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作品名:桜咲クトキ 作者:kei

第1回   桜咲クトキ(前編)
  ◇

「思い出した…」
 そう少女は、言葉を紡ぎ出した。
 「うん…。全部、思い出したよ。」
 今度は俺にではなく、自分に言い聞かせるように。
 さっきよりも強い風が、薄紅色の花びらを乗せて、二人の間を通り過ぎていく。
 彼女がゆっくりと振り向く。
 何故か、景色が揺れていた。
それでも、振り向いた彼女の表情だけは、なんとか読み取ることができた。
 いつものように、純粋で無垢な笑顔を浮かべている。
 「私ね…」
 これが二人の別れになると、わかっているはずなのに。

  ◇

「ふぅ…」
 一つため息を吐く。
吐いた息は、まるで最初から存在しなかったように、あたりの空気と同化した。
ほんの数週間前だったならば、この吐息は白く姿を変えただろう。
 空はどこまでも青く澄み渡り、運ばれてくる風は春の匂いを感じさせた。
 しかし、ため息をついたのは、その情景が虚構に思えたからではない。
むしろ自分自身、この今存在している体がそう思えたからだろう。

 人は何故生きるのか。

そう思うようになったのは、高校二年の夏。
両親が揃って交通事故で他界し、その葬儀も終わった時期だった。
生活費を稼ぐため、通っていた高校を中退しバイトの日々を過ごしていた俺は、日がな一日そのような思考に駆られることが多くなった。
俺の家族は、おそらく一般的に見ても仲の良い家庭であったと思う。
特別何をしているというわけではなかったが、不満などなかったし、幸せだった。
しかし、突然その幸せは行方不明になったのだ。
死んでしまえば、全てが無意味だ。
ならば生きるということに意味はあるのか。
人は死ぬ為に生きているのか。
次々と考えては、疑問はその分だけ増えていった。
気づけば五年が経ち、その答えを探す旅を終わらせることにした。
そう、俺はこの春の息吹を感じさせる世界から、今まさに去ろうとしている。
理由などない。逆に、この世界に存在し続けることの意味を知りたかった。
 辿り着いたのは、この生まれ育った街が見下ろせる丘だった。
もちろん、そこにも理由はない。
強いて言えば、この丘に一本だけそびえ立っている桜が、あまりにも綺麗だったからだろう。
 桜の木の根元に腰を下ろす、そして辺りを見渡してみる。
 先月ころには、まだ地面は雪に覆われていたであろうか。今では新緑の葉に彩られている。
ところどころには、ペンキの剥がれた木のベンチが、長年空席のまま晒されていた。
 ふと、桜を見上げた。
 幼い頃、母親から聞いた言い伝え。

 『ここの桜にお願いをするとね、一つだけ願いを叶えてくれるのよ』

 それは、この街に古くから伝わる迷信のようなものだった。今では街の子供でも騙せないだろう。
 無論今年で二十二歳になろうとしている男が、信じているはずがない。
(もし…本当におまえにそんな力があるなら、俺に生きることの意味を教えてくれよ)
 桜の幹に頭を預けて、そんなことを考えてみる。
それこそが無意味な行為だと知りながら。
 「…ふぅ」
 本日二度目のため息、しかし今回は決心の意も含んでいる。
ポケットをまさぐり、先ほど文房具店で購入した、黄色いカッターを取り出す。
 右手にカッターを持ったまま、街を見下ろす。
一軒一軒の中に家庭があり、日常というドラマを日々生み出している。
しかし、彼らは何の為に生きているのであろう。死んでしまったら、すべてが無に帰すだけだというのに。
 目の前を、桜の花びらが舞い降りてくる。
 そして、この桜は何の為に咲くのだろう。最期には散るとわかっているのに。

 一度、深呼吸をする。
 カッターの刃を左手の手首に押し当てる。赤い線がうっすらと浮かんできた。
 もう少し強く…。
 そう思った時、頭上から焦った声が降ってきた。
 「な、なにやっているの?駄目だよ!そんなことしたら駄目!」
 驚いて上を見上げる。
 いつの間にいたのか、一人の少女が、木の枝の上から身を乗り出していた。
 「駄目だって!」
 少女の片手が俺のほうに伸びる、もちろん届くことはないのだが。
しかし、バランスを崩した体が、物理法則に逆らうことなく落ちてきた。
どすん、と大きな音をたてて、俺と少女は地面に倒れこむ。
 「痛て…」
 とっさのことで受け身もとれなかったが、なんとか怪我はせずにすんだようだ。
 「おまえ、何するんだよ」
 見ず知らずの他人だが、たまらず怒気を孕んだ声を浴びせる。
しかし、反応はなかった。
 「おい…」
 どうやら、頭を強く打ったようでまだ意識が戻らないようだ。
 (困ったな…)
自殺どころじゃなくなってしまった。
 いくらもう、この世に未練がないからと言って、目の前で倒れている人間を放って置くことはできない。原因は自分にもあるわけだし。
 辺りを見回すが、普段から人気のない場所だ。誰かに助けを求めることすら無駄であると感じる。
 少しの間、かつて一度も見たことの無い顔に声を掛け続ける。
 反応なし。
 「仕方ない」
 わざと声に出した台詞は、どこか諦めにも似た響きを含んでいる。
 地面に横たわっている見ず知らずの少女を背中に抱えて、俺は二度と戻らないと思っていた道を再び歩き出した。

 少女が目を覚ましたのは、日もすっかり暮れてしまってからだった。
 「あれ、ここは…」
 布団から上半身だけ起こして、辺りを見回す。
 わからないのも無理はない、ここは少女が一度も立ち寄ったことのない場所なのだから。
 困惑する少女が、俺の存在を認識した。
 「なんで…私、こんなところに」
 とりあえず、此処が俺のアパートであることを告げる。
妙な誤解をされては困るので、仕方なしに運んできたことも付け足しておく。
 「――…」
 理解しているのかはわからなかったが、そんなことはどうでもいい。俺はこいつのせいで決心が鈍ってしまったのだ。
 「とりあえず、名前は?」
 「名前?」
 ぽかんと、まるで異国の言葉を聞いているような反応。
 寝ている間はわからなかったが、少女は結構瞳がくっきりしていて、幼さが残るものの顔立ちも端正だった。
年は、俺よりもやや年下だろう。大学生、には見えないから高校生あたりだろうか。
長い髪は少しだけ茶色に染まっていた。
 「だから、自分の名前だよ」
 いいかげん痺れを切らして問い詰める。しかし。
 「…え、あれ」
 またよくわからない反応。
もしかして見ず知らずの男の家に、自分がいることに戸惑っているのだろうか。
だとしたらしょうがない。
 「俺の名前は、国沢浩一。今はいわゆるフリーターってやつだ」
 先にこちらから自己紹介をした。
確かに自分が名乗らず、相手の名前を聞こうとしたのは無粋だったかもしれない。
 「…あれ、あれ?」
 これでようやく相手の名前を聞き出せると思ったが、どうやら雲行きが怪しくなる。
 「どうした?」
 「私…誰?」
 「は?」
 まさかとは思った。が、しかし現実に身近で起こりうる話だとは思わなかった。
 少女はまだ当惑している。
おそらく、まだ推測の域を脱しえないが、先ほどの衝撃で一時的な記憶喪失となってしまったのではないか。
 疑惑を確信に変えるため、俺は他にいくつかの質問をしたが、答えらしい答えは返ってこなかった。
 氏名、年齢、住所、すべてが不明。
 「何も覚えていないのか?」
 冗談であることを心のどこかで期待しつつ、懇願するように尋ねる。
 しかし目の前の少女の反応は、期待を裏切るのには充分すぎるものだった。
 (なんでなんだよ…)
 何もこんな日にこんな面倒くさい出来事が起こらなくてもいいのではないか。
 俺は誰にでもなく、心の内で舌打ちをする。
 「まぁ、仕方がないか」
 だが当の本人は、何故か楽観的だ。
確かに記憶喪失は一時的なものだろうが、このアパートには一時的にすら居させることはできない。
 床の上に無造作に置いてあった携帯電話を手に取る。
 「どうしたの」
 俺の行動の意図するところが理解できていない少女。
 「電話するんだ」
 「どこに?」
 当然、決まっている。
 「…警察だ」
 ダイヤルをプッシュしようとすると、その手から携帯が姿を消す。
少女がものすごい素早さで奪い取ったのだ。
 「おい、何するんだよ」
 「なんで、なんで?警察とかやめてよ!」
 身元不明の記憶喪失の少女、誰であろうと警察に届けるであろう。
 「嫌だ、嫌だ、嫌だ〜!」
 辺り構わず喚き散らす。
先ほどまで自分が寝ていた布団の上で、周囲の迷惑も考えずに暴れまわる少女。
部屋が整理されていたのが、何よりも幸いだ。
長い髪を振り乱しながら駄々をこねる少女をどうにかなだめて、落ち着かせる頃にはもう時計の針は九時を回っていた。
 
