「う〜、さっみいなぁ……」 カルネがそう愚痴るようになってから、もう三日経つ。 俺も最初はその台詞を繰り返していたが、それで膝を埋める積雪が溶けてくれるわけでもないと気付いてからは、この耐え症のない相棒を宥めることに徹している。 「うるさいぞ、カルネ。寒いと喚いて現状が好転するのか?」 「るっせぇよぉ……。あ〜、さみい、さみい、さっみいなあ……」 「南方調査のときは『あっちいなぁ〜』だったくせに……」 「…………」 カルネの小言が消えると、豪雪の吹きすさぶ音だけが鼓膜を揺さぶる。 ──マスターの店で新たな旅立ちを決心した翌日、北方調査に出向きたいという俺たちの申告を、例の肥満国王はあっさり受け入れてくれた。あちらとしても早々に旅立たせたかったらしい。出発の準備はたったの三日間で整った。 城を出発し、国を囲む大草原を抜けるのに三日、その先にある森を抜けるのに二日。 そうして、ようやく辿りついた雪山を登り始めること三日間──俺たちは空を塞ぐ白濁の雪雲と、轟然と吹きつける吹雪以外のものを目にできなくなってしまった。 冷厳たる雪山は登山者を容赦なく苦しめる。 氷に覆われた大地に目印になるようなものなど見当たらず、分厚い雪雲に邪魔されて太陽や星の位置すら判然としない。この山では方角を確かめる術がなかった。自分の足跡でさえも数秒後には吹雪にかき消されてしまうのだ。 いつ遭難してもおかしくない状況だ。 しかし、俺たちの方向感覚がわほど優れているのか、この頼るべき指針のない登山はことのほか順調に進んでいた。どんどん高度が上がっているのが空気の質でわかる。このままのペースで行けば、今夜中には登頂できるはずだ。 なので、俺は歩みの遅くなってきたカルネを懸命に鼓舞する。 「そら、もうじき頂上だぞ。それともここで引き返すか?」 「う〜……それはヤダ」 防寒用のマントで鼻先を覆ったまま、拗ねた子供のように呻く。 「だろ? ならもう少しだけ耐えてみせろよ」 「わかっちゃいるんだけど、モチベーションってやつがさぁ……」 「……飽きてきたってことか」 やれやれ、と嘆息してしまう。 カルネは決して根性なしでこそないが、どうにも気分の浮き沈みの激しいところがある。基本的にこいつが好むのは変化≠ナあり、目まぐるしく一点二転する場面でこそ、もっともイキイキと輝き出すのだ。 逆に、俺は不測の事態への対応が遅いので、そうしたカルネの性質を羨ましくも感じる。 だが、雪山という状況下においては、俺の方が圧倒的に有能であるらしい。ちっとも変わり映えしない雪景色の中、黙々と積雪を掻き分けて頂上を目指すという地道な作業は、カルネの気勢を著しく削いだ。 「だってさぁ、雪しかねぇし、さみぃし……それにこんだけ歩いてんのに、なんでこの山にだけ雪が降るのかとか、ちっともわかんねぇんだもん」 たしかに最後の部分にだけは共感できた。この山の異常気象の原因たるものはまだ見つかっておらず、俺もその点に関しては少なからず不満を抱いている。 しかし、安易に同意して、カルネのやる気を落とすわけにはいかない。 「頂上に着けばわかるかもしれない。もう少しだけ頑張ってみないか?」 我ながら根拠のない論法だが、こうして無理にでもカルネの気力を奮起させなければ、悪戯に登頂が遠のくばかりだ。 しかし、俺の目論見はあっさりと破られた。 反論こそ飛んでこないものの、カルネの作り笑顔から渋いものが抜けてくれない。 (……仕方ない) 俺は別の手段に訴えることにした。 「なあ、カルネ──」 いったん言葉を区切る。あまり長く喋っていると、吹雪が口内に入り込んで、舌がひどく痺れてしまうのだ。口の中を体温で温めてから改めて続ける。 「この前、マスターが言ってたよな?」 「何を?」 「俺たちの表情が変わらないのには何か原因があるのかな、って」 「……言ってたっけ? そんなこと」 飄々と嘯くが、薄笑みをかたどる眼差しが警戒で鋭くなったのは明白だった。 作戦どおりだ。内心でほくそ笑む。説得が通用しないのなら、別のものに気を逸らせてしまった方が手っ取り早いという判断は正しかったようだ。幸い、カルネの注意を最も引きつける話題は心得ている。 ……ただし、それは俺としても触れたくない内容であるのだが。 「はぐらかすな。そういえばあの時も、おまえは誤魔化していたな。なんでだ?」 「別に誤魔化したわけじゃ……」 「原因なんてわかりきっているじゃないか。