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作品名:十年戦記 作者:朧 蝙蝠

第10回   緑と赤が森の中で D

 今、私たちの目の前に広がっている光景は、終末を迎えた後の世界に違いなかった。
 濃淡も明暗もない、ただ漠然と続く一面の白、白、白────
 なるほど。たしかにここは常人か足を踏み入れるべき場所ではない。
 夜明けと同時に村人の案内で雪山に辿りついた私たちは、できうる限りの防寒対策をしてきたにも関わらず、登山開始からたったの一時間ほどで、この山に宿る純白の殺意に呑み込まれていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 喘ぐようにこぼれる呼吸は濁った白に染まり、息を吸い込むたびに肺の底が凍りつく。
 吹雪に跨って、頬に張り付いてくる雪は、もはや氷の結晶とは呼べない。ガラス片だ。チラチラと細かに煌くそれが肌を掠めると、冷たさよりも鋭い痛みを覚えた。
 どれだけ懸命に足を動かそうと、厳しい傾斜の前では遅々として進まない。
 せめて視界を塞ぐ吹雪さえ弱まってくれたら、少しは進行のペースが上がるのかもしれないけれど、そんな希望を嘲笑うかのように吹雪は気勢を増すばかりだった。まるで、私たちの力不足を見抜いた上で、この山から追い返そうとしているかのようだ。
(これは……)
 ちらり、と背後を盗み見る。
 私のすぐ後ろでは、トルコさんと童顔と垂れ目が並んで歩いている。白濁の呼吸を繰り返す彼らの顔には、肉体的疲労とはまた別の疲れが滲んでいた。遭難時の披露が尾を引いているのだろう、歩幅がずいぶんと小さくなっている。
(もう限界だ……)
 そう判断した私は、十メートルばかり先を歩くルビニさんに向かって叫んだ。
「ルビニさん、これ以上は危険です! すぐに戻りましょう!」
 ここで引き返さなければ、一進一退すらままならぬ状況に陥るのは目に見えていた。
 だが、私の呼びかけにルビニさんは振り向かなかい。
「ルビニさん! 今すぐ撤退しましょう! ルビニさんってば!」
 てっきり吹雪のせいで聞こえていないのかと思って声を張り上げるが、一向に応える様子のない冷ややかな背中を見て、私はようやく自分が無視されているのだと気付いた。胸に氷の塊が落とされる。
 意地になっているのだ、あの人は。
 残り少ない寿命しか持たない彼にとって、今回の挑戦は、自分がサフィールとカルネオルを越える人生最後のチャンスなのだろう。それをむざむざ諦めることはできない。たとえ命を落とすことになろうと、これだけは必ずやり遂げてみせる──追い詰められた獣の執念が、マントに覆われる背中から伝わってきた。
 切実すぎる願望に気圧されて、私は言葉を詰まらせた。
 だが、背後から別の音が響いた。
 ドサリ、と雪を押し潰す不快な音だ。次いで、垂れ目の悲鳴が寒空を切り裂く。
「トルコさん!? どうしちまったんだ!? おい、しっかりしてくれよ!」
 弾かれたように振り返る。
 そこにあったのは、大きな身体をぐったりと仰臥させているトルコさんの姿だった。
 童顔と垂れ目が両側から助け起こし、私もすぐさま声をかける。
「トルコさん!? 私がわかりますか!? トルコさん!?」
 頬を軽く叩いてみても反応がない。トルコさんは虚ろな双眸を中に泳がせながら、半開きになった口で力なく呻くばかりだ。そこに明瞭な意識は感じられない。重ねに重ねた年齢が、ここにきて命取りになったのだ。
 しかし、村で適切な治療をすれば助かる見込みはある。
 私はルビニさんを振り返って、ありったけの声を破裂させた。
「ルビニさん! このままじゃトルコさんが死んじゃいます! 今すぐ下山しましょう!」
 だが、やはり反応は返ってこない。まるで悪霊にでも取り憑かれているようだ。見慣れた背中が、どんどん雪煙の向こうへと遠ざかっていく。
 一体、どんな言葉を選べば彼を振り向かせることができるのだろう。私は目頭を熱くして懸命に考えるが、思い浮かぶわけがなかった。たいてい人より前を歩いている彼は、いつだって自ら立ち止まって、後ろにいる者たちを気遣ってくれたのだ。そうした優しさに甘え続けてきた私なんかが、その歩みを止めるための言葉を学んでいるはずがない。

