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作品名:桜咲クトキ 作者:kei

最終回   桜咲クトキ(後編)

「大丈夫か」
熱は少し下がったようだが、まだ体調は万全とはいえないだろう。だがそれでも、この場所に来ることを、少女は強く希望したのだった。
 「うん。平気だよ」
 春の陽気に似た笑顔は、しかしまだ病みあがりの色を拭えない。
 (………)
 隣を歩いている左手を、そっと右手で握る。先日は求められても拒絶した行動。
 少女の顔が、いいの?と戸惑っているようだった。
 「さすがに今の体の具合で、この階段の傾斜は堪えるだろ」
 そんな理由を吐き出すと、満面の笑みを浮かべてお礼を言う少女。
 その行動に戸惑っているのは、他ならぬ俺自身だった。
長い石段を登りきると、そこには数日前とは全く容貌を異にした、春の華やかさなど欠片もない景色が待ちうけていた。
 昨日の豪雨のせいであろう。
どこから飛ばされてきたのか、小枝や落葉などが乱雑に撒き散らされていた。
一昨日までは、空を華麗に舞っていた桜の花びらが、今は土にまみれて見る影もない。
 今日の朝方まで雨は降り続いていたが、今ではすっかり晴れ渡っている。
春の日差しが街を優しく包み込んでいた。
 二人は街を見下ろすことができる、桜の木の傍らで腰を下ろした。
昨日の嵐のせいだろう。
満開だった桜は僅かな蕾を残して、葉桜へと姿を変えようとしている。
どれくらいの時間、そうしていたであろうか。ここには街の喧騒も、雑音も届かない。聞こえるのは、小鳥の囀りのみ。
そんな中、ずっと無言だった少女がぼそりと呟いた。
「やっぱり、ここに居た気がする」
俺は、街の向こう側に広がる雲を眺めながら、その言葉の意味するところを思い描く。
「そうか」
木漏れ日の暖かさを背中に感じながら、しばらく風をうけていた。
ふいに垣間見た少女の横顔は、この情景に相応しくないほど冷たく沈んでいた。
こいつには、こんな顔をして欲しくない。
理屈ではなくそう思った。
いつもの腹立たしいぐらいの、屈託ない笑顔をしていた少女をずっと見ていたいと。
体を支えていた右手を、軽く少女の頭に乗せる。
少し驚いた表情を見せ、こちらを見上げた。
「…笑っていろ」
こんな時、どんな台詞を言えばいいのかわからず、考えて口から出た言葉は、要領を得ないものだった。
だが相手には伝わったのだろうか、少女はいつもの純粋な笑顔で答えてくれた。
 「そろそろ帰るか」
 これ以上ここに居ても、新たな発見はないであろう。
立ち上がり、服に付いた土を手で払う。それにならって少女も腰を上げた。
 歩き出した俺の裾を、少女が摘まむように掴んできた。普段の俺なら振り払ったであろうが、何故か今日は好きにさせてやる。
 背後では、淡紅色の花びらを申し訳程度に残した桜が、二人を見送っていた。
 
アパートに着いた途端、少女は布団に横になった。
まだ完全に治りきってない体で出歩いたのだ、相当疲れがたまったのであろう。また熱がぶり返さないか心配だ。
 「少し休んでいろ」
 時計の短針はまだ三の数字あたりをうろついている。夕飯の時刻まで睡眠をとれば、疲れも取れるだろう。
 「コーイチ、これ」
 布団の中から、手だけを出して俺の名を呼ぶ。
一瞬背筋が凍りつくのを感じた。
 その手には、薄紅の花びらが一枚握られていた。
 「服についていたみたい」
 その言葉を聞いて、安堵する自分がいる。
しかしなぜそのような感覚に陥ったのか、はっきりとした答えは出なかった。
少女は夕飯も少ししか摂ることができず、またすぐに横になった。
 洗い物を終えた俺は、布団の傍らに腰を据える。
 「腹が減ってきたら言えよ」
 「うん、ありがと」
 することもないので、二人で他愛のない話をする。
夕飯後の談笑は、ここ数日の日課になりつつあった。
 両親が亡くなってから五年間、ずっと一人で暮らしてきた俺にとって、それはどこか懐かしい匂いを感じさせた。
 「最近、よく笑うようになったね」
 突然、少女がそんなことを口にする。
 戸惑って何も言葉を返すことができなかった俺に、彼女はただ笑いかけていた。
確かにそれは、言われずとも薄々自覚していたことだった。
ほんの一週間前に、俺はこの世に存在していることの意味がわからず、一人あの丘で自らの命を絶つことを決断した。
だがしかし、この少女と出会い、そして時間を共有していくうちに、顔を綻ばせる機会が多くなっている自分に気付く。
それはこの世界に居続けることの理由になりそうで、素直に受け入れることができなかった。
「生きるってことが楽しいことだって、わかってきた?」
そう訪ねる少女。
「生きていれば、楽しいことがあるなんて事はわかっている。だが、俺が言いたいのは、どんなに楽しくても、幸せでも死んでしまえばおしまいだってことだ」
そう。
生きる意味がわからないのではない。
俺は、いつかは死んでしまうのに、なぜ生きる必要があるのかが、理解できなかっただけだった。
そのことに、今気が付いた。
だが、少女は笑ってこう言うのだった。
「そんなに難しい話じゃないんじゃない?いつかはみんな死んじゃうから、だから楽しい時や、幸せな時間を大切にするんだよ」
何も言わず、目の前の漆黒の瞳だけを見つめる。
「もしも、人がずっと生きていられるなら、楽しいことも幸せなことも、そんなに大事に思えないはずだよ」
死ぬことを恐れて、生きる喜びを無意味に考えてきた俺と、死ぬことを受け入れて、その中で生きる喜びを見つけようとした少女。
逃げてきた弱い俺と、正面から見据えていた強い少女。
なぜだが、自分がひどくちっぽけな存在に見えた。
目の前にいる少女は、俺を狂わせていたわけではなかった。狂ってしまった俺の考えを、元に戻してくれたのだ。
「もう寝ようか」
明るい声で彼女がそう提案する。
部屋を照らしていた灯りを消し、少女は布団に潜り込む。
俺は一人トイレに向かった。扉を閉め、外界から切り離された箱に閉じこもる。
瞬間、とめどなく涙が溢れてきた。

