──だが、その瞬間は訪れてくれなかった。 俺が臨戦態勢を解いた直後、立っていることさえ困難なほどの激しい震動が、安らいでいた視界をメチャクチャに掻き乱したのだ。 「うわっ!」 慌てて、その場にしゃがみ込む。 信じがたいことに、アラクネが身体を揺らしているのだ。しかも、それは激痛に悶えるときの無意味な動きではなく、背中に張りついている害虫を振り払うことを目的とした、殺意による攻撃だった。 噴き出した焦燥が、汗となって頬を滑り落ちる。 (急所を見誤ったか──!?) 再度、アラクネの傷口を注視するが、やはり体液と思しき黄緑色の流動体がドクドクと溢れ出ているだけだ。ダメージを与えられなかったわけじゃない。もしかしたら内臓をちょっと刺しただけでは支障がないのかもしれない。 「ちっ!」 舌打ちは、ほぼ無意識に漏れた。 「ならば、とことんまで滅多刺しにしてやる!」 苛立ちで心を炙られている気分だった。この醜い化物を原型がなくなるまで切り刻んでやろうと、深く突き立てた剣に手を伸ばし、それを力任せに引き抜こうとする。 だが、俺の予想に反して、剣は拍子抜けするほどあっさり外れてしまった。 「へ」 質量をほとんど感じさせない愛刀。それは持ち主の心に隙をつくる以外に、なんの役目も果たさない。 引き抜こうとした力が空回り、俺は無様に足を滑らせた。 軽すぎる右腕に翻弄されたまま、身も心も無防備な状態で、全身を宙に投げ出す。 だが、俺の放心はカルネの一声で引き締められた。 「バカ! 横からきてるぞ!」 ハッと我に返った。散漫になっていた意識が収束し、視界が一気に広まる。 視線を周囲に散らすと、真横から襲いかかってくる一本の脚の影は容易に捉えられた。 そこに目線を置いたまま、息を吐くように自然な動作でもって、脚の軌道上に先ほど抜いたばかりの等身を添える。これで防御は万全だ。これまでのように脚を弾き、アラクネがフラついている内に着地をして、もう一度こいつにアタックを仕掛ける……それですべては上手く収まるのだ。 だが、突然、描いていたシナリオはバラバラに砕けた。 ……なかったのだ。 ようやくそのことに気がつき、あ、と間抜けな声が漏れた。 なかったのだ。あるはずのものが、なくてはならないものが、なかったのだ。 俺は見開いた目で自分の右腕を凝視する。 やはり、ない。迫りくるアラクネの脚から身を守るためにかざした、右腕の剣──マリアかフランチェスカ、そのどちらかの刀身がなくなっている。
刃をなくした愛刀を、俺はどんな面持ちで見つめているのだろうか。 十中八九、いつもの無表情だろう。 頬の具合からそれを感じ取ると、急に意識が現実から乖離し、俺の心はやたらと濁った水面へと没入した。それは記憶の海だった。走馬灯というやつだろう、その海の中では過去の映像ばかりが瞳に入る。 美しい思い出は少なかった。ほとんどが両親からの責め苦で占められ、その間を埋めるように、誰とも知らない連中の陰口が流れ込む。悪夢と呼ぶにはひどく中途半端だが、昔話というには生々しすぎる記憶が、堰を割ったように氾濫する。 だが、俺の意識は水底から引き上げられた。 「サフィール──────ッ!」 自分でも最低だと笑い飛ばしてしまいたくなる人生の中で、たったひとつ見つけた、かけがえのない親友の叫び……静謐を劈く友の慟哭は、精緻なガラス細工が粉々に砕け散る音によく似ていた。 現実に戻ってきた俺は、まず背中につきまとう氷の冷たさを感じ取った。 どうやら雪の上に落ちたらしい。後頭部に痛みはなかった。どっさり降り積もった雪がクッションになってくれたようだ。 だが、それだけでは安心できない。 意識がはっきりしてくるに伴い、両脚のふくらはぎに焼けるような激痛が走った。 「ぎぃ……っ!」 神経を無理やり引き千切られたかのようだ。筋肉がヒクヒクと痙攣している。 