十中八九あれ≠セろ?」 「……まぁーな、お互いに」 カルネが笑顔のまま眉根を寄せる。その瞳から醸される濡れた哀愁は、我が身の不幸を嘆く自分本位な感情ではなく、目の前にいる同類を労わるための慈悲だった。笑顔から逃れられない男は、時折、こうして目には見えない涙を流すのだ。 その不器用な気遣いが嬉しくて、俺もまた、不器用ながらに吐息だけで微笑んでみせる。 ──俺とカルネには共通点が多い。 年齢も十九歳だし、階級も特級騎士だし、変わらない表情のせいで他人から不気味がられ、互い以外に友人と呼べる相手がいない。幼少の頃より剣術の才に恵まれていたのも同じだ。生まれた家が特に名のない中流階級であるのも一致している。 そして、そこで親から虐待を受けてきたことまでもが同じだった。 「……やっぱあれが原因なんだろうなぁ」 カルネが自分の前髪をヒョイと摘む。 「ヒデーよな。髪の色なんざオレたちの意志で決まるわけじゃねぇのに」 「まったくだ。子供は親を選べないというが、ろくに髪色だって選べやしない」 数奇な偶然だが、俺たちは虐待された理由までも重なっていた。 髪の色だ。 カルネはその明るい橙が目に痛いのだと難癖をつけられ、俺はこの深い青色が見ていて気が滅入ると罵倒された。よって二人とも、両親に髪を根本から掴まれ、そのまま家の中を引き摺り回される痛みを共有していた。 「……っ」 不意に過去の出来事が脳裏に走って、胸元が強烈な圧迫感で締めつけられる。 こうなるから俺としてもこの話題はしたくなかったのだ。 堪えきれず、うっ、と口元を抑えながら腰を折った。 「サフィー、大丈夫?」 「ああ……どうということじゃない」 凄まじい嘔吐感が胃で蠢くが、一面の雪景色に内容物を撒き散らすのは、さすがに気が引けた。深呼吸を繰り返してなんとかやり過ごす。吸い込んだ空気は肺が凍ってしまうんじゃないかと怯えるほど冷たかった。身体の芯に霜がおりる。 「あんま気にすんなよ」 カルネが彼の肩を叩いた。手の平から温もりがじんわりと伝わってくる。 「どう考えたって、オレらは悪くねぇんだからさ」 「ああ、それはわかっている」 わかっているが……家と完全に縁を切った今でも、両親の顔を思い出すたび、妙な緊張感で脂汗がドッと噴き出る。生理的な感覚が理性を凌駕してしまっているのだろう。だから、理不尽な暴力に耐えるため、ひたすら頑なに固めていた顔がちっとも和らいでくれないのだ。 「サフィーは悪くねぇよ」 似たような過去を有する親友は、両親からの暴行を世間に気取らせないために作り出した笑顔を浮かべたまま、こちらを言い含めるように語りかけてくる。 「サフィーはちっとも悪くねぇ。悪いのは……いや、親友の身内の悪口とかあんま言いたかないんだけど……悪いのはサフィーの両親だ。きっと目玉が濁ってやがんだよ。だってサフィーの髪はこんなに──」 綻ぶような声はそこで途切れた。 同時に、漫然と残っていた吐き気が消滅する。
殺気だ。ひとつではない明瞭な敵意が、俺たちの肌に鋭く突き刺さった。
「……カルネ、囲まれている」 俺は左右の腰にさげた剣に手を伸ばしながら、すぐさまカルネと背中合わせになる。迎撃用の陣形だ。互いの死角を補い合えるこの陣形は、俺たちのお気に入りで、多数を相手取るときは積極的に用いている。 視線だけを動かして周囲を見渡す。 雪に覆い尽くされた景色の中、さほど遠くない距離に、ぽつぽつと深緑の茂みが見える。 「あそこか……」 「ん、二十くらいはいる……二十三かな?」 殺気を捉えることら関してカルネの右に出る者はいない。南方調査のときも、こうした状況において、こいつが敵の数を誤認したことなど一度とてないのだ。 「二十三か……まあ、相手にできない数ではない」 柔らかな足場を踏み固めて、襲撃の瞬間に備える。 「おそらくラピット≠セろう」 「いんや、わかんねぇよ? なんせ未開の山だからなぁ。新種なんてゴロゴロいんぜ」 「あまり怖いことを言ってくれるな」 「怖い? サフィーってば怖いの? このオレが背中を守ってあげてんのに」 「だから怖いんだろうが」 「ひでぇ!」 戦闘前のふざけ合いも程々に、俺は両腕を交差させ、両腰の剣を一気に引き抜いた。 しゃり、と金属の掠れあう音が耳に染み入る。 「今日も美人だぞ──〈マリアとフランチェスカ〉」 鞘という拘束具を脱ぎ捨てた、まるで少女の脚のように細身の双剣に囁きかける。 ……自分の愛刀に女の名前をつけるなんて、よほどのロマンチストか性倒錯者くらいなものだろう。しかし俺はそのどちらでもない自負がある。丹念に磨き上げられた白刃は、緩やかな曲線を描いており、見る者すべてがそこに女性の肉体を重ねてしまうのだ。 ちなみに、どちらがマリア≠ナ、どちらがフランチェスカ≠ネのかは、持ち主である俺にさえ分からない。そもそも決めていないからだ。 「どれどれ……おっ、こっちの機嫌もよさそうだ」 カルネの歌うような声に次いで、荘厳な、破壊的なまでに重々しい金属音が響く。 引き抜いたのだ。いかなる巨獣の首さえも、さながらハムでもスライスするかのように軽々と斬り落としてしまう、あの大剣を。 血を吸い込んだ鈍色の刀身が、清廉な雪によってそそがれる情景が目に浮かび、俺の背筋に悪寒にも似た高揚が走った。屈強な大男の二の腕のような刃に、白い妖精が無警戒にまとわりつく様は、ミスマッチながらも神秘的な美しさを湛えているに違いない。 「さあて、くるぞくるぞ……」 カルネが腰を落とす。俺も軽く足首をほぐして身体を戦闘用に切り替える。 平穏は瞬時に爆ぜた。 例の茂みから、箱を開けたら飛び出るオモチャさながらの勢いで、猛然とこちらに飛びかかってくる影。それはウサギによく似た小型の獣だった。数は二十三匹。カルネが察知したとおりだ。 「やはりラピット≠セ!」 連中が襲ってくるタイミングは、頭よりも先に皮膚で感じ取っている。 先陣を切って直進してくる一匹目が目前にまで迫ってきたとき、俺は既に身を捻って、剣を握り締める右腕を豪快に振り下ろしていた。 「ピギッ!」 切っ先がラピットの肉を抉る。灰色の短毛に守られていた身体──黒痣特有の醜悪な模様にまみれた肉体が裂けて、その傷口から黒々しい鮮血が盛大に噴き上がった。 ──《エルジュ王国》の原則として、新種の黒痣を発見した際、その命名権は第一発見者に委ねられることになっている。このラピット≠ニ名づけられた黒痣は、雪山を登り始めた初日にカルネが見つけた新種だった。 ただし新種といっても特に危険視すべき相手ではない。最初の遭遇時にそうとわかった。群れを成して標的に襲いかかるという組織性を除けば、単に牙と爪が異様に発達しているウサギと思って問題ない。 ラピットの返り血がマントを赤く汚す。出血量からして致命傷だろう。 「まずは一匹」 休まず、今度はその場で軽くジャンプしながら、左手首をくるりと回す。 その動きと連動して奇妙にうねった刀身が、別のラピットの顔面に赤い軌跡を綴った。硬い手応えが鞘を通して伝わってくる。頭蓋骨を砕いたのだろう。脳味噌まで蹂躙されたラピットは、力強く伸ばしていた四肢をだらりと弛緩させ、その身を積雪に投げ出した。 「二匹目」 着地と同時に、足を小刻みに動かしてステップを踏む。 基本的に、俺が戦闘中に躍動を止めることはない。視野を広げ、軽やかな身のこなしと柔軟な体躯をもってして、臨機応変に立ち回るというのが俺のスタイルだ。そこには真正面から敵 と対峙するような、いわゆる騎士道然とした華など存在しない。攻撃よりもスピードに重点を置いた軽業師のような剣法は、誰に教わったものでもない、完全に俺のオリジナルだった。 俺には強烈無比な一撃なんて必要ない。こちらがスピードで敵を翻弄し、適度に牽制さえしていれば、あとは親友がすべてを跡形もなく粉砕してくれる。 八匹目を切り捨てたところで、俺はちらりと後方に目をやった。 そこにはいつもどおりの雄姿がある。 「六匹目ぇっ!」 俺とは逆に両脚をがっちりと足場に固定させて、名前のない大剣を振り下ろすカルネ。 俺の〈マリアとフランチェスカ〉の何倍もの重量を秘めた大剣は、常人なら腰に提げて持ち運ぶだけでも骨が折れる代物だ。だが、カルネの逞しい豪腕に支えられた瞬間に、それは重力のしがらみを忘れ、銀色の隼と見紛うほど優雅に疾駆する。 鋼の凶鳥はラピットをばっさりと両断した。 左右に分かれた肉塊から臓物が飛び出す。てらてらと不気味な光沢を放つそれは、夥しい量の血液と絡まりながら、ボトボトと雪上に落下した。雪景色にまだら模様の赤が咲く。 カルネの奮戦ぶりを確認し、俺は自分の戦いに意識を戻した。 脇腹に喰いかかろうとするラピットを薙ぎ払う。 「九匹目」 それとほぼ同時に、カルネが「七匹目!」と声を被せてきた。
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