『いつかはみんな死んじゃうから…』

嗚咽が外に漏れないよう、掛けられていたタオルを噛み締める。

『だから楽しい時や、幸せな時間を大切にするんだよ』

頬を濡らす水分の量が増した気がした。
けれど、それはいつかのような悲しみの涙ではなく、どこか暖かい香りを感じさせる。
 噛み締められたタオルは、今にも引き裂かれそうだった。

腫れぼったい眼を水で洗い流し、普段と同じくフローリングを寝床とする。
今日が昨日に還っていくのを感じながら、微睡の中を漂っていた。
「もう、逃げないよ」
感謝の意を込めてそう少女に告げたのは、夢に堕ちていく直前のことだった。

  ◇

その日を境に、少女の容態は一進一退を続けた。
なかなか回復の兆しが見られない。
一日の半分を寝て過ごし、部屋から出ることが少なくなった。
気分が良い時は外の空気を吸いに二人で出かけるが、それでも以前のような長時間の外出は、疲労の原因になってしまうようだ。
だが、いつもの笑顔が彼女の顔から消えてないのが、せめてもの救いだった。
「いい天気だな」
ほんの少し前までの俺からは想像もできない穏やかな台詞。
「そうだね」
少女は俺の右腕の裾を握っている。
一人で歩くのはまだ辛いのだろうか、真意は定かではないが勝手にさせておく。
俺自身、まんざらでもない。
春の日差しは暖かく、流れる風は変わらずに穏やかだった。
辿り着いた先は、商店街の入り口。
「また此処か、おまえも飽きないな」
「え、でも楽しいよ。色んな店に入りながら『あ、可愛いな〜』とか『欲しいなぁ』とか考えるの。夢が膨らむ気がしない?」
実際彼女の瞳は光が差し込んだようにきらきらと輝いていた。
そんな表情に俺もただ笑うしかない。
ありふれた日常。
他愛のない会話。
それらがとてもかけがえのないものだと思えたのは、この少女のおかげだろう。
いつまでもこの時間が続くとしたら、それはどれだけ幸せなことだろう。
それだけでも俺には生きる意味となりえるのではないかと素直に感じた。
 不意に、視界に飛び込んできたものがあった。
 道路の脇。石畳の隙間からひっそりとその命を主張していたもの。
 それはいつだったか、少女と共に眺めた一輪の花だった。
 「…萎れちゃったな」
 いつから俺はこんな細かな所まで目が行くようになったのか。
 この前の豪雨のせいか、それとも寿命だったのか。
 「うん」
 裾を握っていた手に、少しだけ力がこもる。
 時間が留まることなく流れるものだということを、否応なく知らされた。

『出会いというのは別れも共にあるのだから』

突然脳裏に浮かび上がってくる言の葉。
ふと気が付く。
それは何時だっただろうか。
俺が少女に向けて放った台詞と同じものだった。
 「でも、満足したって言っているよ」
 一瞬、何のことを言っているのかわからなかった。
 しかしそれが枯れてしまった花の心情を代弁していることに気付く。
 さらっと、まるで当たり前のように呟く少女。
 冗談のようにも思えない。
 「おまえはあの花の気持ちがわかるのか」
 そう言いかけて、何故か俺は思い直す。
喉から出かけた言葉は、大気に触れることなく消えていった。
 あぁ、おそらくは。
この少女には植物の心が理解できるのだろう、となぜかそんな気がするのであった。
 しばらく商店街を徘徊していたが、彼女の体に疲れが見え始めたのでアパートに帰ることにする。
 太陽はまだ空高くで世界を照らし続けていた。
 
