一ヶ月前、私はできるだけ不自然にならないよう、城門の入口付近をうろついていた。 その日は文句のつけ所がない快晴だったので、私は呑気に散歩している少女にしか見えなかっただろうが、できるだけ門兵の目につかないよう最善の注意を払っていた。 しばらくして、城下町の方から鮮やかな赤髪が、こちらに歩いてくるのが見えた。 「おや、ルビニさん」 私は偶然を装って、小走りで近寄る。 「どうも、こんにちは。今日はいい天気ですね」 「おお、アリヴィン。おまえは散歩か?」 「そんなところです──そういえば、昇級試験の結果はどうでしたか?」 何気ないふうに本題をぶつける。 今日の午前中、三級騎士であるルビニさんは二級の試験に挑戦したのだ。二級の試験はとても過酷だと聞いている。私は彼が落第しやしないかと気が気じゃなく、いち早く結果を知りたいがあまりに、こうして待ち伏せなんかしてしまったのだった。 しかし、私の心配は杞憂に終わったらしい。 「バッチリだ」 グッと親指を立てる。それは無事に合格したというサインだ。 「あとは国王様に合格を伝えれば、今日から俺も二級騎士の仲間入りってわけさ」 「よかったですね。おめでとうございます」 「しかし、まさか途中でおまえに会えるとはな。丁度よかった」 「……はい?」 言葉の意味が分からず、思いっきり首を傾げる。 だが、私の混乱などよそに、ルビニさんは機嫌よく声を弾ませる。 「ちょっと頼みたいことがあったんだ。後で探そうと思っていたんだが手間が省けた」 「頼みたいことって……なんです?」 「実はな……」 キラン、とルビニさんの目が爛々と輝く。 「二級騎士になったことだし、ちょっと北方調査にでも行ってみようかと思うんだ。それで是非ともおまえに同行してもらいたくてな」 「へ……」 北方調査がなんであるかが分からず、ポカンと口を開く。 だが、それが二年前にカルネオルとサフィールが断念した〈地図〉制作計画の一部であることを思い出した直後、私は人目を忘れて叫んでいた。 「ええええっ!? ちょ……それってアラクネのいる雪山に行くってことですか!?」 「もちろん、そうだが?」 「あの特級騎士でも倒せなかった黒痣がいるんですよ!? なんでそんなところに……!」 「バカだなぁ。あの二人にできなかったことだからこそ、成し遂げる意味があるんだろうが」 はははっ、と軽やかに笑う。 その能天気な笑い声に、私は全身の力を奪われてしまう。 「……わかりました、その点はとりあえず納得しておきます。ですが、なんでその同行者として、私が選ばれるのですか?」 そこが最大の疑問だった。たしかに私は五級騎士でルビニさんとも親しいが、彼の幅広い交友関係の中にはもっと上級の騎士がいるはずだ。わざわざこんな生意気な小娘を選ぶなんて、どうにも理解しかねる。 「や、ほかにも三人ほど誘いたいやつはいる」 「二級や三級の騎士ですか?」 「いいや、七級と八級と十級だ」 ますます訳がわからない。なぜ危険だとわかっている旅に、敢えて戦力になりそうもない下級の騎士を連れて行こうとするのか……。ルビニさんの力になりたいのは山々だが、その意図がちっともわからず、私は頭を抱えて大いに悩んだ。 すると、それに見かねたのか、ルビニさんがポツリと言葉を足した。 「いや、おまえたちの実力は買っているし、それに、その……」 なぜだか弁解口調で続ける。 「……おまえたちは俺が何級だろうと、わりとハッキリと物を言うだろ? いくら俺が上下関係を気にしないからって、大抵のやつは多少なりとも遠慮して、あんまり自分の意見を通そうとしないんだ。自分より上の立場のやつに、ちゃんと意見できるってのは立派な長所だし、少なくとも俺はおまえたちを尊敬している」 いまいち脈絡のない言葉に、私はその真意を測りかねる。 すると、ルビニさん自身も焦れったそうに頭を掻きむしった。 「だぁから……おまえたちに俺の監視を頼みたいんだよ」 「監視? あなたの……ですか?」 「そうだ。俺はわりと無理や無茶を押し通そうとする性格だからな、自分の手に余ることにも意地になって突っ走っちまう。だから、俺が取り返しのつかない無茶をしでかさないよう、おまえみたいな歯止め役がいて欲しいんだ……」 言葉尻を窄めながら、しゅんと前髪を垂らす。 その情けない姿が二級騎士らしくなく、私は思わず噴き出した。 「つまり、私たちに猛犬の綱を握れと?」 込み上げる笑いを抑えながら、すっと手を伸ばす。 「かまいませんよ。こう見えても、犬の躾には自信があるんです」 すると、ルビニさんの顔色がパッ明るくなり、私の手をギュッと強く握ってきた。 その反応を見て、私は内心でほくそ笑む。 実のところ犬なんて飼ったことはないし、その躾の自信なんてどこにもなかったのだが、この単純明快な青年なら楽に手懐けられそうだ。