「わかったよ、警察には届けない」
 折れたのは俺のほうだった。
先ほどまで取り乱していた少女は、満足そうに頷く。
 「でもな、おまえは記憶が戻るまで何処で雨露をしのぐつもりだ。宛てでもあるのか」
 常識的に考えてそうだろう。全ての記憶を失ってしまえば、自分が昨日まで住んでいた家すらも憶えてはいないのだ。
 それが少女の置かれている状況なのだ。警察に保護してもらうのは、妥当な案だったであろう。
 けれども目の前の少女はそれを受け入れようとしない。
そして暫くの無言の末、
 「ここ…」
 ポツリと、しかし大それたことを口にする。
 「ここって、俺のアパートを指して言っているのか」
 当然だ、と言わんばかりの目でこちらを見返してくる。
本気なのか。
仮にも年頃の男の部屋、しかもそいつは今日出会ったばかりの得体の知れないヤツだというのに。
壁にかけられた時計の針が、思い出したかのように部屋に響いて時を刻む。
 「却下だ」
 冷静に考えてみたが、それは無理な話だろう。
 「でも、じゃあ私はどうすればいいの?」
 不安が入り混じった瞳で、俺を見上げる少女。
カーテンの隙間から見える空は、闇が完全に支配した世界だった。
こんな夜に年頃の少女を外に放り出すわけにもいかないか。
だが他人との関わりにすら意義を見出すことができなくなった俺にとって、その結論は煩わしい以外の何物でもなかった。
(まぁ、今晩一夜限りの辛抱だろう)
どうせ明日には少女は帰るべき場所に戻るのだ。
俺はしぶしぶ重たい口を開く。
「今日だけだからな」
不安な色に彩られた少女の瞳は、まるで光が差し込んだかのように明るく輝いた。
 結局、その日少女は俺のアパートに泊まることとなった。

  ◇

目が覚める。
体の節々が悲鳴をあげていた。
一組しか布団がなかったため、俺は直接フローリングの上に寝たのを思い出す。
カーテンを開け放つ。
薄暗かった部屋に春の日差しが侵入してきた。
「う…ん」
眩しかったのか、布団の上で眠っていた少女が声をあげる。
その寝顔を見て、昨日の出来事が現実のものであるということを改めて知る。
面倒くさいことになった。
もう足を踏み入れることのないと思っていた洗面所へ向かう。
綺麗に片付けられた洗面用具が、どこか哀しく映る。
普段よりも冷たい水で洗顔を終わらせて、習慣付けられたようにキッチンの冷蔵庫を開ける。
「おはよう〜…」
能天気な声が背後から聞こえてきた。
朝は弱いのか、まだどこか微睡の中を漂う少女。気が付けば俺は、冷蔵庫の扉を閉めていた。
まるでその中身を見られたくないかのように。

「ほら、置いていくぞ」
結局朝食は近くのコンビニまで買い出しに行く羽目になった。冷蔵庫には食料はおろか、調味料ですら保存されていない。
当然のことだが、自殺を考えていた俺に日々の生活用品はもはや不必要だった。
昨日、もう帰ってくることはないのだ、と俺は部屋の隅々までを綺麗に整えた。
まるでそこは、人間が暮らしていた痕跡すら消去された空間だった。
少女が自分の靴を履くのに戸惑っている中、俺はどこか感慨深くその空間を見つめる。
「あ、準備できたよ」
華奢な右手でOKサインを作る少女。
この今目の前にいる存在のせいで、俺はこの世を去る機会を逃したのだ。
そう考えれば考えるほど俺の心は不愉快になり、無言で玄関を後にした。
「へ〜、こんなアパートだったんだ」
昨日少女が此処を訪れた時、彼女は意識を失っていた。
その為、今日初めてこのアパートの外観を目の当たりにすることとなる。
決して綺麗とは言えないが、家賃も手ごろな築20年以上の物件だ。六畳の部屋が一つにキッチンとユニットバス。生活をしていく上で何の問題もない。
いや、もはや俺は生活をする必要すらなくなったのだが。
「いい天気だね〜」
ふと隣を歩いている少女を見ると、そんな和やかな台詞を呟いていた。
並んで歩くと、頭一つ分違うのだろうか。
(そういえば…)
以前に女の子と肩を並べて歩いたのは、一体いつだったのだろうか。
何気なく見上げた空は、癪にさわるくらいに晴れ渡っていた。

少し遅めの朝食を摂ったあと、俺達は昨日の丘へと向かうことにした。
脳裏に浮かぶのは先ほどの食事中の会話だ。
コンビニで購入した適当な食料がテーブルの上に並べられる。
「これ食い終わったらおまえの家に行くぞ」
陳列された中から一つおにぎりを手に取り、俺は少女に話しかける。
「え?」
まるで言葉の意図を全く理解していないかのような反応。
しかし俺は構わず続けることにする。
「よく考えたら、財布とかに手がかりを指し示すものがあるはずだ。それを辿っていけば簡単におまえの正体がわかるだろ」
目を見開いたまま、微動だにしない少女。
そしてスッ、と肘を曲げて両手をあげる。
おにぎりの包装を開封しようとしていた俺の手が止まる。
そのよくわからないジェスチャーの意味を、俺は理解してしまったのだ。
そう。
少女は、身分証明書などはおろか、手荷物すら持ち合わせていなかったのだ。
つまり、手がかりゼロ。
唯一の希望として、少女と出会ったこの場所に舞い戻ってきたというわけだ。

