「──ということが、三年前にあったらしいな」 「…………」 「いやぁ、さすが私の弟! なかなかの功績じゃないか」 「…………」 「おかげで雪山の土地開発が進み、下級騎士や女性騎士も山を登れるようになったのだから」 「…………」 「ん、どうした? 人がせっかく身内自慢をしてやっているというのに」 「うるさいわね!」 今まで無視を決め込んでいたが、私はついに叫び返した。 その声は丸太組の小屋の中でわんわんと反響し、隅で見転がっていた男が何事かと飛び起きたけれど、それに構っていられる余裕などなかった。包丁を握る右手がわなわなと震えだす。 「こっちは夜食の用意をしてあげてんのよ! ちょっとは手伝おうとか思わないわけ!?」 「それは無理だ。私は料理なんてしたことないからな」 彼女は当然とばかりにかぶりを振った。薄桃色の長髪が優雅になびく。 「というか、シトリンは料理が得意なんだろう? なぜ、ジャガイモの皮むき程度で手こずっているんだ?」 「見てわかるでしょ!? この包丁、ものすごく使いづらいの!」 小屋には簡素ながらも台所があり、水と食料も備蓄されていた。その内容を検めていたところ、丸々として美味しそうなジャガイモを見つけたので、これをたっぷりのパターで炒めて夜食にしようと自前の包丁で皮を剥き始めたのは良いものの、その切れ味があまりにも悪すぎて一向に作業がはかどらないのだ。 雪山に行く途中にある《森の村》で包丁を買い換えたのが失敗だった。後になって分かったことだが、あの村は森の中にあるため木材の豊富だけれど、反面、石材や鉱物が極端に不足しているらしい。よって刃物類の質がすこぶる悪いのだ。 かと言って、小屋に常備されていた包丁は刃こぼれしている。 さらに付け加えると、わたしはナイフの投擲を得意とする騎士なので、いっそ自分の武器で調理してしまうという手もあるのだが、さすがに戦闘用のナイフで刻んだ食材を口にするのは気が引けた。手入れが面倒だからといって、母譲りの金髪を男の子みたいなショートカットに切り揃えてしまうわたしにだって、衛生面に気を遣う女らしさくくらいは残っている。 なので、文句を垂らしながらも、包丁を変えるつもりはない。 苛立ちに目を尖らせてジャガイモを剥くわたしを、彼女はまるで美しい庭園でも眺めるかのように、柔らかな微笑を浮かべながら見つめた。 「いいものだな、家庭的な女性というのは」 美しく流れるソプラノは、心から幸せそうにこう続けた。 「それに、怒った顔もチャーミングだ。シトリンはわたしの思想の恋人だなぁ」 「……あっそ」 ため息を吐くと同時に、怒りの炎が鎮火する。 わたしは最悪の状況から脱却するため、最善の方法を選んだつもりだったが、もしかしたら人選を誤ってしまったのかもしれない。その不安が今さらになって重くのしかかってきた。
さて──どこまで遡って話すべきか。 わたしの日常が悪い方に激変したのは二年前なのだが、一緒に雪山に登るパートナーとして彼女を選んだのは一ヶ月前のことなので、そこから話した方が分かりやすいかもしれない。 あの日、わたしは知り合いが下働きをしている喫茶店を訪れた。 「いらっしゃい。──あ、シトリンちゃんか」 「どうも、オジサン」 「悪いね、カウンター席でいいかな?」 店内を見回すと、二人組や三人組といった少人数のグループ客がテーブルを埋めているために、空席があるにも関わらず満席という奇妙な状況ができていた。それでも相席を申し出ればテーブルを使わせてもらえるだろうが、見ず知らずの人と一緒に食事をするのは気が引けるので、素直にカウンター席につく。 「ご注文は?」 「チキンのサンドウィッチ」 いつもどおり、この店の軽食で一番安いものをオーダーする。 「たまには違うのを食べればいいのに。顔馴染みのよしみでオマケしてあげるよ?」 クスクス笑ってから、オジサンは「チキン一つ!」と厨房に注文を通した。 かつて、この店は愛想の悪い店主が一人で切り盛りしていそうだが、三年前に接客要員としてオジサンを雇ってから売り上げが伸びているらしい。なんとなく理由はわかった。オジサンはもうじき四十に手が届くにも関わらず、目がぱっちりと大きい童顔なこともあり、まだ十代のわたしから見てもかなり魅力的な容貌をしているのだ。現に、店内にいるほとんどが若い女性客だった。 サンドウィッチは五分もかからず運ばれてきた。 「はい、どうぞ」 「いっただっきま〜す!」 手を合わせてから、豪快に齧り付く。