* * *
──……夢のスクリーンに映し出された過去の再現は、朝の訪れと共にあっさりと消えた。 私を目覚めさせたのは、早朝の鐘の音でもなければ小鳥のさえずりでもなく、ましてや王子様のキスでもない。テントの何にふわりと迷い込んできた、食欲を刺激するまろやかな香りだった。 「うぅん……」 瞼を擦り、テントから這い出る。 鼻先をひくつかせて匂いの元を探ると、それは数秒とかからず発見できた。 早朝の冷えた空気の中、丸めた毛布を椅子がわりにして腰掛ける、ルビニさんのどこか儚げな後ろ姿──の横に、温かい湯気を昇らせる大鍋があるではないか。幾種もの野菜が蕩けた香りは、あそこから溢れ出ているらしい。 「……おはようございまふ」 睡魔を引きずったまま挨拶すると、ルビニさんはこちらに首を回してきた。 「おはようさん。今日はやけに早起きなんだな?」 木々越しに見える空はまだ白い。テントの中を振り返ると、四日間の遭難生活に疲れきった三人の寝顔が転がっていた。起床時刻まで、まだ一時間くらい余裕がある。 それでも私がテントに戻らなかったのは、眠っている彼らよりも一足先に、大鍋の中のものにありつけるんじゃないかという下心があったからに他ならない。ルビニさんは意外と料理上手なのだ。食欲が睡眠欲を凌駕した歴史的瞬間である。 眠気に耐えながら立ち上がると、ルビニさんがおもむろに水筒を投げて寄越してきた。 「それでも飲んで目を覚ましとけ。汲んできたばかりだから冷たいぞ」 「……ふぁい」 勧められるがまま水筒に口をつける。 明け方の大気によってキンキンに冷やされた流水は、私の口内から寝起き特有の粘り気を洗い流し、たったの一口で頭の靄を晴らしてくれた。 「美味かったろ? 近くで湧き水を見つけたんでな、起き抜けに汲んできたんだ」 「はい。おかげで目が覚めました」 「じゃあ、次はそのボサボサの髪をなんかしとけ。雑草みたいだぞ」 「……黙ってください」 私は予備の毛布が入っている荷物袋をルビニさんの横に置いて、それに腰かけた。 受け取った水筒を地面に置き、まずは好き放題に跳ねまくっている髪を手櫛で整える。それを後頭部で左右に分けてから、さらにそれぞれで三つの髪束をつくる。その髪束を順番に編んで、先端を細い紐でギュッときつく縛れば完成だ。 「……器用なもんだなぁ。それって自分で結んでいたのか」 結ったばかりのおさげを見て、ルビニさんが感心しきったように呟く。 「何言ってるんですか。小さい子じゃないんだから、これくらいできて当然ですよ」 「いや、俺の姉さんは結べないぞ。腰まである長い髪を、いっつも邪魔そうに垂らしてる」 その言葉で、私は彼に姉がいるのを初めて知った。 「たぶん、それは結べないんじゃなくて、単にファッションとして結ばないだけかと……」 「そうか。そんなもんなのか」 いまいちピンとこない、という顔で首を傾げる。どうやら男性にとって、女性が髪型に注ぐこだわりというのは、理解に苦しむもののようだ。 すると、ルビニさんがおもむろに水筒を掴み上げ、自前のカップに水を注ぎだした。 それが終わると、ポケットから何から白い粒のようなものを取り出して、何気ないふうにカップの中へと投入する。ぽちゃん、と小気味よい水音が控えめに響く。 「何を入れたんですか?」 気になって尋ねてみると、端的な答えが返ってきた。 「薬」 なるほど、先ほどチラリと見えたのは白い錠剤だったのか、と納得する。 「なんの薬ですか?」 「ビタミン剤。姉さんのオススメでな、とっても肌に良いらしいんだ」 抑揚を欠いた口振りは、あらかじめ用意された台本をなぞっているようにも思われた。 だが、確かにルビニさんは雪白の肌をしている。もし、これが生まれつきのものでないとしたら、そのビタミン剤とやらの効果ということになるのだろう。 (……私も肌の手入れとかした方がいいのかな) そんなことを考えている間に、ルビニさんがカップの中身を一気に飲み干した。 