「ねぇ、コーイチ」
布団に横になりながら、俺の名を呼ぶ。
 「どうした」
 すると少女は、右手を布団の中から出して、俺の服の裾を掴む。
どうやら、この体勢がお気に入りのようだ。
 「私、いったい誰なんだろうね」
 出会ってからもう、二週間近くが経とうとしているであろうか。
少女の記憶は一向に戻る気配を見せない。
 俺は言葉に詰まり、窓の向こうに広がっている空を視界に写す。
白い雲と空の青さのコントラストが、春の暖かさを証明してくれているようだった。
けれども、見たかったのはそれではない。
おそらく俺は、あの丘を遠くに見据えていたのだろう。
丘にそびえ立っているあの…。
「焦ることはない。記憶が戻るまでは、ずっとここに居ていいんだからな」
思考を遮ろうとして、何も考えずに口から出た言葉は、自分でも意外なほど穏やかな色合いをみせていた。
「いいの?」
期待と疑問が入り混じったような口調で、そう訪ねてくる。
当初は、そんな考えが俺の頭をよぎることすらなかったであろう。
しかし。
もしこの少女と巡り逢っていなければ、俺はもうこの場で息をすることもなかったはずだ。
五年間悩み続けていた問いに答えを与えてくれたのは、他ならぬ彼女だった。
俺に生きる意味を教えてくれた人。
そんな少女を、追い出すことなどできようか。
いや。
なによりも、俺が一緒に居たいと思うようになってしまっていたのだから。
「記憶が戻らないのだから、仕方がないだろ」
視線が宙を泳いでいるのがわかる。
相手に自分の気持ちを悟られたくない。
「おまえが嫌じゃないなら、俺は構わない」
そんな考えが邪魔をして、つい突き放した言動になってしまう。
「だいじょ〜ぶ。だってコーイチ、優しいもん」
何の臆面もなく、流れるように部屋に響いた言葉。
言われたこっちが恥ずかしくなる。
「私の記憶を探すために、いろいろ頑張ってくれた」
真っ直ぐに俺を見つめる眼差し。
そんな純粋な考えを否定したくはなかった。
だが、
「馬鹿。それはおまえがいたら、自殺できなかったから…」
俺は正直に告白する。
「だったら私のことほうっておけば良かったじゃない。それでもコーイチはそうしなかった」
「当たり前だ、そんなことできるわけねぇだろ」
間髪入れずに反論する。
「ほら、優しい。」
俺が反論するよりも素早く発せられた言葉。
布団の上では純真な笑顔が覗かしている。
「だから、私はコーイチと一緒にいたいよ」
そうだった。
俺はいつもこの微笑に救われてきたのだった。
「じゃあ、勝手にしろ」
まるで拗ねたように窓の向こうを見上げる。
顔が火照っているのは、この日差しのせいばかりじゃないだろう。
裾を掴んでいた手が俺の左手を握っていた。
「えへへ、ありがとう」
すべてを見透かされたような気がして、居心地は良いとはいえなかった。

灯りを消す。
カーテンの隙間から差し込む月明かりだけが唯一の光源だった。
フローリングの冷たさを背に感じながら、暗闇の内奥をじっと見つめる。
 
『彼女の存在が君の中で大きければ大きいほど、君の受ける哀しみはそれに比例するだろう』

北条という男性の声が、耳の奥で繰り返し反芻している。
それは、一体何を意味するのか。
避けられない別れ。
そんな単語が脳裏に浮かぶ。
抗うことは不可能なのだろうか。決められた運命を変えることは無理なのだろうか。
瞳を閉じると広がっていくあの丘の情景。

少女と初めて出会った日。
ただ一本だけそびえ立っている桜は、粉雪のような花びらを宙に舞わせていた。

少女と出かけたあの日。
誰に知られるでもなく満開に花開いた桜は、ひっそりと眼下に広がる街並を見渡していた。

病みあがりの少女と再度訪れた日。
豪雨が薄紅色の花びらを奪い去り、桜は次の季節への準備を始めていた。

果たしてそれが何を物語るというのか。
其処から一体どんなドラマが生まれるというのだ。
そんな非現実的な話は、けれど自信をもって否定することはできなかった。
ふと目の前に気配を感じ、瞼をそっと開ける。少女の手の平が俺の顔の前で左右していた。
「あはは。起きている?」
どことなく力なく笑う。
まだ体は本調子ではないようだ。
「なんだよ」
すぐ側まで来ていた少女の頭を軽く叩いてやる。闇で表情は伺えないが、微笑んでいるのは雰囲気でわかった。
「そこ、背中痛くないの?」
おそらくはフローリングのことを指しているのだろう。
二週間近く経ってから訊かれてもな。思わず笑みがこぼれる。
「こっち、来てもいいよ」
一瞬にして心音が早くなるのを感じる。
先ほどまでこの部屋を支配していた時計の針の音は、自身の脈打つ鼓動で聞こえなくなった。
「…いいのか」
そう確認した俺に、
「コーイチが嫌じゃないなら、私は構わない」
誰かと似たような口調でそう応え、楽しそうに笑い出す。もう一度頭を叩いてやりたかった。
ゆっくりと体を移動させていく。
布団の感触を味わったのは久しぶりだった。
「なんかね、怖いの」
そんな呟きが耳に入る。
「私は何かしなければならなかった気がするのに、それが思い出せない」
それは、初めて語ってくれた少女の本音だった。
今まで、たとえどんな時でも「大丈夫」と笑って過ごしてきた彼女。
一体それは、どれほどの強さの上に成り立っていたものなのだろう。
こんなにもか細い体で、自身が何者なのかもわからない不安と戦いながら。
茶色の長い髪に触れる。
小さな頭は俺の掌に納まるかのようにすら思えた。
「心配するな、無理に思い出す必要がないって言ったのは誰だった?」
月明かりに反射され、神秘的に光る彼女の瞳。
その睫を濡らす涙を片方の手で拭ってやる。
「私は、一体誰なんだろうね」
泣き笑いのような、切ない色を浮かべる。
「おまえは…おまえだよ」
少女の名前というものを知らないことを実感させられる。
けれども今目の前に確かに存在する小柄な体を、強く抱き寄せて俺は穏やかに諭した。
「…うん」
今日という日がやがて終わりを迎えようとしていた。
 
『絶対に後悔だけはしてはいけないよ』

それは誰の言葉だったか。
眠りに落ちていく中で、俺はただ一つのことを思った。

  ◇

「何処に行くの?」
今日も同じように俺の服の裾を掴みながら、見上げるように疑問を口にする。
少女の体調は一向に変化を見せない。
いや、むしろこのまま回復することはないだろう。
もう二度と、やかましいぐらいの雰囲気を携えた少女はお目にかかれない。
何故か、そんな気がした。それはたぶん、避けられない真実。
けれど、俺はその笑顔だけで充分だった。
昼下がりの街並を横目に、ある場所を目指す。
「まぁ、お楽しみだな」
俺がこの少女の為にできること。
朝靄の中を漂うように案を求めたが、それは幾つもあるものではなかった。
出会ってから今日という日までの約二週間、少女の言動を振り返ってみてもこれぐらいしか思い浮かばない。
「え、な〜に?気になるよ」
そんな不満に俺は笑顔で誤魔化し、着いた先は数日前に立ち寄った学校だった。