問題の記憶喪失少女は、眼下に広がる街並を眺めている。
白のワンピースにジーンズのジャケットを羽織っている後姿は、どこにでもいる女の子だった。
「綺麗だねぇ」
自分の置かれている状況がわかっているのか疑わしくなるほど、のどかな声をあげて感想を洩らした。
「この景色に見覚えはないか」
別にこいつとゆっくり散歩しに来たわけではない。
単刀直入に本題に入る。
「う…ん、懐かしい感じがするから、よく見ていたのかもしれない」
「なら、おまえはこの辺の近所に住んでいる可能性が高いな。」
言ってから思考を巡らすが、しかし。
「この辺って、家とかあるの」
真っ直ぐな眼差しでそう問われる。
まさしくその通りだ。
この丘に来るまでには、長い石段を登らなければならないし、住宅街からは細い並木道を潜り抜けなければ、その石段すら存在に気付かない。
要するに、この場所は人里から少し切り取られた空間というわけだ。
「まぁ、よく散歩とかでここまで来ていた可能性もあるしな」
やはり手がかりが少なすぎるということを実感した。
不安と共にため息が漏れる。
「あ〜、ため息つくと幸せが逃げるんだよ」
記憶が頭から逃げていった人間に言われるのはどうなのだろうか。
だがそれよりも気になるのは、何故この少女はこんなにものんびりと構えていられるのか。元々、根が明るい性格なのだろうか。
「ねぇねぇ、あのアパートはどこらへんなのかな」
どこからか吹く風に長い髪をたなびかせながら、無邪気に街を見渡している。
その後姿に俺は我慢できなくなり、語気を荒げて問いただす。
「おまえ、記憶を取り戻す気あるのかよ。このままじゃ、ずっと一人になるかもしれないんだぞ」
辺りの空気が若干張り詰める。
しかし振り返った少女の笑顔によって、その雰囲気が春の様相を取り戻した気がした。
「え?だって悩んでいても仕方なくない?きっとしばらくすれば記憶だって戻るかもよ」
まるで他人事のように笑い飛ばす少女。
唖然とする俺を他所に、彼女は歩き出す。
「だいじょーぶ。なんとかなるよ」
どうしてこんなにもこの少女は楽観的でいられるのだろうか。
こいつは俺の抱えている生きることの疑問などですら、今みたく笑って解決するではないか。
不意に頭上を仰ぐと、そこには青空を背景に、今日も変わらず桜が花びらを咲かせていた。それはまだ満開と呼ぶには早すぎるものであったが、あと数日もすれば黒い木の枝も薄紅色一色に彩られることだろう。
どうやらこれ以上此処にいても有力な手がかりは得られそうにない。
そう判断した俺は、飽きもせずに景色を眺めている少女を連れてその場を後にすることにした。

長い階段を下って、次に向かったのは商店街だった。
都会とも田舎とも呼べないこの街は、特に栄えた場所は存在しない。
もちろん駅前まで足を伸ばせば話は別だが、ここらの地域に暮らしている住民ならこの商店街を利用するはずだ。
横を並んで歩く少女もこの近辺に住んでいたというなら、必ず足を踏み入れていたはずである。
陽はおそらく一日で一番高く登っている頃だろう。
幼い子供を連れた母親は、買い物袋を提げて歩道を行く。
初老の男は喫茶店の椅子にもたれかかり、過ぎ行く街並を眺めている。
ベビーカーを引いた若い女は、ゆったりと日差しの中を一歩ずつ進んでいく。
商店街を行き交う人々は皆、それぞれの途をゆっくりとしかし着実に歩いている。
しかし俺は…。
地面に敷き詰められた石畳の感触は曖昧で、まるでそれは漂うように移動しているだけだった。
「ねぇねぇ」
すぐ横からの声に意識が舞い戻ってくる。
「どうしたの?」
そんなにぼうっとしていたのであろうか。俺の顔を覗き込んで首を傾げる少女。
「いや、なんでもない。それより何か見覚えのある店や建物はないか?」
ん〜、と小さな唸り声をあげて彼女は周囲を見回す。歩幅が微妙に小さくなる。
それに合わせて俺の歩を進める速度も遅くなる。
「あ!」
突然少女が何かを発見したように驚いた声を上げる。
「何か見つかったのか!」
それにつられるように俺の声量も大きさを増す。
どんな些細なことでもいい。記憶喪失の少女の手がかりになるものならば。
期待に満ちた目で少女の視線の先を辿る。
しかしそこには特にこれといって目立ったものはない。
様々な憶測が頭をよぎるが、明確な回答には辿り着けない。
たまらず疑問を投げ掛けたが、少女の返答は予想を反するものだった。
「花…」
ポツリとそう呟く。
「は?」
思わず上ずった声が出てしまう。
もう一度視線を戻すと、確かにそこには一輪の花が咲いていた。
春の日差しを浴びて、商店街の石畳の隙間から申し訳程度に白い花びらを携えている。
「それがどうかしたのか」
普段歩いていても、果たしてその姿に気がついたかどうか。
それほどに儚すぎる存在。
「暖かくて気持ちいいってさ」
その名も無い花から目をそらすことなく、口だけを動かす。
「おまえはあの花の気持ちがわかるのか」
どこか呆れた口調はため息も交じっていた。
あはは、と少女はそれに無邪気に微笑んで応えていた。
立ち去り際に一度だけ振り返る。
決して誰からも必要とされているわけでもなく、ただ其処に存在していることすら認識されない。
例え枯れ果てて消えてなくなろうとも、変わらずに世界は回る。
それなのに何故。
どうしておまえは咲き続けることを選んだのか。
声にならない疑問は、今も深く俺の中に淀んだままだった。

何の収穫もないまま、俺達は商店街から抜け出した。
特に広いというわけでもない。しかし目の前の店先に設置された時計はすでに四時を回っていた。
それもこれも原因はこの少女にあるのだろう。
俺は恨めしげに真横を歩く少女を見下ろす。
一つ一つの店に入っては、まるで買い物に来たかのようにゆっくりと陳列された商品を見ていたのである。
ここの商店街は店揃いも悪くはなく、幅広く備わっている。それを初めて訪れたかのように少女は目を輝かしていた。
記憶を失くす以前によく立ち寄っていた店などがあれば、もしかしたら店員が覚えているかもしれないと思ったが、それは安易な考えだったことに気付く。
誰一人として、少女の顔を見たことのある人物は現れなかった。
つまり、無駄に時間だけを浪費したということだ。
「あ〜、歩きすぎて足が疲れたよ」
誰にでもなく、ただ思ったままを言葉に出す少女。
しかしその表情はどこか楽しげだ。
「結局、何にも見つけることはできなかったな」
それとは対称に、俺には楽しげな表情は浮かばない。
ただこれからの幸先だけが不安であった。
「ありがとうね」
不意にかけられた言葉に一瞬戸惑いを覚える。
隣では穏やかな笑顔がこちらを見据えていた。
「…本当はあの丘で記憶の手がかりを見つけて、おまえの自宅を探して無事終わるはずだったんだけどな」
自分でもよくわからないが、心臓の鼓動が早くなった気がした。
だからであろうか。
こんなにも子供じみた悪態をついたのは。
少女が俺に向けて何かを口にする。だが強風が彼女の言葉を遮っていた。
「あん?どうした?」
少女の小さくて可愛らしい唇が、今と同じ動きを見せる。
「ねぇねぇ、どうやって私たちはあの丘で出会ったの?」
それは、聞き返したことを一瞬後悔するような、触れられたくない話題であった。
 