柔らかいチキンを瑞々しいレタスでくるんだその一品は、さっぱりしたレモン味で整えられており、微かな酸味が胃袋を程良く刺激した。高級レストランのフルコースにも勝るとも劣らない……とまではいかないが、この値段のわりに文句のつけられない味だ。 「ん〜! ここのマスター、相変わらず良い仕事するわね〜!」 「オススメはプティングらしいんだけどね。一度は食べてみたらどうだい?」 「お金に余裕ができたらね」 「…………」 わたしの素っ気ない態度に、オジサンは心なしか表情を翳らせた。 「……その様子じゃ、お父さんの容態は芳しくないようだね」 「ん……」 くちゃくちゃと咀嚼しながら、首を縦に振る。 三年前、雪山登頂を断念したルビニ・クォーツの報告を境に、騎士たちはこれまでどおりの任務に就く一般騎士≠ニ、雪山の開拓工事に従事する開拓騎士≠ノ二分されるようになった。そして八級騎士であるわたしの父は、その後者に配属された。 しかし、雪山に派遣されてから一年後、父は崖から足を滑らせ片膝の骨を砕いてしまった。それは治療に数年を費やさなければならない大怪我で、無念にも、騎士を退職せざるをえなかった。今も、父は松葉杖なしでは動けない生活を強いられている。 当然、父の収入が途絶えると、わたしを取り巻く家庭環境は著しく変化した。 専業主婦だった母は王城の侍女として働きに出るようになり、当時十五歳だったわたしも十三級騎士になり、王国に仕えることを選んだ。最下位である十三級なら、養成学校さえ卒企業していれば、簡単な身体検査を受けるだけで就くことができるのだ。それに給与が安定しているため、ある程度の階級にまで昇級できれば、家族全員を養うことも可能だとも考えていた。 だが、現実は極めて非情だった。 「そうか、復帰の見込みはないんだね……」 オジサンは心から辛そうに呟くと、わたしに労わるような視線を寄越してきた。 「で、十三級の君の給料じゃ治療費も賄えないときている。事態は深刻だな」 「うっ」 その言葉が見えない矢になって、わたしの胸にブスッと突き刺さった。 そう、わたしは二年かけても十三級から昇級できないでいるのだ。一応、十三級にも見回りや武具の手入れといった簡単な仕事を与えられているため、収入がゼロというわけではないのだが、その額はあまりにも微々たるものだった。子供の小遣い程度である。だから、十三級だけは昇級試験なしで就くことができるのだ。 「ねえ、オジサン……」 レタスをパリパリと噛み砕きながら、小声でオジサンに問う。 「ん、なんだい?」 「わたしって……騎士の才能がないのかなぁ?」 確かに、生来マイペースなわたしは人より動きが鈍く、養成学校では同期の誰と試合を組んでも連戦連敗だったし、ろくに剣も使えないまま最低在学期間の半年で学校を卒業してしまった。 それでも、二年間も努力して十二級にすらなれないなんていうのは、滅多にあることじゃない。通常、五体満足なら十級にはなれると言われている。現に、国内でも十三級騎士というのは一級騎士と同じくらいに数が少ない。 しょんぼりと気落ちするわたしに、オジサンはしれっとした顔でこう言った。 「あると思っていたのかい?」 まったく悪びれない口振りに、わたしは危うくサンドウィッチを落としそうになった。
「ああ、そういえば」 不意に、オジサンがふと思い出したように口を開いた。 「数日前に、シトリンちゃんの弟くんが店に来たよ。たしか、ええと……」 「ルゥルゥ」 「そう、ルゥくんだ」 ルゥルゥは今年で十二歳になる弟だ。髪色は父譲りの白。同じ音を繰り返す自分の名前が気に入っていないようで、どうにも知り合いには「ルゥ」とだけ名乗っているらしい。 彼はわたしとは違い、養成学校で一目置かれる腕前で、本人としても上級騎士になることを志していた……にも関わらず、学費を払えなくなってしまったがために、わたしと同様にたったの半年で養成学校を辞めていた。 弟は現在、家計の足しになればと往来で靴磨きの仕事をしている。わたしのように騎士にならなかったのは、母とわたしが王城に拘束されている間、家で父の面倒を看られる人間が必要だと幼いながらに判断し、時間に融通の利く職種を選んだ結果だった。 「あの子が一人で来たの?」 「いや、連れがいたよ」 そのときの情景を思い出そうとしているのか、オジサンは「ん」と小さく唸った。 「黒髪のガールフレンドと、あともう一人……」 「ああ、マノちゃんと師匠さんか」 「あ、知っていたのかい?」 「まぁね」 毎日を父の看病と靴磨きの仕事に費やしているルゥの交友関係はひどく狭いので、人物の特定は簡単だった。 