「ここに何かあるの…?」
不安と期待が入り混じったような声をあげる。
「まぁな」
そう言って話を終わらせ、俺は目的の教室に向かう。
(確か、電話で聞いた話だと…)
其処は階段を二回上がった先の、一番端に面している教室だった。
廊下側の窓からは傾きかけた日差しが眩しい。
その窓を背に、俺達は一つの教室の前に立つ。そして廊下と教室を隔てるドアを、ゆっくりと開けていく。
中には一人の男性教員が、電気も点けずに教卓に佇んでいた。
北条だ。
「……」
ぽかん、と半開きの口のまま状況が飲み込めない少女。
「ほら、入れ」
彼女の背中を軽く押し、俺も続いて中に足を踏み入れる。
俺は軽く北条に会釈する。
しかし当の北条の視界には俺は映っていないのだろうか。最初に教室に入ってきた少女の顔を、食い入るように見つめていた。
そこには一体どのような思惑が彼の中に存在するのか。
彼の目に映し出されているのは、現在の少女か。それとも過去の思い出の中の彼女なのか。
「座りなさい」
小さな、しかしよく通る声で俺達二人を着席させる。
やはりアパートから学校までの長い距離を歩かせるのは酷だっただろうか。
隣の席に座った少女の顔には、うっすらと脂汗が浮かんでいる。
「今日はおまえに、憧れていた学校の授業を受けさせてやる」
果たして彼女がそれをどれだけ望んでいたかはわからない。
だがしかし、俺が少女にしてあげられることは、所詮このぐらいしかなかった。
「え…?」
まだ現状が飲み込めないらしい。
「生憎、クラスの生徒まで集めることはできなかったけど。それは勘弁してくれ」
キョロキョロと辺りを見回す少女に苦笑いを浮かべる。
「嘘、そんな。本当に。なんで」
もはや何を言いたいのか理解できないが、混乱していることだけは伺える。
「ほら君たち。授業中の私語は禁じられている。準備ができたら教科書を開きなさい」
使い古された教科書が二冊。それぞれ机の上に置かれていた。
おそらく生徒の忘れ物か、教師が使っているものか。
戸惑いながらもそれに手を伸ばす少女。
俺も同じように教科書を開く。
「今日は38ページの文章を読んでいく」
まるで普段と同じように北条は授業を進めていく。
朗読する部分を少女に読ませ、適宜解説をしては黒板に何かを書き込んでいく。
突然の電話での無茶なお願いを、彼は受け入れてくれた。
無理を頼んでいることは百も承知だった。
外部の人間に教室を使わせることはおろか、この少女と会うことは彼にとって昔を懐古させることになる。
無論詳しく聞いたわけではない。だが北条の今までの口ぶりから、そこには悲しみの色に染められた思い出があることは充分理解できた。
それでも。
それでも、彼は承諾してくれたのだ。
感情の起伏は見られなかった為、目の前の教師が何を思い、何を考えているのかは正直わからなかった。
けれども、俺はそんな後ろ姿にただただ感謝した。
当初緊張を隠せなかった少女も、時間が流れるにつれてその表情は弛緩し始め、最後には終始穏やかな雰囲気を漂わせていた。

「ありがとうございました」
おそらく今まで生きてきた中で、一番深くお辞儀というものをしたであろう。
いや、それでもこの感謝の意を全て表すことはできなかったと思う。
教室に鍵をかけ、それをポケットに入れて彼は言う。
「こんなことで運命は変わることはない。けれど、これで君と彼女が納得できるのなら私は協力するよ」
その表情は相変わらず読み取れない。
眼鏡の奥の眼差しは、怒っているようにも泣いているようにも思えた。
あるいは、その両方か。
その眼差しが廊下を一人散策する少女に向けられる。
普段と同じ、白のワンピースにジーンズのジャケットを羽織っている。
隣の教室を覗いたり、窓からの景色を眺めたり。
「憧れていたみたいですよ、学校というものに」
俺らの会話はすでに聞こえてはいないだろう。
授業が終わってから少女は久しぶりにはしゃいでいた。
「とても、似ているよ」
思い出に浸るような、どこか夢心地な声。
「……」
どこか複雑な心境に、返す言葉も見当たらない。
「だがわかっているよ。彼女は私の知っている存在ではない。今の彼女は、君が呼び出した存在だからね」
さらに当惑するような男の発言。
その謎めいた言葉は、しかし真実であろうことは疑いようがない。
窓から差し込む光は、いつしか夕暮れのそれへと移行しつつあった。
「もうそろそろだね」
体の中から搾り出すように言葉を口に出す北条。
それは、予知でも予感でもない。まぎれもない事実。
「そう、ですか」
それを知っている俺は、認めざるをえないのだ。
「覚悟は、できているのかい?」
視線が俺に向けられる。
覚悟。
少女との、いずれ訪れるのであろう別れ。
それを受け入れる為の心の準備が果たして俺はできているのであろうか。
けれど。
「大丈夫です」
しっかりと、相手の眼差しから目を逸らすことなく断言する。
ならいい、と男性はリノリウムの廊下に足音を響かせて渡っていく。
それに近づいて行く少女。
「ありがとう」
やや緊張気味だが、それでもいつもの笑顔で礼を言う。
北条の足が止まる。
目の前にいる少女は、中身は違うとはいえ、姿形は彼の思い出の中の存在と全く同じだ。
「楽しかったかい?」
その眼差しは誰を見つめているのか。
「うん」
傾きかけた日差しが、満面の笑みを照らす。
一瞬、息を呑んだような音が聞こえた気がした。
「機会があったら、また国沢君と一緒に来なさい」
そう言い残し、北条は再び歩き出す。
くたびれたシャツや整えられていない髪形とは対称に、その後姿は凛としていた。
大人の背中というものを教えてくれた彼に、俺は最後のお辞儀をした。
その姿が廊下の端に消えるまで。
廊下に響いていた足音は、いつのまにか辺りの壁に吸い込まれていった。