アパートに着いたころには、日はすでに傾きつつあった。窓ガラスを通して差し込む日差しは、一日が終わることを暗に示している。
 帰り際に寄ったコンビニで買った弁当を、二人分テーブルの上に用意する。
少女は物言わず、ただクッションの上に佇んでいた。
やはり先ほどの話は、その純粋な心に深く突き刺さったのだろうか。
俺自身、話すのは躊躇われた。できれば隠し通しておきたい事実でもあった。
だが、嘘がつけるほど器用な性格でもない。
席につき、少し冷めた弁当に箸をつけようとする。
すると少女は首をこちらに向け、重たい口を開いたのだった。
「一つだけ、聞いてもいいかな」
俺に拒否する理由はない。
「なんで、その、自殺をしようと思っているの」
バツが悪そうに、そう疑問を口にした。
「さっきも言っただろ。俺には生きる意味がわからない。これから生きていくことに何も見出せないんだよ」
またもや沈黙がこの場を包んでいく。
少女が目の前の弁当に箸をつけようとしないので、必然的に俺も箸を置く。
「でも、やっぱり駄目だよ。死んだら駄目」
「何故止めるんだ、俺が死ぬことでおまえに何か困るようなことがあるのか。ないだろ」
少し怒気を孕んだ口調でそう断言する。
おそらく大半の人々は、自殺しようとする人間を取り押さえようとするだろう、それがたとえ赤の他人であろうとだ。
けれども、俺にはそれが理解できない。
死にたいのなら勝手に死なせてやればいい。
この世を去りたいのだから、構わず逝かせて欲しい。
「生きてれば、楽しいこととか、嬉しいこととかたくさんあるよ。せっかく生まれてきたのだから、死ぬなんて、もったいないよ」
瞳に涙を浮かべて、よくある台詞を紡ぎ出す少女。
それは紛れもない真実だと思う。
だがその為に生きることが、俺には無意味に思えてしまうのだ。
「それは、辛い事だってたくさんあるだろうし、でも、でもその分だけ幸せに思えることもいっぱいあるよ」
だから死んじゃ駄目だよ、と最後に付け加えて少しぎこちない笑顔を浮かべる。
「別に辛い事から逃げ出したいわけじゃない。むしろ、幸せに思えることが必要に感じられないだけだ」
沈黙がこの場を支配する。
「もういいだろ、俺のことは」
ついさっきまで弁当から立ち上っていた湯気も、今ではすっかり消えてしまっていた。
「心配するな、おまえの記憶が戻るまではちゃんと見届けてやる」
そう無理矢理終わらせて、すっかり冷めてしまった弁当を口に運ぶ。
少女は、そんな意味で言ったのではない、というような目でこちらを見ている。
俺は、その視線から逃れるように、ひたすら箸を往復させることに専念した。

今晩も、少女は俺のアパートに泊まることになった。
記憶が戻らない以上、それは仕方がないことなのだろうが、確実に世間体は良くないであろう。
今更ながら、世間の目などというものを気にしている自分に笑ってしまう。
シャワーを浴び終わったのか、やかましいぐらいの雰囲気を連れて少女は部屋に戻ってきた。
「う〜、さっぱりしたぁ」
心底幸せそうな声を出す。そんな姿を見ていると記憶喪失であるのが嘘のようだ。
ふと彼女の服装を見て違和感を覚えた。
「おまえ、今日もその服で寝るのか」
枕に顔をうずめながら、布団の上をゴロゴロ転がっていた少女に、疑問を投げ掛ける。
「ん?」
昨日もそうだったが、彼女は白のワンピースのまま寝ようとしていたのだ。
「さすがに寝にくいだろ。少しでかいだろうけど、ジャージでも貸してやろうか。」
そう言ってクローゼットにしまってあった一組の男物のジャージを手渡す。
「うん、ありがとう!」
コクコクと、体全体を使って頷く。
俺との身長差は、頭一つ分はあるのだろうか。ジャージに着替えた少女は、ひどく動きづらそうだったが、当人は全く気にする風でもなく布団に横になった。
「でかいなぁ」
そう言って微笑んでいた。 
「汚すなよ」
不意にそんな憎まね口を言ってしまったのは、少女の満面の笑みが、予想外に可愛らしかったからかもしれない。
 
「ねぇ、私考えたんだけどさ」
 それは、部屋の電気を消してしばらくしてからのことだった。
夜は更け、部屋には月明かりだけが充満していた。
 「コーイチは、もうお父さんもお母さんもいなくて、たった一人なんだよね」
 いきなり名前で呼ばれたことに一瞬戸惑いを覚えたが、あえて触れないでおく。
 「きっと、一人だから楽しいことが少ないだけだと思うんだよね」
 俺の返事を待たずに、とつとつと言葉を絞りだしていく。
 「だからさ、きっと誰かと一緒にいれば楽しいことも増えるし、つらいことも分かち合えて、すごくいいと思うんだよね」
 何故だろう。
何故こんなにも純粋なのだろう。
心というものが仮に存在するのなら、こいつの心は透明すぎて白く濁ることすらないのだろう。
だが。
 「誰かと一緒にいることで煩わしいと思えることもある。それに、誰かと出会うってことは、別れも共にあるんだ。誰かと一緒にいればいいなんて、ただの戯言だろ」
 そんな純粋さが、俺には我慢できなかった。
生きるということが、そんな単純なものならば、俺は五年も悩みはしなかっただろう。
そしてその結論に達することもなかったはずだ。
 「そんなことない!絶対そんなことないんだから!」
 布団から身を起こし、ものすごい勢いで反論する。
そんな少女に背を向けるように、俺は寝返りをうった。
 「さぁな、どうだろな」
 議論するのが面倒くさくなり、俺は瞳を閉じる。
その一言はゆっくりと闇に溶け込んでいった。
それからしばらくは、時計の針が時を刻む音だけが、この場を支配していた。
その音を聞いていると、自分がどこにいるのかわからなくなる。この空間だけが世界の全てで、ドアの向こうには見たこともない異界が広がっているような、そんな錯覚に陥るのだ。
聞こえてきた少女の声が、俺を現実の世界に引き戻してくれた。
「コーイチの誕生日って、いつ?」
だが、その台詞が唐突すぎて、俺にはわけがわからなかった。
「誕生日?」
自分でも声が上ずっているのがわかった。
何故そんなことを聞くのだろう。
「そう。誕生日教えてよ」
別に隠すほどのことでもないので、俺は素直に教えることにした。
俺が生まれたのは、季節が春の終わりから夏の始まりへと様相を変える、六月の半ば。正確には六月二十二日だ。
 「そっか。わかった。憶えておくよ」
 暗闇で顔は見えないが、おそらく笑顔を浮かべているであろうことがわかる。
 「どうしてだ?」
何故そのようなことを訊くのか。少女の真意を問いただす。
 「だって、一人になってから、ずっと誕生日祝ってもらってないでしょ?だからね、今年は私が盛大に祝ってあげる」
 誕生日を祝う。
そんなこと、ここ数年考えもつかなかったことだ。
生まれてしまったことになぜ歓びを感じなければならないのか。
 「楽しみにしとくよ」
 一応言葉ではそう言っておく。
その日が来るのは、今から約二ヶ月後。
その頃には少女の記憶は戻り、二人はまた赤の他人となっているはずだ。
なによりも、俺はもうこの世にいないだろう。
 「えへへ。だからね、それまで死んじゃ駄目だよ。じゃあ、おやすみ」
 そう言って布団に潜り込む。
だがその言葉は、今度は闇に溶けることなく、俺の耳から離れようとしなかった。
 