 だから──私は走り出した。

「──ちょっとは人の話を聞きやがってください! この大馬鹿野郎さん!」
 雪に足を取られながらも大股で近づき、なんとか吹雪に翻るマントの裾を掴んで、それを思いっきり引っ張る。ルビニさんは簡単に体勢を崩した。
 その隙に彼の前に回り込んで、蒼白になった顔と真正面から対峙する。
「つまんねー意地なんか張りやがらねーで、さっさと下山しろってんです!」
「…………だが」
「口答えは許しません! ほら、テメーだって脚が震えてるじゃねーかよです!」
 足首まで雪に沈んだルビニさんの両脚は、いまにも崩れ落ちそうなくらい弱々しく震えていた。寒さによるものではない。二級騎士の体力をもってしても、ここが限界なのだ。
 それを真っ向から指摘されて、ルビニさんはちょっと怯んだ。私はさらに捲し立てる。
「なにが卑屈です、なにが引け目です、ふざけんじゃねーですよ! 人間は完璧じゃないんですから、誰だって何かしら負い目をもって生きてんです! 弱みがあろうと人は生きられます! それをアンタはグチャグチャと勝手に自己嫌悪にになってぇ……!」
 もう、頭で言葉を考えられない。私は腹に溜まった怒りを、ただそのままストレートにぶつけた。
「悲劇を気取るのもいい加減にしてください! 女々しいったらないんですよ!」
 ビシッ、と指を突きつける。
 年下の少女にここまで言われて何も言い返さないようであれば、目の前にいる背が高いだけの男は単なる腑抜けと切り捨てて、私たちだけで下山してしまおう。そう考えていた。
 しかし、ルビニさんは何秒か呆然としていたものの、
「……痛いとこついてくるなぁ」
 照れ臭そうに頭を掻きながら、軽やかに微笑んだ。
 私はハッと目を見開く。
「ルビニさん……」
「たしかにこの大雪はちっと想定外だった。ここいらで逃げ帰ったほうが賢明だな」
 そう言って踵を返し、まるで何事もなかったように飄々とした足取りで、トルコさんの傍まで歩いてゆく。そして、いまだ意識の戻らないトルコさんに両手を伸ばしたかと思うと、その巨体をなんの苦もなさそうにヒョイと担ぎ上げた。
 その頼もしい姿を見て、青ざめていた童顔と垂れ目に生気が戻る。
 ルビニさんは全員をざっと見回して、
「そいじゃあ…………退却だあ!」
 底抜けに明るい号令をかける。
 そうして山の麓へと向けられた彼の目元で、何かが小さく光った。
「…………」
 ルビニさんが泣いているのはもはや疑いようがなかったけれど、私はその透明な滴を見逃すことにした。童顔と垂れ目もまた、その涙を心配するような素振りは見せない。
 目に眩しい赤髪を先頭にした私たちは、道に迷うことなく山を下りることができた。
 道中、ルビニさんの涙が止まることはなかった。