「ありがとうね」
帰り際、少女は俺のほうを向き直りそう感謝の言葉を述べた。
夕日が作り出した赤い世界を二人で歩く。
「すごく嬉しかったよ」
先ほどの興奮が冷めないのか、どこかまだ浮かれ気分が抜けないようだ。
「そっか、なら良かった」
これで、少女はもう思い残すことはないのだろうか。
「他に、何かしたいことはないか?行きたいところでも、なんでもいいぞ」
全部俺が叶えてやるから。
「う〜ん。それはたくさんあるけど」
首を傾げて悩む少女。その頬はまだ軽く蒸気している。
それは興奮のためか、それとも熱のせいなのか。
しかし…。
「何も今すぐじゃなくてもいいよ。時間はたっぷりあるからさ」
そう言って、あはは、と屈託の無い笑いを浮かべる。
この物語の一番の悲劇。
それは少女が自身に降りかかる結末を知らないことだった。
街を覆っている黄昏が、何故か目にしみた。
春は、もうすぐ終わりを迎えようとしている。

  ◇

「私も行きたい」
翌朝、商店街に買い出しに行こうとしていた俺を、そんな少女の一言が遮る。
「駄目だ。寝ていろ」
付いてこようとする彼女。だが体調のことを考えると、それはできれば止めさせたほう良いだろう。
「嫌だ、嫌だ!行きたい、行きたい!」
まるで子供のように駄々をこねる。
そんな我が儘に耐え切れず、テレビの電源を点ける。
「ほら、これでも見ていろ」
そう諭そうとするが、
「え〜、つまんない」
画面に映し出されているのは天気図のようだった。午後から一時的に雷を伴う雨が降るらしい。
確かにこれは退屈だ。
苦笑しつつ、チャンネルを少女に軽く投げ渡す。
「面白い番組でも探していろ」
そう言って俺は一人アパートの扉を開ける。
見上げた空は一面が雲で覆われていた。

 商店街に到着し、買い物を終えスーパーを出たころには、時刻は正午を過ぎ、雨がまばらに歩道を濡らしていた。
 (本降りになる前に帰るか)
 そう結論に達した時、視界にあるものが飛び込んできた。
 「――…」
 俺はゆっくりとした動作で、それの前に立つ。
 少女の望みは、たとえどんな些細なことでも叶えてあげたかった。
金なら、五年間無意味にバイトを続けただけあり、これくらいの出費は痛くもない。
 
店を出た頃には、雨は様相を変えつつあった。
ほんの数分だったが、時間を割いてしまったことを後悔した。だが、肩脇に抱えた包みの感触が、後悔の念を拭い去ってくれるようだ。
コンビニでビニール傘を購入し、小走りにアパートの帰路を急ぐ。
 自室に辿り着いた頃には、外は激しい雷雨だった。
部屋に入ると、強い風が窓ガラスを揺らしているのが見てとれた。
 濡れないように持って帰ってきた包みから、中身を取り出す。
そして布団に近づき、かけてあった毛布を剥がす。

 『うわっ、ビックリした。え、あ、何それ』
 突然の出来事に困惑する少女。
 『ほら、おまえがこの前可愛いって言っていた洋服だよ』
 少しだけ誇らしげにそれを手渡す。
 『うそ、本当に?』
 『信じられないなら、開けて確かめてみたらいいじゃないか』
 俺はいつも少女の前では、ひねくれた物言いになってしまう。
 『あ、本当だ。え、ありがとう。嬉しいよ』
手渡された少女は、嬉しさの中に驚きを含んだ笑顔で喜びを表す。

そんな他愛のないやりとりを期待していた。
 しかし、実際はそんな笑顔はどこにも存在しなかったのだ。
 剥がされた毛布の下には、温もりを忘れた枕だけが置かれている。
遠くで雷が地響きのような音を鳴らしていた。
 わかっていた。
本当は今朝のニュースで雨が降るという情報を手に入れた時に、わかっていたのだ。
 けれども、俺の脳は理解することを拒絶していた。
 足元に落ちた包みからは、ピンクと白のチェック柄が顔を覗かしている。
眩暈がするような、息苦しい感覚。
時計の針の規則的な音も、空から落ちてくる雨粒のやかましさも、全てがこの部屋の中では無意味だ。
 空っぽになった布団から視線をはずすことがないまま、果たしてどれくらいの時間が経過したであろう。
一分、三十分、一時間以上。それともほんの数秒なのか。
それすらも考えることができない。
突然、薄暗かった部屋が一瞬だけ閃光に満たされる。
ふと、我に返る。
(まだだ…)
遠くで雷が落ちる音が聞こえた気がする。
俺は鍵をかけるのも忘れて、部屋を飛び出した。

地面を潤すというのには生易しすぎる。
それはもはや暴力的に辺りの風景を叩き壊しているかのようにすら思える。
全身に打たれる大粒の雨は、しかし自分の愚かさを戒めてくれるようで嫌ではなかった。
走る。
ただひたすらに走る。
先ほど立ち寄った商店街。
いつも少女と二人、肩を並べて歩いていた。

