「──っていうことが二年前にあったそうだ」 「へえ」 鬱蒼とした森の中、ただ黙々と草木を掻き分けているだけでは辛いだろうと、退屈しのぎに語られた昔話は、まだ人生経験の乏しい私にとってはなかなか興味深いものだった。 「かの特級騎士でも負けちゃったりするんですね」 「そりゃそうだ。誰だって何かには勝てるが、何かには負けちまうもんだよ」 「それ、誰かの格言ですか?」 「知りたいか? じゃあ特別に教えてやろう!」 私の前を歩く赤髪の青年は、待っていましたと言わんばかりに声を高くした。 「ルビニ・クォーツ──つまり俺の格言だ。メモしてくれてかまわない」 「……メモしたところで、丸めて捨てるくらいしか使い道がありませんけど」 大袈裟に嘆息しながら、左右に生い茂る枝木を払う。強引に突き進むこともできるのだけれど、それをすると私の若草色のおさげは葉っぱまみれになってしまい、後で念入りに髪を洗わなければいけない。そうした手間はできるだけ省きたかった。 「ああ、でも」 両手で髪をガードしたまま、私はククッと意地悪く笑ってみせる。 「それって二級騎士のルビニさんでも、誰かには負けちゃうってことですよね?」 「当たり前だろうが」 意外にもあっさり肯定されたので、私はギョッと面食らってしまった。いつも自由奔放に飄々と振舞っているこの人なら、ちょっと前の自分の発言なんてものは調子よく反故してしまうものだと思っていたのだ。 何より、彼の辞書に『敗北』という言葉が存在していたこと自体、驚きだ。 国内でも有名な富豪家の長男として生まれ、二十一歳という若さで二級騎士の地位に就き、持ち前の気立ての良さから人望にも恵まれる……そんな何一つとして欠陥のない人間が、順風満帆だったであろう人生において、人並みに敗北感を味わっているとは考えにくかった。 「……で、その後はどうなったんです?」 わずかな間を挟み、私は話の流れを戻す。 「その後?」 「だから、国に戻ってきたカルネオルは、今どうしているんですか?」 「なぁんだ。アリヴィンは五級騎士のくせに、そんなことも知らんのか?」 そう言って、悪戯っぽく細まった目が、チラリとこちらを振り返る。 なんの予告もなしに、形のよい鼻先が目にとまって、 (ひゃっ!) 胸の中心から悲鳴が上がった。その後もドキドキと激しく脈を打つ。 ルビニさんは頭髪こそ猛々しい真紅に燃えているが、小ぶりな顔に埋め込まれている切れ長の双眸は、まるで春先の湖面を映したかのように穏やかだ。肌は真珠と水晶を溶いて塗ったように白い。それでもひ弱な印象を受けないのは、神秘的なほどに長い脚のおかげだろう。 (……いきなり振り向くのは、反則でしょう) 美男子、というほど華美ではない。 繊細な顔立ち、と表現する方が妥当だろう。 ルビニさんの容貌は、スポットライトをガンガンに当てて見世物にする世俗的なものではなく、飾り気のない花瓶に一輪添えて楽しむ類のものだ。宝飾品というよりは詩に近い。 その端正な顔をあえて崩すように、ルビニさんがニッと歯を見せて笑う。 「そうかそうか、いくら五級でも中身はおチビってことだな。まだまだ世間知らずだ」 「おチビは余計ですっ!」 赤面した頬を隠すため、プイと顔を背ける。 「私はもう十四歳ですよ。そろそろ気の利いた口説き文句でも考えてはいかがです?」 背丈が百八十センチを越えるルビニさんに向かって、年のわりに恐ろしくチビの私が生意気に反撃している光景というのは、我が事ながら滑稽の一言に尽きる。まるで昔ながらのコメディだ。 そう自覚したわけでもないだろうが、ルビニさんは可笑しそうに笑みを深めた。 「はいはい、アリヴィンは立派な淑女です……で、なんの話だったか?」 「だから、無事に下山したカルネオルは、今どうしているのかって話ですよ」 「ああ、そうだった」 さもたった今思い出したかのように、わざとらしくポンと手を打つ。 「まぁ、それを語るにはちょいと二年前の続きを話さなきゃならんのだが──雪山を下山して国に戻ってきたカルネオルは、着の身着のまま、国王様に雪山の状況を伝えに行ったんだ」 「口頭で、ですか? 調査用紙を提出したというわけではなく?」 「調査用紙の提出とは別に、だ。主にアラクネの存在について報告し、すぐさま、これの討伐隊を編成して派遣するよう申請したらしい」 「ずいぶんと急ですね?」 