 *

「結局のところ、単に勝ちたかっただけなのだろう」
 意識を取り戻したトルコさんの第一声はそれだった。
 なんとか雪山を下山して、私たちが無事に村へ戻ってきたのは、まだ朝になりたての早い時間帯だった。それでも欠伸まじりに起きだした村人がいたので、彼らの助けを借りて、気絶したトルコさんを村長の屋敷に運び込んだのである。
 ずっと看病をしていた私は、ぬるま湯に浸けていたタオルを絞る作業をやめて、ベッドに横たわっているトルコさんに視線を向けた。
「いつ気がついていたんですか?」
「ちょっと前だ。まだ頭がぼんやりするぞ」
 言いながら、難儀そうにベッドから上体を起こして室内を見回した。
「ここは村長の邸宅か……隊長やほかの者たちは?」
「ルビニさんは村長さんと何か話し合っています。お二人は別室で休んでいるみたいです」
 村に着いたとき、童顔と垂れ目は憔悴しきっていた。心身ともに限界だったのだろう。その様子を見かねた村長にベッドを勧められ、今は泥のように眠っているはずだ。
「そうか、ならばいい」
「他人の心配より、自分の心配をしてくださいよ」
「なぁに、わたしならもう大丈夫だ」
 そう言って、気丈な笑顔を浮かべる。たしかに顔色はずいぶんと良くなっている。
「で、さっきのはなんです?」
「さっきの?」
「言ってたじゃないですか。単に勝ちたかっただとか……」
「ああ、それか」
 合点がいったように、トルコさんは声を大きくした。
「ルビニ隊長のことだ」
「やっぱり」
 そんな気はしていたので、別に驚きはしない。
「隊長は、自分のサフィールやカルネオルに対する反発心を親に対する認識の違いのためだと語り、雪山に挑むのは卑屈になっている自分と決別するためだと言っていたが……」
「あれ? なんでそれを知ってるんです?」
「すまん。実はあの晩、部屋の外から二人の会話をこっそり盗み聞きしていたんだ」
 それはさすがに驚く。その悪びれない口振りから、おそらく童顔と垂れ目も共犯だろう。
「しかし、わたしにはそれが全部こじつけに思えてならないんだ」
「こじつけ? じゃあ、ほかに理由があると?」
「一度でいい、ずっと負け越しているライバルに勝ってみたかっただけなんだろう」
 噛み締めるように、トルコさんはゆっくりと呟く。
 だが、私にはあまりピンとくるものがなかった。
「えっと、つまり……プライドってやつですか?」
「ちょっと違うな。男のプライドというやつだ。男なら誰しも一番を目指すものなのだ」
「……そんなものですかね、男の人って」
「そんなものだぞ、男なんてのは」
 そこまで自信たっぷりに言われては、女の私が口を挟めるはずがない。とりあえず、今はそれが男という生き物なのだと納得しておこう。
 かわりに、私はポツリと呟いた。
「……ルビニさんは、勝てなかったんですかね」
「…………」
 饒舌だったトルコさんが、急に押し黙る。
 今回の件において勝者と敗者を確定させるとすれば、やはり、地位や実力という点でルビニさんを圧倒的に上回っていたサフィールとカルネオルが勝者であり、ついに彼らの功績を塗り替えることの叶わなかったルビニさんが敗者ということになるのだろうか。
 だが、そう結論づけてしまうことに、私は激しい抵抗を覚えた。
 果たして、人間の勝ち負けとは、前に進んだ距離なんかで決着してしまうものなのか。
 男のプライドとやらよりも仲間の命を優先したルヒニさんと、親友であるサフィールの命を救えなかったカルネオルとでは、一体どちらが優れているのか。その疑問に明確な答えを打ち出すには、私はまだ人生経験があまりに乏しすぎる。
 ただし、ひとつだけハッキリしていることがある。
「ルビニさんは負けていませんよ」
 自信をもって言い切れる。あの人は別の誰かに負けてなどいないし、ましてや勝敗や優劣のつけられる低次元な戦いをしてきたわけじゃない。二十一年間の苦悩と優しさの戦歴は、その程度の概念で測りきれるものじゃない。
「ルビニさんは負けていませんよ」
 私が確信をもって繰り返すと、トルコさんは何度も何度も深くうなずいた。

