出、痛いと呟き、わたしの顔を見ながらもう一度、痛いと呟き、だいじょうぶ? 血出てるけどとわたしが訊くと、ああ、平気平気、あたし、いま酔っぱらってるから。泥酔して頭バカんなっちゃってるから、この程度の血ぐらいなんてことないよとクラスメートは答え、すると四つん這いになって笑いながら小石に額を何度も打ちつけていて、これでもか、これでもか、くぬ、とか言っていて、そんなクラスメートの姿を酔っているからこれぐらい普通かといった感じでわたしは見ていて、少しぼんやりしていたのだが、いまにして思えば、そのなにげない風景が、かけがえのない記憶の断片だったかもしれないとも感じられるのだった。あのときの空気、気温、時間、会話、クラスメートの姿、なにもかもが懐かしいと。
通りを抜け、つきあたって右に行くと、先ほどまでと同じような景観で建物が並んでいて、地図で確認するかぎり、目当ての場所はここいらであるにちがいない。薬局、コンビニエンスストア、カレーチェーン店、トレーディングカードの販売店などから少し進むと、道の左手にコンクリート造りの小さな喫茶店らしき建物を見た。店の看板には、「墓碑銘」とあった。
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