  ◇

夜が明ける。
 昨日と同じように俺は直にフローリングの上で横になったが、今日は幾分か体の痛みは少なく感じた。
 一つ大きな伸びをして、布団で熟睡している少女を見下ろす。
 (…今日こそ手がかりを見つけないと)
 そして一刻も早くこの家を出て行ってもらう。
さもないと、俺はいつまでもこの世界に意味もなく漂う羽目になるのだ。

 『だからね、それまで死んじゃ駄目だよ』

 ふと、昨晩の少女の声が耳に反芻する。
視線の先では、当の本人はまだ夢の中を彷徨っているようだ。
 鼓膜に憑いた残響を振り払うかのように、一度大きく頭を動かす。
 カーテン越しに差し込む日差しは、春という季節を代弁しているようだった。
 
少女が目を覚ましてから、俺達は二度目の探索に出かけることにする。
 昨日は商店街を回ったため空振りに終わってしまった。その為、今日はもっと直接的な場所を攻めてみることにしたのだ。
 この街に唯一ある学校。
 俺よりも年下であろう少女は正確な年齢はわからないが、おそらく高校生というのが妥当な所だろう。
 無論、この少女が私立の高校に通っていたのならば話は別だ。
電車などの交通手段を使って通える高校は無数に存在する。それを割り出すのは不可能な話だ。
 そうでないことを願いつつ、俺達は一縷の望みを其処にかけた。
 「おまえ、自分の通っていた学校のこと少しは覚えていないか?」
 歩いている最中、よくわからない鼻歌を口ずさんでいた少女の後姿に尋ねてみる。
 今日も彼女は、昨日と変わらない白のワンピースにジーンズのジャケットという服装。仕方ないと言えばそれまでだが、一応女の子だということを考えると、少し不憫な気が
した。
 「う…ん、覚えてないな」
 最初から大して期待していなかったのだが、それでも残念なことには変わりない。
 「私、学校行っていたのかな」
 そしてそう付け足す。
当たり前だろ、と反論してやりたかったが何故かそれは適わなかった。
 何か複雑な事情のため、学校に通えない事だって充分ありうる話だ。
 事実、俺自身がそうであったように。
アパートを出発して歩く事三十分、ようやく目的の場所に辿り着く。
 「へ〜」
 どちらかと言えば年期の入った校舎を前にして、少女が感嘆の声を洩らす。
 「ここが学校か」
 まるで天然記念物でも前にしたかのような反応。
記憶を失うと普通の感覚も同時に無くしてしまうのだろうか、と思案する。
しかし目の前の少女が、どこか人とは違った感性を持っていることを考えると納得もできるような気がした。
 一通り校舎の周りを散策してみたが、特に少女の記憶を呼び覚ますようなものは発見できなかった。
 「仕方が無い、学校の関係者の人に当ってみるか」
 ここまで足を運んでまたも空振りに終わるのだけは避けたかった。
 校舎の中に入り、職員室を探すためにまた二人で歩き回る。
まだ授業中なのだろうか。校内は静寂に包まれ、たまに通りかかった教室から教壇に立つ教師の声が聞こえてきた。
(懐かしいな)
この高校は別に母校ではないが、全国どこの学校でも共通するものはあるのだろう。
廊下のリノリウムの上を歩く靴音。
学校という独自の空間が生み出す雰囲気。
そのどれもが俺にとっては二度と戻らない思い出だった。
生きるということに何の疑問も不安も持たずに、ただその日その日を精一杯過ごしていた。
けれども、それが今では信じられない。
ある教室の前の廊下を渡ろうとする、ふと少女が立ち止まった。
「どうした?」
問いかけるが、返事はない。
顔を覗き込み、その視線の先を辿る。
特に代わり映えの無い教室内の情景。黒板に書かれた数式。教科書を片手に何か説明する教師。その説明を聞いているのかいないのか、生徒らは夢と現実を行き来している。
一体何がそんなに興味深いのか。
「これが、学校?」
何を言っているのかわからず、返す言葉が見当たらない。
「ふ〜ん。いいなぁ、面白そう」
 そう微笑んだ横顔は、どこか儚さを感じさせる。
 窓から入ってくる木漏れ日の中、俺達はしばらくその授業風景を眺めていた。
 「そろそろ行くか」
 思い出したように俺達は再び職員室を求めて歩き始めた。
 それから、どうにか職員室を探し当てたが、望まれた答えは返ってこなかった。
 どうやらこの高校の生徒ではなかったらしい。
 アパートへの帰り道。隣を歩く少女の表情はいつもと変わらずに穏やかだ。
「違ったね」
 ショックを受けた風もなく、些細な間違いを犯しただけのように、彼女は舌を出して笑っていた。
 しかし俺の心中では、言いようのない不安が手を伸ばしていた。
 それは、先ほどの男性との会話のせいに他ならない。
 
対応してくれた教師にお礼を言い、職員室を退室した俺達を呼び止める声がした。
 年齢は四十代前半だろうか。黒縁の眼鏡に何の手入れもされていない頭髪、それにくたびれたシャツを着た男性が背後に立っている。
 確か俺と教師の対話を近くで聞いていた教員の一人だった。
 「ちょっと、いいかな」
 申し訳なさそうに、しかし決して拒否することはできない不思議な力がそこにはあった。
 通されたのは応接室だった。
教室に置かれているような木の椅子などではなく、見栄えの良いソファに座らされる。
 しかしその隣に少女の姿はない。
 目の前の男性教員が同席を遠慮してくれるよう頼んだためだ。
おそらく今は校舎内をうろついている頃だろう。
 「えっ…と、一体どういった用件ですか」
 突然の出来事に少々戸惑いを隠せない。
だがそんな俺とは対称に、男性は不思議な落ち着きがあった。
 「君とあの子は、何処で出会ったのかな」
 眼鏡の奥の瞳が真っ直ぐに俺の顔を見据える。前置きも何もなく始まった会話に、ただならぬ予感を感じた。
 「近くの、桜が一本生えている丘です」 
 事細かに説明をしていく。
どうやら相手もその丘のことは既知のようだった。
 話し終わっても、男性はしばらく無言だった。
その背後にある大きめの窓も、ブラインドがかかっているため日差しは侵入してこない。
 昼間だというのに薄暗い個室の中、男性のため息が一際大きく聞こえた。
 「そうか。ありがとう」
 目をつむり、体内から搾り出すようにただそれだけを口にした。
 そしてあたかもそれで話は終わったと言うかのようにソファから腰を上げる。
 「え、何なんですか。どういうことです?」
 たまらず掴みかかるように質問する。
 またも静寂の時間。
しかしそれはすぐに終わりを迎える。
 「私も昔、君と同じくらいの若い頃、あの少女と出会ったことがある」
 こうして謎に包まれた会話は、俺の理解できる範疇を越える台詞で締めくくられた。

アパートに帰り着いたのは、まだ夕方と呼ぶには早すぎる時間帯だった。
本当ならまた街に出て少女の記憶の手がかりを探したかったが、今日ばかりはそれはできそうになかった。