『花…』
道の端に咲いた小さな一輪の花。
そんなちっぽけな存在にも気付くことのできる、繊細な少女だった。

『ねぇねぇ、どうやって私たちはあの丘で出会ったの』
訊かれたくなかった真実。
そんな純粋さゆえの残酷さが、二週間前の俺には許せなかった。

視界を過ぎ行く人々が奇怪な目でこちらを見てくるが、それすらも今は気にならない。
耳に入ってくるのは自分の激しい呼吸音だけ。
高校を中退してからというもの、特に全力で疾走する機会などなかった。その為か数百メートルの距離を過ぎたあたりで体は悲鳴をあげている。
荒れ狂う嵐の中、着ていたズボンは水分を多く含む。
足に纏わりついた衣服は、ひどく走りづらかった。
けれども、そんなものには構っていられない。
並木道に出る。

『コーイチは学校行ったことあるの?』
学校というものに興味を持った少女。
俺は果たして、彼女の願いを叶えてあげられたのだろうか。

『馬鹿じゃないよ!』
拗ねたような表情。だがそれも束の間、普段の笑顔が覗かせる。
その微笑は、いつまでも側にあるものだと思っていた。

さっきよりも雨の勢いは弱まったのだろうか、緑の葉を打つ水の音は心なしか小さくなったようだ。
頬を伝うのは天から降り注ぐ雨露なのか、それとも体の内から吐き出された汗なのか。もしくは、瞳から零れる涙なのだろうか。
その答えも判別できぬまま。
見えてきたのは、長く伸びる階段だった。

『引っ張って』
登るのに疲れた少女が差し伸ばした華奢な手。
その指の一本一本までが、儚さの上に成り立っていたものだと実感する。

『うん。平気だよ』
病みあがりの体で、本当に辛いときは誰の助けも求めない少女。
そんな彼女の強さに、俺はあの晩救われたのだった。

見上げる空は、先ほどのどんよりとした雲は姿を薄め、その向こう側に春の青空がうっすらと見ることができた。
辿り着いたのは、初めて少女と出会った丘だった。

あれだけ降り注いでいた雨も、今では姿を潜めている。傘を差すことすら気付かなかったため、服は水を含んで重くなっている。
 こないだ来た時よりも、景色は荒れ果てていた。
一週間前には、綺麗な薄紅色を携えていた桜の木に向かって、ゆっくり踏み出す。
水分を吸い取りきれなかった土が、不快な感触とともに圧し潰されていく。
 その先には、こちらに背を向け、街を見下ろす少女の姿があった。
 しめった空気が、風で運ばれてくる。

「思い出した」
 
 
全ての真相を聞いた俺は、しかし不思議にも驚きの色はなかった。
それはやはり心のどこかで、この結末を予測していたからであろうか。
少女の正体。
それは。

この丘で、ひっそりと街を見下ろしていた桜だった。


「だからね、もう行かなきゃ」
 笑顔のまま、事も無げに言い放つ少女。
 喉の奥が、何かに塞き止められたようで声が出ない。
無理に出そうとすれば、先に涙が零れ出てしまいそうだった。
 「…私、願いを叶えてあげられたかな」
 俺の瞳の奥をじっと見つめながら、そう呟く。その表情はいつになく真剣だった。
 眼に浮かぶ涙を見られまいと、雲に覆われた空を見上げる。
 あの日。
 この世から姿を消すために丘に立ち寄った俺は、何気なく桜に願ってしまった。

もし…本当におまえにそんな力があるなら、俺に生きることの意味を教えてくれよ。 

 本当に何の考えも思惑もなく呟いた想い。
 しかしそれはこの樹に届いてしまったのだ。
 俺が、俺さえそんな願いをしなければ、少女は苦しむことはなかったのではないか。
 そんな罪悪感に苛まれる。
 けれども、少女は俺の身勝手な願いを叶えてくれた。
 
 『もしも、人がずっと生きていられるなら、楽しいことも幸せなことも、そんなに大事に思えないはずだよ』

 それはとても彼女らしい、単純な解答。
 だが俺にとってそれは、凍てついた心を溶かすには充分すぎるものだった。
 人は死ぬ。
それは避けられない事実。
 しかし「死」という結果までの「生」という過程は、決して無意味に考えられるものではないことを目の前の少女は教えてくれた。
「大丈夫だ」
やっとの思いで口に出す。
「おまえは、ちゃんと俺の願いを叶えてくれた」
 かすれた声は、まるで風に乗ってあの空の彼方に持っていかれそうだった。
ありがとう。
そう伝えなければならないのに、感謝の言葉は出てこない。
 「そっか。良かった」
 心底ほっとしたような笑みを浮かべ、一歩後ろに下がる少女。
そして横にあった木を仰ぎ見る。
自分の分身である、桜を。
「楽しかった」
はっきりとした彼女の声。
それはいつまでも聴いていられるものだと思っていた。
 「たった二週間だけ。桜の咲いていた短い間だけだったけど、すごく楽しかった」
 いつもの笑顔で、本当に普段と変わることのない微笑みのまま。
 俺も楽しかったよ。
しかしその台詞も喉の奥に引っかかり、声にならない。