「ぐぅ、ぅぅ……!」 俺は歯を食いしばり、自分の脚の状態を確認しようと、苦痛に喘ぎながら上体を起こす。 目にせずとも、自分の身に何が起きているかくらい想像できた。それでも確認せずにいられなかったのは、ゼロと確定した可能性にさえ縋りつく、生命への執着なのかもしれない。 だが、目に映ったのは当然の結果のみだった。 絶望ばかりの人生を送っていた男の瞳は、都合のいい幻など映さない。 ふくらはぎの肉が両脚とも抉られていた。そこから夥しい量の鮮血が溢れ出ている。 ドロリと垂れた肉片の隙間から白いものが露出していた。おそらく骨だろう。折れてはいないようだが、周りの神経や血管はグチャグチャに潰れてしまっている。 想像していた以上の惨状だ。もはや二度とは歩けないだろう両脚を嘆くべきなのか、それとも即死を免れた幸運に喜ぶべきなのか。その判断すらつかないほどのショックを受ける。 そこに、カルネの悲鳴が覆いかぶさってきた。 「バカ! このバカが! 動くんじゃねぇよ!」 悲痛に歪んだ顔はすぐ傍らにあった。俺が意識を失っている間に駆けつけてきたのだろう。 周囲の様子を窺ってみる。五十メートルほど離れたところにアラクネの姿があるものの、どうやら俺の落ちた場所はヤツの死角であるらしく、こちらに攻撃を仕掛けてくるような気配はない。目玉が八つもついた頭をキョロキョロと動かしているばかりだ。 「いいか、動くんじゃねぇぞ! あと痛いかもしんねぇけど起きてろ! 寝るんじゃねぇ!」 ひどく震えた手が俺の肩を抱く。 カルネもまた、俺の受けた傷が軽症では済まないことを悟っているのだろう。鉄壁の作り笑いが死人と見紛うくらいに青ざめている。 しばし、俺は空を見据えて、頭の中で散らばっている事柄を整理した。 それはすぐにまとまった。 「……カルネ、わかったことが、ひとつだけある」 生気を失った親友に淡々と語りかける。声に緩急をつける余裕などなかった。 「わかったことだ!? いいから喋んな! おまえの命より大事なものなんかねぇんだよ!」 「……いや、これはおそらく、俺の命より重大なことだ」 どうあっても消える命、と表するのを控える理性くらいはある。 「これを、見てほしい……」 言って、俺は右手に握ったままの愛刀──刃をなくしたそれを目線で示す。 「ほら、刃の部分がなくなっているだろ……」 「ほんとだ。いつの間に……」 カルネが鍔と柄としか残っていない剣を手に取る。 「よく見てみろ……鍔の際のところに、何かついていないか……?」 「ん、ああ……なんか銀色のドロッとしてるもんが」 「やっぱりか……」 カルネの証言で裏が取れた。俺は自分の推測が真実であることを確信する。 「それはな、溶かされたんだよ……」 「溶かされた? アラクネにか?」 「そうだ、あいつの体内は金属を溶かす液体で満ちているんだ……」 空に浮かぶ満月の輝きは、俺たちを嘲笑っているかのように眩しい。 「一種の溶解液だな……斬りつけた途端に溶かされたんじゃ、ははっ、やつの内臓を切り裂く前に刀身がなくなってしまう……致命傷にならないのは当然か……」 すべては注意力の欠如が招いた悲劇だ。自分の不甲斐なさに空笑いこみ上げる。 「はははっ……しかも一回斬っただけで、もうその剣は使い物にならなくなるんだ……」 「だから……だから、なんだってんだよ」 カルネが低く呟く。掠れかかった声は痛切な悲嘆に濡れている。 おそらく、この繊細な親友は、俺が今から告げようとしている台詞を察しているのだろう。 そうだ。この絶体絶命の現状を打破したいのなら、俺は俺自身を放棄するための言葉を、この哀れな男に突きつけなければならない。 「カルネ……」 それを遂行するのに躊躇いはなかった。俺たちの間に気兼ねなど無用だ。 「俺を置いて逃げるんだ。