『私も昔、君と同じくらいの若い頃、あの少女と出会ったことがある』

その言葉に込められた意味とは一体。
あの時、教員に食ってかかれば真相を知ることはできたのかもしれない。
しかしそれをさせない雰囲気を彼は纏っていた。
少女も気を遣ってか、どのような会話をしたのかは尋ねてこなかった。いや、尋ねられても俺は答えることができなかっただろう。
彼との会話をもう一度思い返す。
たった数分の、特に会話と呼べるかも怪しいやりとり。
けれど、その中で唯一話題に出てきたキーワードに辿り着く。
「丘…か」
それは名称もないあの場所を指し示していた。
少女と初めて出会った丘。
俺が人生の終着点に選んだ街から切り取られたような空間。
視線を窓の外に向ける。
ここからでは到底眺めることはできないが、方角はおそらく間違ってはいないだろう。

  ◇

少女と迎える三度目の朝。
今日も目覚めるのは俺のほうが早かったようだ。
布団の上では少女が幸せそうな顔をして眠っている。
その寝顔がとても儚いものに思えてしまうのは、やはり昨日の出来事のせいなのであろうか。
今日もいつもと同じように、コンビニで購入して来たパン類が目の前に置かれている。
「今日はまたあの丘に行ってみよう」
まだどこか意識がぼんやりしている少女に、そう声をかける。
「ふぇ?」
パンをくわえたままで要領を得ないと言った顔つき。
一昨日有力な手がかりがあるだろうと一番に向かった先だが、虚しくも空振りに終わった場所。
そこにもう一度足を運ぶ必要性があるのだろうか。
「念のためだ」
そう言って残りのパンを紙パックの紅茶と一緒に流し込んだ。
 
商店街を抜けると、人通りのまばらになった並木道が顔を出す。
 その並木道をしばらく歩けば、目印の石段を発見する。用がなければ登ることはなかった階段。
 幼いころ母親と行ったきりその存在すらも忘れていた。
 数日前、幾年ぶりかに味わったその感触。
 決して降りることはなかったはずのその石段。
しかし何の悪戯か、俺はあれから何度往復したことか。
 「疲れたよ〜」
 階段も半ばに差し掛かった頃、後ろを付いてきたはずの少女が泣き言を吐く。
 「後少しだろ、早くしろ」
大袈裟に肩で息をしながら、俺のほうに手を伸ばす。
「引っ張って」
その華奢で細長い指先を俺は平手で叩く。
アホか、と一言残して目と鼻の先まで近づいた頂上を目指した。
最後の石段を登りきると、そこには数日前と変わらぬ景色が待ち受けていた。
いや違う。
一つだけ明確な差があった。
何もない丘に、唯一そびえ立っている一本の桜の木。
その枝には、今では満開の花びらが咲き乱れていた。
「やっと着いた」
大きな息を一つ吐き、俺の後ろからやや遅れて到着した少女。
 二人肩を並べて散策するが、やはり記憶の手がかりになりそうなものはない。
 一体、彼は何を言いたかったのか。
 脳裏には昨日の男性の姿が思い浮かぶ。しかし彼の真意ははかりしれなかった。
 辺りを見回すものの、目につく物といえばペンキの剥がれたベンチくらいだろうか。
 特に広いわけでもないこの空間。
他に存在するものは、街を見下ろすようにひっそりと、だがそれでいて威厳を持って咲き乱れる桜ぐらいだ。
 「やっぱり、何もないね」
 いつものように穏やかな声。悪かったな、そんな台詞が思わず出ていた。
 「え、大丈夫だよ!だってコーイチは私のために一生懸命探してくれているもん」
 俺のほうを振り向き、体全体を使ってそう主張していた。
 自分でも何故そのような事を言ったのか理解できなかった。それに、俺は誰のために記憶の手がかりを探しているのだろう。
 少女のため?それとも、俺自身が一人に戻れるため?
 その疑問は風に運ばれて、街を覆う青空に吸い込まれていきそうだった。
 「そうか。ならいいんだ」
 同時に顔を仰いだ先には、視界を埋め尽くすほどの薄紅色。
 ふと俺は満開の桜に問いかける。
 最期には散る運命だと知りながら咲くことに理由はあるのか。
 それとも。
散る運命だとわかっているからこそ咲くことを選んだのか。
 その応えは返ってくることはない。
 気が付けば、すぐ横で少女はどこか神妙な面持ちで街を見下ろしている。
 (黙っていたら、結構可愛いものなのにな)
 そんな馬鹿なことがうっすらと頭をよぎる。
 そうしてしばらく無言のまま、どこから吹くのかもわからない風に二人は身を委ねていた。

結局、時間を無駄に浪費する結果に終わってしまったことを後悔する。 
元来た道を逆に辿りながら、並木道を通り抜ける。
木々の葉を揺らす風が、隣を歩く少女の長い髪をたなびかせた。
「ねぇねぇ」
俺達の会話の始まりはいつも彼女からだった。
「コーイチは学校行ったことあるの?」
どうもこいつは昨日行った学校のことが頭から離れないらしい。
しかしそれは記憶の手がかりではなく、ただの興味であることを俺は知っていた。
「それはもちろんあるさ。まぁ俺の場合は高校二年までだったけどな」
両親がこの世から姿を消した日。あの日から俺の生活は、一般の十七歳のそれとは全く違った容貌を見せたのだ。
「やっぱり楽しかった?」
興味深そうな表情で俺の顔を覗き込む。
彼女の顔がちょうど俺の目の前に現れた。
「まぁ…な」
楽しくなかったと言えば嘘になる。
あの当時の俺は、間違いなく高校生活を謳歌していた。
「へ〜。いいな、いいな」
よくわからないリズムで「いいな」を連発する少女。
「おまえだって学校には行っていたはずだろ。まぁあの高校じゃなかったみたいだけど、何処かの学校には絶対通っていたはずだ」
男性教員の言葉が再度甦る。
俺はその台詞に内包された意味を考えようとせず、根拠なく言い切っていた。
それは俺の単なる願望だったのだろうか。
隣を歩く少女が、特に同年代の子たちと大差ない生活を送っていたのであって欲しいという。
「そうなのかなぁ」
首を傾げて自問する。
どこか遠くを見つめる少女の瞳が、やけに哀しく見えた。
「まぁ、おまえ馬鹿そうだから成績は悪かっただろうけどな」
そんな表情に耐えられず、俺は冗談交じりの台詞を投げ掛ける。
「馬鹿じゃないよ!じゃあコーイチはどうだったのさ」
「俺は…まぁいいじゃねぇか」
少女の顔に笑顔が戻る。
その笑い声を聞いて安堵している自分がいた。
他愛のない会話を交わしながら、木漏れ日の中を時間は穏やかに流れていく。
 少女の存在が側にあることに、違和感がなくなりつつあった。
 (いけないな…)
 そんな生活に慣れてはいけないと、俺の中の誰かがそう諭している。
 彼女の身元が判明すれば、二人はもう他人同士。
 少女は元いた時間の流れに自身を置き、俺はその流れを終わらせるのだろう。
 二度と出会うことはない。
 そこに悲しみを感じることはなかった。
 だけど…。 
 何か得体の知れないものが、自分の中に芽生えていた。
「あ。見て、見てコーイチ!これ可愛いよ」
 商店街に差し掛かった所で、少女がまたもやウインドウショッピングを始める。
 石畳に作り出された二つの影は、どこまでも伸びていくようだ。辺りの街並が赤く染まった世界に姿を変える。
 流れる夕焼け。
また今日も一日が終わろうとしていた。
 「ほら、こっちだよ」
ウインドウから視線をずらすことなく、手招きで俺を呼ぶ。そこには、ピンクと白のチェック柄のワンピースが飾られていた。
深くため息をついて、また今日もそれに付き合ってやることにする。
「いいなぁ、可愛いなぁ」
ガラスに映った自分の顔が、笑顔であることに戸惑いを感じながら。