細かいことだが訝しがらずにはいられない。討伐隊を組織すること自体は別段おかしくないが、普通、それは雪山やアラクネについて充分な情報が出揃ってから行うものだ。現状の把握もままならない内に再戦を挑むというのは、あまり現実的でないように思われる。 「特級騎士のプライドを傷つけられたんで、頭に血が上っていたのかもしれん」 その辺りの理由については判明していないらしく、ルビニさんも曖昧に答える。 「で、もちろん国王はそれを却下した。討伐隊の編成にはもっと時間が必要だとな」 「まぁ、それが当然なんですよね」 「だが、ヤツにとっては当然でなかったらしい。その国王の判断にカルネオルは激昂して……」 そこで、ルビニさんは不穏な沈黙を挟んだ。とっておきの怪談話のクライマックスでも披露するかのような間の置き方だ。 数秒後、いきなり声を破裂した声によって結末は明かされた。 「ヤツは国王の横っ面を殴り飛ばしたんだ!」 「ええっ!?」 急転直下のラストに驚愕する。つまり逆ギレしたということか。 「そして、カルネオルは国王に手を挙げた罰として、騎士の資格を永久に剥奪されることになったんだ。それ以降、ヤツがどこで何をしているか知っている人間は一人もいない。まぁ、元から友人や知り合いなんて少なかったみたいだからな」 「……どこかで野垂れ死んだとか?」 「それはないんじゃないか? 南方調査の成功報酬として、かなりの大金を受け取っていたはずだから、衣食住に困っているなんてことはないはずだ」 ルビニさんはあっけらかんと言うが、私はあくまで、カルネオルは既に亡くなっているんじゃないかと考えた。 聞いた話によると、カルネオルとサフィールの交流は深く、それこそ恋愛関係にあるんじゃないかと勘繰られるほど仲睦まじかったという。そんな特別な友人に先立たれれば、誰だって自分の首を縄で括りたくなるだろう。それを実行してしまった可能性は大いにある。 「だが、いきなり殴られた国王も、かなりダメージがデカかったそうだな」 「あ、それは私も知ってます」 私は明るい声を出して、脳裏にあった死のイメージを外に追いやった。 先代国王が目にかけていたこともあり、国王はサフィールとカルネオルの二人をたいそう気に入っていたらしい。重要な任務はいつも彼らに一任していたそうだ。その片方に死なれ、もう片方に殴り飛ばされたことで、すっかり意気消沈した国王は、自室から滅多に顔を出さなくなってしまったのだった。 「国務とかもまったく手をつけていないんでしょう? ひどい話ですよね」 「いや、あの人は元からやってなかったけどな」 キヒヒ、とルビニさんが喉を鳴らす。 「けど、まさか〈地図〉制作までストップしちまうとはな。あれにはさすがに戸惑った」 そう、国の悲願であるはずの〈地図〉制作は、国王が引きこもると同時に完全凍結してしまったのだった。なんせ計画の指揮をしていたのが国王自身だったのだから無理もない。 つまり、私たちは実に二年ぶりの北方調査隊ということになる。 九日前に国を発ち、現在はカルネオルの記した調査用紙を元に、例の雪山を目指している途中だ。書かれている記述によると、この森を抜けた先にあるらしい。その情報だけ聞くと、目的地は目と鼻の先に思われるが……現実はそう上手くいってはいなかった。
「──あれ?」 ふと、私は少し離れたところから、ガサガサと葉を掻き分けるような音を聞いた。 野生動物かと警戒し、腰に提げているナイフに手を伸ばす。 しかし、葉擦れに人間の話し声が混ざっていることが分かって、ホッと息を吐く。 「彼らが戻ってきたんですかね」 「だろうな」 案の定、茂みの向こうから現れたのは、銀鎧をまとった三人の男たちだった。 先頭にいた大柄の男は、私たちの姿を認めると、すぐさま陽気に手を振ってきた。 「ああ、ルビニ隊長。今日の野営によさそうな場所が見つかりましたぞ」 トルコさんだ。五十代になっても七級騎士をやっている元気なオジサンは、山男を思わせる色黒の強面に、人の良い柔和な笑顔を浮かべている。 「ご苦労さん。悪いな、おまえたち三人に丸投げしちまって」 「いえいえ……ところで、今はお邪魔してはいけない場面でしたかな?」 「は?」 ギョッと目を見開くルビニさん。 