ごくり、と嚥下に合わせて脈打つ乳白色の喉仏が、やけに艶かしい。 薬を飲み終えると、ルビニさんは手際よくカップを片付けた。そうした手つきがまた実にスムーズなので、彼がその薬を日常的に愛飲しているのは間違いないようだ。 となると、やはり美白の秘訣はそこにあるのだろうか……。 私は意を決して、その魔法の薬がどこで売られているものなのかを訊くことにした。 「あの、ルビニさん──」 しかし、そこから先が喉につかえた。 森の合間を吹き抜ける微風。 朝露に湿ったそれが、草木の青臭さをまとって、不穏な金切り声を運んできたのだ。 言語の体を成していない、切迫した甲高い声。 人間の悲鳴だ。
ルビニさんは荷物から自前の長槍を取り出し、弾けたように駆け出した。 私も愛用のナイフを手に取り、少し遅れてその後を追う。 行き先を確認し合う必要はなかった。絶叫の聞こえてきた方角は、あからさまなほど明確だったのだから。声量から察するにそう遠くない。 (間に合って──!) 激しい焦燥に胸を焦がされ、樹木に遮られた道なき道を無言で疾走する。 間もなく、ルビニさんの背中の向こうに、草木とは異なる影が飛び込んできた。 一面の緑の中、それの黒っぽい毛皮はとてつもなく目立った。 熊だ。巨体の、という形容詞がまっさきに思い浮かぶほど大きい。 その体毛に模様がないところから黒痣でこそないようだが、それでも高らかに振り上げる爪は鋭く、敵意に歪んだ口元でギラついている牙も太く強靭だ。 そして、そいつの足元には肌色の丸っこいものが落ちている。 蹲った少年だ。頭を抱えるようにして縮こまっている小柄な体躯は、まだ骨格がちゃんと出来上がっておらず、私より幼い子供であることは明らかだった。おそらく十歳にも満たないだろう。 「アリヴィン! おまえはあの子を!」 「はい!」 指示されるがまま、私は少年の方へと思いっきり跳んだ。 両手を広げて、飛びつく。 頼りなげな身体は両腕にすっぽりと収まった。 その仄かな体温をしっかりと抱きしめて、もう一度、渾身の力で地面を蹴って跳ぶ。 その場から離れることが目的だったので、特に逃げる方向は定めていなかった。 結果、私たちは真横にすっ飛んだ。 視界が目まぐるしく回転し、すべての景色が曲線を描いて視野の外へと流れていく。 二秒後、私の背中はすぐ近くにあった茂みに突っ込んだ。朝露で濡れた枝木がクッションとなり、跳躍の勢いが完全に殺される。私にダメージはない。 すぐさま、ルビニさんを目線で探す。 彼の姿は瞬時に見つかった。 私たちを庇うように、大熊の前に凛然と立ちはだかる背中。その後ろ姿には一切の恐怖心がない。ただピリッと張り詰めた緊張感のみが感じられる。 すると、片腕に携えた長槍を、不意にヒュンと半回転させた。 それが合図だった。 ルビニさんのしなやかな肢体が軽やかに舞う。 すらりと長い脚が刻むステップは、まるで異国のダンスでも踊っているかのように奇妙にして複雑。その動きを目で捉え続けるのは難しい。大熊の警戒を掻い潜り、あっという間にその懐深くに飛び込んでしまう。 (今です!) 私は喉を通さずに叫んだ。 その音のない声に呼応したかのように、長槍の先端が大熊の喉元にまっすぐ突き出される。 直後。肉を穿つ、くぐもった濁音。 次いで、鋭い牙に守られる大熊の口内から、ドパッと唾液が勢いよく溢れ出る。 だが、そこから鮮血らしいものは一滴もこぼれてこない。 (あれ……?) 不審に思って目を凝らすと、疑問は簡単に晴れた。 本来なら大熊の血肉を貫いているはずの矛先が、地面の近くで凛然と輝いているのだ。 なんてことはない。ルビニさんは敢えて殺傷能力の乏しい柄の部分で攻撃したのだ。思い返せば、彼が最初に槍を半回転させていたのは、このための前準備だったに違いない。 すると、熊は白目を剥いてあっけなく仰臥した。 微かな振動が地べたを這って、辺りの木々をささやかに揺する。 「ふぅ……」 ルビニさんは短く息を吐いて、大熊の唾液で汚れた長槍をヒョイと肩にかけた。 その柔らかい仕草から疲労は一片も感じられない。むしろ、朝の日課をつつがなくこなしたといった感じの、爽やかな充足感が漂うばかりだ。 その立ち姿は、ゆるりと差し込んできた白い朝陽にとてもよく映えている。
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