  ◇

それから数日の月日が流れた。
 来る日も来る日も、街に出て記憶の手がかりを見つける作業をする。
 行き交う人々が乱雑する駅前。
 日溜りが優しく作り出された公園。
 日常とは違った色合いを見せる、山の中に建立された神社。
 だが、未だに少女は俺のアパートに住み着いている。
 進展なし。
 少女には内緒で警察に捜索願が出されてないか問い合わせてみたが、空振りに終わっている。
 もしかしたらこのまま記憶も戻らず、住所も捜し当てられないのではないであろうか。そんな考えが頭をよぎる。
 もはや俺一人の手でどうにかなるものでもないことに、薄々ながら気付き始めていた。
今日はとある場所へと向かうことにした。
 部屋に残してきた彼女は、おそらく自分の洋服を洗濯していることだろう。
 「おまえ、この一週間ずっと同じ服じゃねぇか」
 当たり前といえば当たり前なのだが、少女に替えの服装など存在するわけがない。
 「う、うん…」
 仕方が無いことなのに、決まりが悪そうに言い淀む。
 思ったとおりの反応。
 こいつは例え自分のせいでなくても、まるで自分の責任であるかのように考えてしまうのだ。
 「いいからおまえは今日、ここで洗濯していろ」
 そう言い残して俺は一人アパートのドアを開けて出てきたのだ。
女の子なのに洗っていない服を着させておくのが不憫に思えたのも事実だが、本当の思惑は別の所に存在した。
 かつて少女と二人で訪問した学校が目の前に現れる。
 あの男性との会話は、どうしても彼女に聞かせてはいけない気がしていたのだ。

「どうも」
 数日前に一度出会った教員。今日もその日と同じように応接室に通された。
 突然訪問して一体どんな感じで始めればいいかわからなかったが、口から出た言葉は意外にもありふれたものだった。
 とりあえずお互いの自己紹介だけ済ませる。
 この男性の名は、北条健二というらしい。
「お茶はいるかね?」
 この前と変わらず疲れたシャツを身に纏っている北条。
 「いえ、大丈夫です」
 せっかくだが、その好意を遠慮して俺は本題に入った。
 「あの記憶喪失の少女のことですけれど…」
 彼は自分で入れたお茶を一口飲んで、深いため息を吐く。
 「まぁ、来るだろうなということはわかっていたよ」
 その言葉を聞き流して、なおも俺は続ける。
 「アイツと出会って一週間、この街をしらみつぶしに探し回りました。けれども、誰一人として知り合いはおろか、顔を見たという人物すら見つけ出せませんでした。警察に届けられた捜索願もない…」
 そこで一息つく。
目の前には唯一の手がかりとも言える人物がソファに腰をかけて話を訊いている。
「一体アイツは何者なんですか」
反応が無いことに対しての苛立ちを含んだ声。しかし眼鏡の奥の眼は終始落ち着いていた。
「記憶を無くしてしまったというのは、随分やっかいだね」
そうしてポツリと一言呟いた。それは俺に向けたものなのだろうか。
しばらくの沈黙。
窓の外からは体育の授業と思える歓声が遠くに聞こえる。
俺は彼から一度も視線を外すことなく、ただ次に告げられる言葉を待っていた。
すると北条はゆっくりとした動作で立ち上がり、ブラインドのかかった窓に近づいていく。
その行動を俺は目で追っていく。
「もうすぐだね」
ブラインドを軽く指で開けながら、外に広がる景色を眺めている。
「もうすぐ、とは?」
たまらずに聞き返す。
要領を得ない目の前の男に苛立ちが抑えきれない。
「もうすぐ彼女の正体がわかるはずだよ」
窓に背を向け、こちらを振り返る。
「ただし、君も覚悟しておきたまえ。出会いというのは別れも共にあるのだから。彼女の存在が君の中で大きければ大きいほど、君の受ける哀しみはそれに比例するだろう」
手入れのされていない髪、穏やかなその眼からは想像はできないほどの圧迫が感じられる。
「それは、一体」
もはや怒りなど忘れていた。
あるのはあせりか、それとも恐怖か。
「私も、かつて彼女と出会ったと言ったのは覚えているかね」
無論、忘れるはずがない。
首だけを縦に動かす。
ゴクリと、生唾を飲み込んだ。
「その時彼女は記憶を失ってはいなかったが、私は彼女と約二週間の時間を共に過ごした」
ふとその言葉に違和感を覚える。

『その時彼女は記憶を失ってはいなかった』

何を当たり前のことを言っているのだろう。
彼女が記憶を失ったのは俺の目の前での出来事だ。今更明言することでもないのではないか。
理解できないまま、しかし北条の話は続く。
「二週間。もう四十年近く生きてきてはいるが、あの二週間ほど大切に思える時間はないだろう」
眼鏡の奥の瞳は、当時の情景を見つめているのであろうか。
彼の意識はすでにこの応接室から解き放たれ、どこか遠くを旅しているように思われた。
「わずかな時間だったが、彼女に惹かれるには充分すぎる時間だったようだ。一日一日が、一瞬一瞬が煌めいていたのを覚えている」
そうして彼の視線が、過去から現在に戻ってくる。
「私にも、若い頃というものが存在したのだよ」
少し自嘲気味な笑いを俺に向けた。
「…どうして、その時間は二週間で終わってしまったのですか」
訊くことは躊躇われたが、俺はどうしても知っておかなければならないことだ。
またもお茶を一口含んで、喉の渇きを潤す。
「別れるべき時が来たからだよ。国沢君と言ったね、君が彼女のことをどう思っているかはわからないが、絶対に後悔だけはしてはいけないよ」
その言葉の真意は一体何なのか。
今の俺には理解できる範疇を超えていた。
去り際にもう一度少女の正体を尋ねたが、
「それは君自身の目で確かめるべきだ。私が口出しすることではない」
謎の台詞をもってして終わらされてしまったのだ。

アパートの自分の部屋に帰り着く。
玄関の音に気が付いたのか、少女が満面の笑みで出迎えてくれた。
「おかえり」
まるで同棲でもしているかのような錯覚にも陥る。
ふと、目の前の笑顔を確かめる。

『君が彼女のことをどう思っているかはわからないが…』

果たして俺の気持ちは何処にあるのだろう。
自問したところで答えなど見つかるはずもなかった。
不思議そうに見返している顔に、ただいま、と一言告げる。
満足そうにはしゃぐ彼女に、自然と頬が緩んでいた。

  ◇

何かが窓ガラスを打つ音で目が覚めた。
 重たい瞼をこすりながら、カーテンを開ける。
そこには昨日までの青空は姿を潜め、大粒の雨が降り注いでいた。
 今日は外に出たくないな。
 そんな思考が頭をよぎる。布団にくるまり、気持ちよさそうに寝ている少女を眺める。早く身元を捜し出さないといけないというのに。
 まだ当分起きることのなさそうな少女をよそに、買い溜めしておいたインスタント食品   
にお湯をいれる。
 タイマーを指定の時間だけセットする。
 (止んでくれないかな…)
 窓の外。遠い空の彼方を見据えるが、灰色の雲はどこまでも世界を覆いつくしていた。
 しばらく雨で濡れた景色を眺める。
 本当なら一週間前に俺は、あの重たくのしかかるような雲の上に逝っていたはずだ。
 いまだに此処に留まっている自分。しかし最近、それを受け入れてしまいそうになる時がある。
 ゆっくりと視線を部屋の中に戻す。
安らかな寝息をたてている少女。
この存在が俺の全てを狂わしていくように感じられるのは、果たして思い過ごしなのだろうか。
 遠くでタイマーの鳴る音が聞こえてきた。
 