黒髪のマノちゃんは弟と同い年の女の子で、彼女もまた、家が貧しいために靴磨きで家計を助けている。わたしも何度か顔を合わせたことがあるが、礼儀正しく喜怒哀楽に富んだ、とても可愛らしい娘だった。 そして師匠さんというのは、いまだに騎士の夢を捨てきれていないルゥのために、無償で剣の稽古をつけてくれている親切な男性だ。直接会ったことがないので、詳細なプロフィールは分からないけれど、ルゥやマノちゃんが言うには二十代くらいの好青年らしい。とりあえず悪い人間ではなさそうなので、その青年と弟との師弟関係に口を挟むつもりはなかった。 「つまり、仲良し三人組がお茶に来たってことね」 ごくありきたり日常の一コマだ。わたしは話の続きに対する興味をなくし、サンドウィッチを味わうことに神経を注ぐ。 しかし、話し手であるオジサンの様子がどうにも妙だった。つぶらな瞳を白黒させ、まるで自分の記憶を疑っているかのように、コツコツとこめかみを突くのだ。 「いや、しかし、あれは本当に驚いたよ」 戸惑いを感じさせる声色に演技はなかった。もしかしたら、オジサンくらいの年代の人にとって、知人の弟にばったり出会すというのは、とてつもなく衝撃的な珍事なのかもしれない。そう納得しておくことにしよう。 わたしはようやくサンドウィッチをすべて平らげ、満足の吐息をはいた。 「ふぅ、ごちそうさま。──ところでオジサン、ちょっと相談があるんだけど」 「ん……ああ、僕に何か?」 オジサンがはっと弾かれたように、わたしに視線を向けてくる。 わたしは単刀直入に切り出した。 「あのさ、オジサンって上級騎士の知り合いとかいない?」 「は?」 オジサンの口がポカンと半開きになる。わたしは構わずに畳みかけた。 「だって、オジサンって三年前までは七級騎士だったんでしょ? お父さんが言ってたの、あいつは階級こそ七級だけどそれ以上の実力を持っていたんだぞ、って」 「それは……買い被りすぎだ」 オジサンは気恥かしそうに顔を背けた。 「僕は単なる七級だ、それ以上でも以下でもない。そして騎士を辞めた今は、それこそ七級ですらなく、ちっぽけな喫茶店の一従業員に過ぎないよ」 「ね、なんで騎士を辞めちゃったの? うちのお父さんみたいに怪我でもしちゃった?」 「いや、そうじゃないけど……」 そこで、オジサンは少しだけ声を詰まらせた。過去に起きた出来事を思い返した上で、それをどう言葉に表現しようか悩んでいる、そんな沈黙だった。 「……年齢を考えて行動しないと、命を落とす大惨事につながるってことを学んだからだ」 「ふぅん」 いまいちピンとこないが、別に詳しく知りたいわけでもないので、適当に流すことにする。 わたしはすぐさま本題に戻った。 「でも、前は騎士だったんでしょ? 上級で仲良かった人とかいないの?」 「いるにはいるけど……それを訊いてどうするつもりだい?」 「一攫千金のチャンスなの!」 つい声が大きくなってしまい、ほかのお客さんから睨まれた。無言の非難に肩をすぼめ、今度は声量に気を配りながら、オジサンに詳細を説明する。 「えっとね、とりあえず十三級のお給料じゃ、ちっとも我が家は楽にならないの」 「そうだね。今はお母様の稼ぎに頼っているようなものだ」 「でも、騎士のお給料って毎月支払われる基本給とは別に、何か功績を立てたときに貰える特別給与があるって知ってた?」 「まぁ、そのくらいは知っているよ。重要任務の遂行、新種の黒痣の発見や討伐、〈地図〉作成への貢献──そうした功績を立てると、褒美として多額の金銭が支払われるそうだね。それこそ、南方調査を完遂したカルネオルたちは、豪邸を建てられるほどの金額を受け取ったというし」 「さすがは元騎士。話が早いわね」 うんうん、と頷く。 「じゃあ、その特別給与の金額は階級に左右されないってことも知ってる?」 「もちろん。基本給は階級ごとで大きな差が出るけど、特別給与の多寡には一級も十三級も関係なく、単純に立てた功績の質によって決まるんだろう? ──って、ちょっと待て」 そこで、オジサンは唐突に話を区切った。 「どうしたの?」 「どうしたもこうしたも……この話の流れからするに、シトリンちゃんが狙っているのは」 「わっ、さすがオジサン。頭のキレも良好みたいね」 わたしは素直に感心し、その続きを引き継いだ。 「そう! わたしは特別給与を狙っているの!」 パチン、と指を鳴らす。 