今の俺たちに勝ち目はない……」 生まれて初めて舌にのせた敗北宣言は、思っていたよりも苦くはない。 それでも、カルネは痛ましげに瞳を潤ませる。 「そんなの……やってみなくちゃわかんねぇだろ」 ポツッと滴が垂れるような声音だった。 痛切にして無垢なそれは、今も降り続いている雪のかけらより、ずっとずっと儚い。 「やらなくてもわかる。わかるだろうが、このバカ野郎……っ!」 俺の声もまた、別れを惜しむ哀切に濡れそぼっている。 「俺の話を聞いていただろ……? あのアラクネを倒すには、剣が何十本、いや鈍器の方が有効かもな……。とにかく、おまえだけは国へ戻って、ここで起きたことをすべて伝えるんだ……」 「んなことしたって……!」 「そうすれば、ちゃんと対策を立てれば、あいつに勝てるだろうが……!」 「なんで、なんでそんなこと言うんだよぉ……」 カルネの髪に雪がうっすらと積りはじめる。 「オレにおまえを、サフィーを見捨てて、ひとりで逃げろだなんて……!」 「頼む、頼むからそうしてくれ……この脚じゃあ、もう……下山できそうにないんだ」 「……くそっ!」 カルネが俺の身体を抱き寄せる。 俺もまた、瀕死で冷たくなった身体を、その暖かな体温にすり寄せる。 「くそっ! くそっ! 畜生! ……なんたってこんなことに!」 「泣くな、カルネ……泣かないでくれ」 その一言に、俺はありったけの感情を注ぎ込んだ。 実際、カルネは涙なんて流していない。当然だ。両親の暴行を原因にほとんどの表情を喪失した俺たちが、悲しみの涙を流せるはずもない。カルネには笑顔しか残されていないのだ。 けれど、その笑から落とされる一声一声が、どうしても落涙に思えてならなかった。 どうか泣かないでほしい──その一心から、俺はちょっとした強がりをすることにした。 「カルネ、こう考えろ……おまえは逃げるんじゃない」 吐きたくなるような痛みを堪え、ゆっくりと口にする。 「おまえは逃げるんじゃない……ちょっとの間、俺を待たせるだけなんだ……」 そう言って、俺は片手でカルネの胸を押しのける。 そして、残った方の剣を杖がわりにし、すくっと立ち上がってみせる。 「俺が殿を務める、俺がおまえを無事に撤退させる……」 脳味噌が焼き切れるんじゃないかと怯えるくらいの激痛が、両脚の傷から発信されて、瞬く間に全身を駆け巡る。涙のかわりに、脂汗がドッと噴き出す。 それでも、せり上がってくる絶叫だけは、喰いしばった歯の奥に閉じ込めた。 「俺はここでずっと耐え凌ぐ……だから、いつか迎えに来てくれ。おまえはアラクネを倒せるだけの援軍を連れて、俺を迎えに、ここまで戻ってくるんだ……。ずっと待っていてやる、何日でも、何週間でも、何ヶ月でも……」 「……何年でも?」 弱々しいカルネの問いに、俺は腹に渾身の力を込めて即答する。 「ああ! 何年かかろうと待ち続けてやる! 十年くらいなら余裕だ!」 十年という数字に意味はない。もはや自分が何を喋っているのかさえ判然としなかった。 「さあ、早く行ってくれ、早く早く、早く行ってくれ……」 血を流しすぎたのだろう、同じ言葉しか出てこない。 目の前には、輪郭線と現実感を失った水彩画のような世界が広がる。 「……わかった」 橙色に飾られた頭が、観念したように項垂れた。 「わかったよ。全速力で国に帰って、すぐに援軍を連れてくる」 そう言って、カルネは俺の肩から手を外し、おぼつかない手つきで大剣を鞘に収める。 そして、傷のない両脚で立ち上がった。 「絶対に……ここに戻ってくるから!」 決然と叫び、勢いよくマントをはためかせて俺に背を向ける。 その勇ましい背中を網膜に焼き付ける。これが俺の見る、最後の絶景なのだと。 「絶対にオレは戻ってくる! 仲間を連れて、サフィーを迎えに行く! だから──」 言葉尻を濁し、カルネは大股で走り出した。 