昼になっても、雨は止むことはなかった。
それどころか風も強くなり、嵐と呼ぶにふさわしい気候へと移り変わっていた。
 テレビの天気予報によれば、この雨は明日まで続くらしい。
 (今日は無理だろうな)
 この激しく吹き荒ぶ嵐の中を、記憶の手がかりを探して歩く気にはなれない。
 少々悔しいが、今日は休戦日としよう。
 ふと、俺は数日前に行った丘を思い出した。この雨の勢いでは、満開の桜も止んだ頃には見る影もなくなっているに違いない。
 「ん…」
 背中のほうから声が聞こえた。
どうやら目を覚ましたようだ。だが時刻はすでに午後を回っている。
相変わらず能天気な奴だな…。
 「やっと起きたか。こんな時間までぐっすり寝ているなんて、おまえは自分の置かれている状況がわかっているのかよ」
 呆れ混じりの挨拶をする。
けれども返ってきた言葉は、挨拶には似つかわしくない台詞だった。
 「ねぇ、なんか頭いたいよ」
 息が荒い。
反射的に顔を覗き込むと、どこか赤くほてっていた。
 「大丈夫か」
 少女の肩に手を回し、体を起こした。もう片方の手は額に当てる。
年頃の女の子の顔に触れるというのは、少々のためらいがあったが、緊急事態のため大目に見てもらうことにする。
 見た目よりも小柄だった頭は、ひどく熱を帯びていた。
 「なんか、くらくらする」
 そう言ってかすかに笑みを浮かべたが、すぐに元の苦痛に苛まれた表情に戻る。
 「心配するな、ただの風邪だ」
 少女をもう一度布団に寝かせる。
 俺は台所に薬を取りに行ったが、どこを探しても見当たらない。
 部屋に戻ると、布団の上から苦しそうな息遣いが聞こえてきた。
「待っていろ、今薬と何か食うもの買ってきてやるから。ちゃんと寝ていろよ」
 早口でそう言うと、少女の返事を待たずに俺は部屋を飛び出した。
 アパートの階段を駆け下りる。
聞こえるのは、どこからやってくるのかわからない嵐の叫びと、アスファルトに叩き付けられた雨音のみ。
それらは、まるで俺に何故そこまでするのか、とあざけ笑っているようにすら思えた。
 よくあることだ、寝ていれば明日には治るだろう。
けれども、言い知れぬ不安が脳裏をよぎっていた。

『君も覚悟しておきたまえ』

昨日の北条の声が甦る。
その穏やかだが深い意味を持つ言葉の欠片が、俺の焦燥感をなおも駆り立てる。
「たかが風邪じゃないか」
我慢できず、わざと声を出して呟く。
だがそれは吹き荒れる風がどこか遠くに飛ばしてしまう。
それどころか片手に持った傘までも強奪しようとする。両手で力強く握り返し、俺は一歩一歩足を踏み出す。
まるでその先に答えがあるかのように。
一体俺は何を心配しているのだろう。
行きがけに垣間見た少女の笑顔が、今日の空のように暗く沈んでいたからであろうか。
それとも…。
 
答えが出ぬまま、気が付けば薬を携えて部屋に舞い戻っていた。
 「ごめんね」
 赤くほてった顔ですまなそうに言う。辛そうだが、その瞳にはいつもの純粋さが残っていた。
 急いで帰ってきたため、息が弾んでいる。
 「薬を飲む前に、まず何か食わないと。食えるか?」
 それでも幾分か落ち着かせて、静かに少女に問う。
 「うん、頑張るよ」
 ほのかに笑いをこぼす。
それを見た俺は、心の奥底で沈殿していた鉛のようなものが、少しだけ取り除かれたのを感じた。
 
そろそろ夕暮れの時分だろう。普段なら窓の向こう側には、赤く染まった世界が広がっているはずだ。
だが今は、雨は小降りになったものの、なおも地面を潤し続けている。
 少女の呼吸は、昼間よりは幾分落ち着いてきたであろうか。
規則正しい寝息が、静まり返っている部屋に、唯一のメロディーを奏でていた。
 何度目になるだろうか。少女の額に、氷水で冷やしたタオルを軽く乗せてやる。
その冷たさが気持ちいいのであろう、表情がどこか柔らかくなったのを感じた。
 「――…」
 疲れていたのかもしれない。
 少女の汗で濡れた前髪を眺めながら、そんなことを考える。
 記憶喪失。
自分が何処の誰だかもわからない、「自分」というものに確信が持てない。
それは、生きる意味がわからないという俺の悩みよりも重く、そして辛い足枷となって少女を苦しめているのかもしれない。
 (そんな風には見えなかったけどな)
 くすり、と思わず笑ってしまう。
 だが、そう感じさせないように、少女が演じていただけなのだろうか。
故意にではなく、この少女の性格が自然に、そして本能的に。
 気付けば、二つの瞳が俺を見つめていた。
 「風邪、大丈夫か」
 少しだけ顔色が元に戻りつつある。
 「うん」
 そう呟き、ごめんね、と申し訳なさそうに付け足す。
 「疲れていたんだろう。気にするな」
 しかし、その問いに答えることなく、少女は俺の服の裾を掴む。
 握っているその手には、まだ病みあがりの弱さが見えた。
 少女は口を開こうとはしない。
いや、開きかけるが閉ざすという動作を、数回繰り返していた。
 何回その動作を行ったであろうか、意を決した目が俺に向けられる。
 「コーイチ、あのね」
 何か、只ならぬ雰囲気が言葉に込められていたために、俺は反射的に背筋を伸ばす。
 「なんだ」
 しかし、努めて冷静に訊き返す。
 「私、この数日間で、いろんなところ行ったよね。商店街とか、駅前とか、近くの学校まで」
 何も言わず、ただ少女の声に耳を傾ける。
 今も小さく雨の滴る音が聞こえてきた。
 「でもね、どこも何も感じなかった。ただ一つの場所を除いては」
 「あの、丘か?」
 問い返すような口調とは裏腹に、それはどこか確信に満ちていた。
ゆっくりと頷く彼女は、しかしまだ何か言いたげだ。
 「他に、何か思い出したのか?」
 今まで答えも、その解き方すらわからなかったパズルが、まるでただ一つのピースによって、すべて明らかになるのを予感するような。そんな期待ともどかしさが、高まる興奮を抑えられない。
 「うん…。思い出したというか、あの丘に長い間ずっと居た気がする」
 少女と出会って二日目に行った、あの丘。
確かにあの時も、こいつは懐かしいと言ったのだった。
(でも、あの丘の周りには)
 視線は天井の隅の虚空を見据えている。
 (他にあの場所にあったものと言えば)
 言い知れぬ不安の正体とは、これだったのであろうか。
 そして、あの男が隠している真実も。
 「明日、もう一度あの丘に行ってみるか」
 期待通りの返答だったのであろうか、少女はすぐに賛成した。


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