すると、トルコさんの後ろから、二つの人影が身を乗り出してきた。 「え? え? え? お邪魔してはいけない場面って、どういうことですか?」 片方は、今年で十七歳を迎える十級騎士の青年だ。人懐っこそうな垂れ目が印象的な彼は、低俗な好奇心を剥き出しにして、私とルビニさんを交互に観察してくる。 そんな垂れ目の肩を、もう一方の男性がたしなめるように叩く。 「よさないか。隊長が年下の少女に手を出そうと、それは君の関与すべきことじゃない」 彼は三十代半ばの八級騎士なのだが、目がくっきりとした童顔であるため、どう見ても二十代半ばにしか見えない。ピンと伸びた背筋も実に若々しい。唯一、淡々とした口調にのみ、年齢相応の落ち着きが現れている。 三人から一斉にからかわれたルビニさんは、片眉を下げて困り顔を作った。 「よしてくれ。この俺が、重要な任務中に色恋沙汰にかまけるわけないだろ?」 「何言ってんすか、この色男! いけませんよ? いたいけな女の子を誑かしちゃあ!」 「いやいや、人の恋路を邪魔してはいかんぞ。わたしは二人を全力で応援させてもらおう!」 「僕も気にしません。ただ、子供にだけは注意してください」 「とんでもないことをサラッと言うなぁ!」 ルビニさんが声を荒げて嘆くと、三人は三者三様にドッと笑い出す。 「いや、充分に考えられることですよぉ! え〜、お客様の中に助産師さんは〜……」 「あぁ〜……このバカチン共ぉっ! 二級騎士に対してなんたる無礼だぁっ!」 ──このように、騎士たちが互の階級を無視して談笑しているというのは、国内では滅多にお目にかかれない光景だ。 サフィールとカルネオルのみに許された特級を除くと、一級から十三級まである騎士の階級は、それぞれ厳しい昇級試験を突破してようやく獲得できるものであり、一級違うだけでも権力や給料にかなりの差が生じてくる。従って、上級騎士は下級騎士を奴隷のように見下し、下級騎士は上級騎士に目をつけられないよう媚を売るというのが通常の図式だ。 ただし、ルビニさんはこの通常に該当しない。 階級よりも当人の人格を重視する彼は、自分が友人と認めた相手であれば下級騎士であろうと気さくに振る舞い、逆に、たとえ一級騎士であっても性格の不一致を感じれば建て前の交流ですら頑なに拒否する。 そんな階級に頓着しない気質こそ、彼が多くの騎士から好感を持たれている理由だ。 私はしばし男性陣の平和な遣り取りを眺めていたが、木々の合間から差し込む光がオレンジ色になっていることに気付き、慌てて彼らの会話に割って入った。 「皆さん! もうじき夕暮れですよ! そろそろ野営の準備をしましょう!」 「お、もうそんな時間か」 ルビニさんが悠長に空模様を確認し始める。 「じゃあ、そろそろお喋りはおしまいにして、さっさとテント張っちまおうか」 「はぁ〜い!」 垂れ目が手をピンと伸ばして応じる。その様子は教師に従う生徒といった感じで、影の差し始めた森の風景にちっとも馴染んでいない。 その危機感のなさに、私はがっくりと肩を落とす。 「はぁ……」 「どうしたアリヴィン? お子様は疲れちゃったか?」 ルビニさんが顔を覗き込んで訊いてくるが、平静を装う気力がちっとも湧いてこない。 だから、思ったままを口に出した。 「いえ、よくもまぁ皆さん、そんな呑気でいられるなぁ……って」 「なぁんだ、感心してたのか」 「呆れ返ってるんですってば!」 的外れな返事に神経を逆撫でされ、これまでひた隠しにしてきた不満に火が付いた。矛先の定まらない怒気をそのままに、私は癇癪を起こした子供のように金切り声で叫ぶ。 「私たち、この森で遭難して四日目ですよ!? わかってるんですか!?」 「ああ、わかっているさ」 逆上して茹で上がった私の頭に、ルビニさんが手をポンとのせた。 そして、にっこりと満面の笑みを向けてくる。ただし、それは遭難者の不安を嘲笑する悪質なものでこそないが、ヒステリーを起こした少女を宥めるための笑顔とも違っていた。 「俺たちは今、ものすごーく貴重な体験をしているってことだろ?」 どこまでも楽観的に、ひたすら純粋に、現状を楽しんでいる人間の笑い方だった。
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