その笑った表情が。
 どこまでも純粋で透き通った心が。
 茶色に染まる長い髪が。
 細く華奢な指先が。
 
彼女の全てが、俺は好きだった。
 
ずっと側にあるものだと信じて疑わなかった。
 だけど、時間は常に流れるもので。
 出会いは何時だろうと別れと共にあるものだから。
 
 素直に好きだと思えた時には、すでに別れの時間だった。
 
 「いろいろ迷惑かけてごめんね」
 こいつは何を言っているのだろう。
 (おまえは願いを叶えてくれる為に、俺の前に現れてくれたじゃないか)
 心の中でそう叫ぶ。
しかしそれはどうしても音となって喉から外に出てくれない。
 迷惑をかけたのは俺なのに。
 謝らなければいけないのは、この俺なのに…。
 もはや彼女の顔を見ることは不可能だった。
 自分の服が濡れていることを思い出す。
 遠くに見える街並が、まるで別世界のように感じられた。
 
「じゃあ、そろそろお別れだね」
一番聞きたくなかった響き。
恐れていた結末。
しかし。
 役目を果たした少女は、元の姿に戻らなければならない。
街を覆っていた雨雲は、流れる風に押されてすでに消えていた。
今では青空が顔を覗かしている。
いっそのこと、ずっと雨に打たれていたかった。

 『覚悟は、できているのかい?』

 その問いに、大丈夫だと言い切っていたあの日。
 それは今思えばとても浅はかな言動だった。
 結局俺は、何一つ覚悟できていなかった。

「…もう、会えないのか」
 情けなくなるぐらい、震えた声。
望まれた答えは、決して返って来ないとわかっているのに。
 一際強い風が、雨に濡れた前髪を揺らす。
 少女は一歩近づき、俺のしめった服の裾を掴む。
そして、いつもの口調で変わらずに言うのだった。
 
「大丈夫、また会えるよ」
 
 目の前にある少女の笑顔。
しかしそれは、どこか困惑の色を携えていた。
 それを見て、初めて自分が声を出して泣いていることに気が付く。


 ひとひらの桜が濡れた頬を撫で、そしてまたどこかに消えていった。


   ◇

窓から差し込む日差しで目が覚める。
柔らかい布団の感触に包まれて、束の間の微睡を楽しむ。
部屋の壁にかかっている時計の短針は、すでに八の数字を指し示している。
「ん…」
上半身を起こし、大きく伸びをする。
寝ぼけ眼を冷たい水で洗い流し、身支度を整える。
いつものように開いた冷蔵庫の中には当分の食料が溜まっていた。
そこから適当に見繕い朝食を摂ることにする。
部屋には点けられたテレビの音だけが聞こえている。
朝の天気予報。
今日もどうやら暑くなるらしい。

あの夢のような二週間から、暦は二度姿を変えた。
季節は夏の始まりを予感させる六月の半ば。
戸締りをし、アパートの階段を少し早足で下る。
街を行き来する人々の服装は、次第に身軽になっていた。
 春に感じる柔らかな暖かさは姿をひそめ、太陽による直接的な暑さが辺りを支配していた。
新緑に反射された日光が、眩しい。
ものの五分で目的の場所に着く。先月から始めたコンビニのバイト。
五年間貯めた貯蓄も底を尽き、新たに生活費を稼がなければならない。
レジの中から店の扉を眺めると、何故か俺は感慨深くなる時がある。
まるであの少女と一人の馬鹿な男が、その扉を開けて今にも来店してくるかのように思えるのだ。

帰り際、商店街に寄り道することにした。
流れる夕焼けは、敷き詰められた石畳に細長い一つの影を作り出す。
かつては二人の影が闊歩していたことを思い出す。

『色んな店に入りながら「あ、可愛いな〜」とか「欲しいなぁ」とか考えるの。夢が膨らむ気がしない?』

そんな言葉が頭の中を巡る。
だがしかし、何度一人で商店街に立ち寄ったところで理解はできなかった。
ふと、ある店の前で足が止まる。
二ヶ月前とは陳列された商品が一新されていた。
(まぁ、当たり前か…)
季節はすでに初夏の色合いを見せているのだから。
少女が気に入っていたあの服は、もうこの店で見ることはない。

 アパートに帰り着いた頃にはすでに六時を回っていた。
 コンビニで貰ってきた賞味期限の切れそうな弁当をたいらげる。
 今日という日がまた終わりに近づいていくのを、俺は窓の向こうに広がる月を見て感じ取っていた。

時々、不思議に思う。
 なぜ自分はまだ此処に存在しているのか。
初夏が街を包み込んでいる情景を、俺は観ることなどなかったはずなのに。
 
  ◇

翌日、ほとんど鳴ることのない携帯電話の着信音で目が覚める。
あれからもう何度目になるのか。
夢から現実に戻ってきた時の絶望感。
部屋を見渡しても、自分以外に存在するものがないという寂寥たる眺め。
もう慣れたと思っていたが、やはりまだまだ抜け出せないようだ。
ディスプレイには「北条」という名が映し出されていた。
少女との出会いをきっかけに出会った男性。その奇妙な縁は今も続いていた。
たまの休日には、二人で喫茶店などに落ち合うこともある。
知り合いというには深過ぎるぐらいに互いの様々なことを語ったし、友人というにはあまりにも年が離れすぎていた。
二人の関係は、一体何という言葉に置き換えられるのであろうか。
しばらく考えてみたが答えは出ない。
おそらく。
同じ少女に思いを募らせ、そして同じくらい辛い別れを経験した仲というのが妥当だろう。
そんな仲である北条からの電話は、しかしどこか要領を得ない内容だった。