「今は工事が進んでいるおかげで、雪山もずいぶん登りやすくなったって言うし、ちょっと頂上まで行って例のアラクネとやらに会ってみようと思うの! で、そいつを倒すなり弱点を見つけるなりすれば、そうとうなお金になるはずよ! なんせかの特級騎士でも倒せなかったバケモノだからね!」 「で、自分ひとりじゃ無理だからって……」 「そ。強い騎士に手伝ってもらいたいの」 わたしの調べによると、国が特別給与を授けるのは功績を立てた本人だけでなく、それに協力した騎士も含まれるという。ここで言う協力した騎士≠ニいうのは、基本的に同行した騎士≠フことを指すらしい。つまり、行動を共にしたという事実さえあれば、実際はただ隠れていただけでも褒美を受け取ることができるというわけだ。 それを説明すると、オジサンは両肩を落として頭を抱えた。 「……なんて浅ましい作戦なんだ」 「素晴らしい、の間違いじゃなくて?」 ただし、この作戦を実行するには、どうしてもある障害にぶつかってしまう。 肝心のアラクネを倒せるような騎士≠ェいないのだ。 いや、一級騎士ならどうにかなるのだろうが、十三級のわたしには彼らとのコネクションがない。その問題を解決するために、かつては騎士だったというオジサンを頼ってみたというわけだ。 わたしはカウンターから身を乗り出し、弱々しい声でもう一度尋ねた。 「ね、オジサンの知り合いで協力してくれそうな人っていない?」 さすがに、七級騎士が一級や二級と直接的な繋がりを持っているとは思っていないが、そうした大物への取っ掛かりとなる人物くらいは、もしかしたら知っているかもしれない。わたしはそうゆう淡い期待を忍ばせていた。 だが、わたしの希望的観測は見事に裏切られた。 とてつもなく、良い方向に。 「一人だけ、心当たりがある」 「うそっ!?」 自分で訊いておいてアレだが、あまりにも都合の良い展開にずっこけそうになる。 そんなわたしの動揺などよそに、オジサンは湖面に小石を落とすような静かな調子で、淡々と続けた。 「ちょっとばかり親しい二級騎士がいてね。子犬のようなロリコンの年下で、今は病気のために騎士を休職している人なんだが、彼の身内が君の求めている条件にピッタリ合うんだ」 「ど、ど、ど、どんな人なの?」 「階級は四級、短剣の扱いに長けた手練だよ。しかも、かなり裕福な家柄の人だから、報酬を独り占めしようだなんて企まないだろう。それどころか、旅の費用だってすべて負担してくれるはずだ」 「……パーフェクトじゃん」 あまりにも出来すぎた話に、唖然と口を開いてしまう。 だが、今のオジサンの説明には、ある肝心な部分が抜け落ちていた。 「でも、どうしてその人がわたしに協力してくれるの? ものすごい慈善家とか?」 「いいや、そうじゃない。ちょっと生々しすぎる話なんだが……」 言葉尻を濁し、オジサンは気まずそうな可笑しそうな、なんだか奇妙な苦笑を浮かべた。 「その人はね、シトリンちゃんみたいな若くて活発な女の子が大好きなんだよ」 「それってつまり……あっちに力とお金を提供してもらうかわりに、わたしは心と肉体を差し出せってこと?」 「まぁ、そんな感じかな」 なるほど、たしかに生々しい話だ。 しかし、あまりにも直球すぎるせいか、いっそ潔く感じてしまう。 「わかった。今からでも、その人に会えないかな?」 一秒とかからないわたしの返答に、オジサンはちょっと驚いたふうに片眉を上げた。 「おや、年頃の女の子には受け入れ難い条件だと思っていたんだが……」 「しょうがないよ。やっぱ無傷でお金を貰おうだなんて虫が良すぎるもの」 そう言ってみせるが、もちろんすべてにおいて納得しているというわけではない。無意識のうちに愚痴がこぼれた。 「そりゃあ、わたしは男性経験なんてちっともないし、フアーストキスだって好きな人とが良かったけど、今はそんなこと言ってられる状況じゃないし……」 「男性経験?」 突如、オジサンが素っ頓狂な声を上げた。 それから数秒間、目をパチクリさせて黙り込だかと思いきや、 「くっ……あはははははははっ!」 いきなり腹を抱えて笑い出すではないか。 突然の爆笑に、目の前のわたしはもちろん、店内のお客さんたちの肩がビクッと跳ねる。 「な、何が可笑しいのよ!」 「くふふふっ! ──いや、すまない。どうにも誤解があったようだ」 「誤解?」 まったく事情がわからず、首をかしげる。 すると、オジサンは目をすっと細め、口許をにんまりと悪戯っぽく綻ばせながら言った。 「その人は女性なんだ。男より可愛い女の子にしか興味がない、とても奇特なね」
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