これまで苦労して登ってきた斜面を、ちゃんとアラクネの視野に入らぬよう注意しながら、野生の獣のように迷いなく駆け下りていく。その姿に敗走の悲壮感はない。生に向かって必死に手を伸ばす、しなやかな力強い生命力で煌めいている。 橙色の灯はあっという間に小さくなった。 しかし、物理的な距離など関係ない。カルネの呼吸は夜の帳を穿って聞こえてくる。 突如、視界に白いノイズが紛れ込んだ。吹雪だ。これまで息を潜めていた大気が、狂ったように激しくうねり、荒々しい突風を巻き起こしたのだ。 夜の闇が純白に染まる。 慣れ親しんだ橙色は、無慈悲な白の向こうへと消えていった。
友の姿を見失った途端、俺の両脚は一気に崩れた。 「ぐぅ、っ……!」 杖にしていた剣は雪に刺さったまだ。 俺は血まみれの両脚を引きずり、這い蹲るように移動した。アラクネの前へ。 「アラクネ!」 俺が血と共にその名を吐き出すと、アラクネはまるで主人に名前を呼ばれた犬のように、くるりとこちらに頭を回した。八つの目玉が妖しい熱を放っている。 「いい気になるなよ! 俺一人を殺したところで、おまえが永劫に生きられるわけじゃいない! 今後、何百人という数の人間が、きっとおまえの前に試練として立ちはだかるぞ!」 説教っぽく吠えてみせたものの、酷使しすぎた身体はもう、ピクリとも動いてくれない。 アラクネも足元の生物に反撃の余力が残っていないのを察したのだろう。こちらの恐怖を煽るような、とてもゆったりした動作で、脚を一本だけ振り上げる。 脚の先端が、煌々と輝く満月を引っ掻く。 「…………」 不思議と恐ろしくなかった。死への拒絶も生への執心も、見ることの叶わなかった世界の果てへの憧憬も、大好きだったプティングへの未練さえ湧かない。すべての感情が断ち切れていた。ただ、自分の役割を果たした者の、透徹とした静けさだけが胸中を満たす。 その胸に、アラクネの脚がめり込んだ。 「が、ぁっ……!」 黒い刃が銀鎧を砕き、柔らかな肉を切り分けて、身体に大穴を開ける。 その時、俺は自分の心臓が潰れる濁音を、はっきりと耳にした。 「かふっ──……」 口から血の塊が飛び出す。 意外にも痛みは薄い。胸を強く押されたような衝撃だけがあった。その衝撃が、あらゆるものが抜け落ちて空洞になってしまった体内で、寂しい音を立てて転がる。 少しして、アラクネの脚がズルリと引き抜かれた。 ぽっかりと丸く空いた傷口から、粘り気のある血液が噴き出す。 俺は目を伏せ、両頬を雪に埋めた。 最後に残ったなけなしの自我さえも、肌を刺す雪の冷たさに奪われていく。 だが、精神が完全に消失する直前、俺は自分の顔に起きた異変を感じ取った。
(…………!)
頬の筋肉が、動いている。 剥がれたのだ、あの忌まわしい鉄仮面が。
けれど、初めて体感する表情の変化はあまりも微細すぎて、果たしてそれがいかなる感情を現れなのかは把握しきれない。痛みに眉を顰めたのか、悔しさのあまり泣いているのか…… (別に、どうでもいいか……) 俺はふっと息を吐いて、それ以上の追求をやめた。 俺の死に顔なんて、どうせ誰が見るものでもないのだから、特別に固執することもない。 それよりも、この世に二人といない親友が無事に下山をできるよう、いるかも分からない神様に祈る方がずっと有意義だ。 カルネは「必ず戻る」と誓ってくれたが、できればその約束は破られるものであって欲しい。俺が望むのはあいつの幸福だけだ。そのためなら、ここで孤独にくたばろうが、この身体を何千回と抉られようが、一向にかまわない──……。 そんな願いに思いを馳せてから、俺は安らかな吐息をこぼした。
そして、今度こそ──自分を形成するすべてのものを、雪空に還した。
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