電話を切ってからすぐに、俺は身支度を整える。
ものの五分で全てを終わらせ、狭い玄関を後にする。

『今からすぐに丘に来てくれ』

北条はそう一言呟くと、自分から電話を切ってしまった。
その言葉には、何か言い表せないような事情が隠されているように思えた。
(一体、なんだっていうんだ。)
心の中でそう呟いた疑問に、答える者はいない。
ただ代わりに、夏を彷彿させる日差しが強く視界を遮っていた。
そこには春の穏やかさはすでに消え去っている。
再度、北条の台詞を思い出す。
丘。
二人の会話の中で、丘といえば該当する場所は他に想像しようもなかった。
だが、俺達はあえてその空間に立ち入ることを拒んでいた気がする。
俺自身もあそこに足を踏み入れるには、まだ時間がたりなかった。
それなのに、今更あの丘に何の用があるというのだろうか。
目的の場所に向かう足取りが重くなっているのは、決して気のせいではないであろう。

最近は全く訪れることのなかった並木道。
その容貌はやはり二ヶ月前とは異なるものだった。
見上げた空にはまばらな雲が点在し、日光に反射された木々の若葉は眩しい緑を彩っている。
その人気のない遊歩道のさらに先。
人が利用することがあるのだろうか、と思えるほど目立たない階段が姿を現す。
そのふもとに、北条はいた。
「突然どうしたんですか」
挨拶もそこそこに、開口一番当然の疑問を口にする。
無論そこには不満も含まれていた。
できることなら立ち寄りたくはなかった場所。
それが今この目の前の石段を登った先に存在する。
「いや、実は国沢君に見てもらいたいものがあって」
少しだけ目の前の男性の様子が普段と違うことを感じ取る。
眼鏡の奥の瞳には、喜びと困惑が同居しているように俺には思えた。
「見てもらいたいものとは…?」
とりあえずその現物を確かめないことには話が進まない。
しかし。
相変わらずしわが寄って形が崩れているシャツを着ている彼は、その場から指一本動かそうとしない。
どこからか吹いてくる風は、暖かさというよりも蒸すほどの暑さを携えて流れてくる。
しばらくの沈黙の後に出た言葉は、俺の質問の答えなどではなかった。
「あの少女との最後の別れの日。君は何か彼女から言われたのかね」
一瞬、脳裏に鮮明に浮かび上がる情景。
それはここ二ヶ月の間で、記憶の奥底に仕舞い込んだ代物だ。
「…どういうことですか」
堪らず問い返す。
結論を先延ばしにされているようで、気分はいいものではなかった。
そんな俺の気持ちに気付いたのか、北条はようやく重たい口を開いてくれた。
「この階段を、登ってみなさい」
それ以上は問うな。行けばわかる。
そう彼の眼差しが訴えていた。

「はぁ…」
息をつく。
 薄手のTシャツは、背中に汗を染みこませていた。
 後ろを振り返れば、まだようやく半分くらい登り終えたぐらいだろうか。
 春にくらべて周りの気温も上がったためか、少しばかりこの石段の傾斜は辛く感じられた。
 「一体この先に何があるんだよ」
 誰に聞かせるでもなく吐いた言葉は、そよ風が初夏の街並みの向こうに運んで行ってしまった。

 『大丈夫、また会えるよ』

 あの少女が、最後に俺に遺した言葉。
慰めだとはわかっている。
けれどもあの日から毎日、俺はその台詞の中に隠された答を捜していた。 
 雨の日も、風の日も、一日も欠かすことなく。
それはもはや日課の散歩のようだった。
長かった階段。
少女と二人で登った時は、こんなに段数があるとは気付かなかった。
最後の石段に足をかけ、ようやく丘に辿り着く。

 どこまでも続くような青空。
 手を伸ばせば届きそうなちぎれ雲。
 絵の具では決して出せないような緑色の雑草たち。
 遠くにはペンキの剥がれたベンチが一つ。
 そして――…。

目の前に広がる光景。
視界で捉えた現実が、まだ脳で理解できない。

どれくらいそうしていたのだろうか。
意識が丘に戻って来た時には、北条もすでに丘に辿り着いた頃だった。
「どうだ。信じられないだろう」
恍惚の表情を浮かべてそう同意を求める声。
けれど、今の俺には届くはずもない。


風に乗って踊る、幾重もの薄紅の花びら。
 その舞台の中を一人、立ち尽くす。
 春という季節はとうの昔に過ぎ去っていた。
 今、夏の始まりを告げるように日差しが強く照りつけている。
 決して桜など咲くはずのない時節。

『だって、一人になってから、ずっと誕生日祝ってもらってないでしょ?』
 
ふと、少女の言葉が脳裏から甦る。
誕生日。
俺の、誕生日。
季節が春の終わりから、夏の始まりへと様相を変える時期。
正確には、六月二十二日。
それは、まぎれもなく今日という日のことだった。

「昨日までは全く咲いてもいなかったらしい。突然今日になったら、こうなっていたようだ」
男も斜め後ろで、この不可思議な出来事に戸惑っている。
「だから一応、君にも伝えておこうと思ってね」
それが誰に向けて言われたものなのか、俺は考えることすらできない。

『だからね、今年は私が盛大に祝ってあげる』

ただ、あの時少女の口にした言葉を思い出していた。
 (――あ…)
思わず瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
 そよ風が俺の濡れた頬を撫でていった。
薄い紅色の花びらが、青い空に揺れている。
それはかつて、茶髪がかった長い髪をたなびかせている少女を思い起こさせる。

なんだ…。
哀しがる必要なんか、どこにもないじゃないか。
おまえは、ずっと此処にいる。
今も。
そしてこれからも。
だったら俺は、おまえが意味を与えてくれたこの世界で、大切な時間を精一杯生きていくよ。
そう、舞い散る桜に誓いを立てた。

  ◇

夏の情景に包まれた街並から、切り取られたような丘の上。
この場所の時間だけは、世間の雑踏に混じることなく穏やかに流れている。

季節はずれの桜が一本。
それは照りつける太陽のもと、優しく咲き乱れていた。


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