 トルコさんが目を覚ましたことを伝えるため、屋敷の外へ出ると、太陽はすっかり高い位置に昇っていた。もう昼頃だろう。地面にいくつもの日溜まりができている。
 そのひとつに、ルビニさんと村長が淡く照らされていた。
「ルビニさん」
 私が小走りで近づくと、ルビニさんは朗らかな笑顔で迎えてくれた。
「よぉ、アリヴィン。トルコを看ていなくて大丈夫なのか?」
「はい。つい先ほど目を覚まして、今じゃすっかり元気になったみたいです」
「そうか。それはよかった」
 安心したように赤らんだ頬には、もう涙の跡は残っていない。
「ところで、なんの話をしていたんです?」
「いや、ちょっと村長さんに取引を持ちかけていたところなんだ」
「取引? 何か悪いことでも企んでいるんですかぁ?」
 私が脅すように眉をしかめると、ルビニさんはケタケタと愉快そうに笑い出した。
「そうじゃない。ほら、この村は暮らしにこそ困ってないが、それでも不足している物資は多いらしいんだ。だから、それを《エルジュ王国》が提供するかわりに、この村を工事現場への中継基地として使わせてもらえないかと……」
「工事? どこのですか?」
「雪山のさ」
 ルビニさんがパチンとウインクする。
「考えてもみろ。あんな極寒の山を誰が登りきれるっていうんだ? しかも頂上にはアラクネって化物が待ち構えているんだから、疲労困憊のヘロヘロな状態で辿り着いたんじゃ意味がない。それならいっそ、時間をたっぷりかけて、あの山を登りやすくしちまったほうがいい」
 どこか誇らしげに語るルビニさんを、純白の陽光がまばゆく照らす。
「雪を除けて道をつくり、急な坂道にはロープや手摺りを設置する。途中には山小屋をいくつもこさえて、登山者が食事や仮眠を摂るための休憩所にするんだ。これだけでも危険はグッと減って、登頂率は飛躍的に増えると思うんだが……」
「わたしも、彼の考えに賛同しています」
 村長が穏やかに首肯する。
「元々、わたしたちは新天地を求めて国を発ったのです。できることなら今一度、あなた方と手を取り合い、共に雪山の先へと行ってみたい」
「ってことで、この村の宿泊施設の規模だとか、近場で採れる資源だとか、細かいことをあれこれ聞かせてもらっていたんだ。……いやぁ、しかし、一致団結するってのは良いもんだ」
 そう言って、ルビニさんは照れ臭そうに私から視線を逸らした。
「……おまえの言うとおりだよ。人間ってのは完璧じゃないんだから、一人で意固地になるんじゃなくて、他人と協力してそれぞれの弱さを補い合うべきなんだよな。そう考えると、人間がこんなにたくさん存在している意味が、少しだけわかる気がするよ」
 その晴れやかな笑顔は作り物でなかった。もう、この人は自分を縛りつけていた鎖を完全に断ち切り、敗北感や劣等感を雪の中に捨て去ってきたのだ。
 飾り気のない透き通った微笑みは、私の胸をじんわりと熱くさせる。
「もう個人戦は終わりだ。これからは団体戦になる。この村の人たちや、国に残っている騎士たちをかき集めて、全員でアラクネに立ち向かうんだ。みんなが勝つために」
「そのみんな≠ノは、サフィールやカルネオルも含まれているんですかね?」
 私が意地悪く訊くと、ルビニさんはグッと声を詰まらせたが、
「……そうだよ。あいつらも入ってる」
 拗ねたように口を尖らせ、小声でそれを認めた。
 その子供じみた仕草に、私と村長は同時に噴き出す。
「まったく……しょうがない人ですねぇ、ルビニさんは」
 クスクスと笑いながら、私は自分から彼の指先に触れた。男性にしては繊細すぎる、やや骨ばった細い手。その頼りない指先を守りたくて、両手でそれをしっかりと包み込む。
「その様子じゃ、まだまだ私のサポートが必要みたいですね。いいですよ。その団体戦とやらが終わるまで、あなたが無茶しないようにしっかりと見張っていてあげます」
 恩着せがましく言ってみせると、ルビニさんの顔がパッと華やいだ。
 暖かな太陽に祝福されたその笑顔は、いつだったか、前にどこかで見たような気がする。
(ああ、そっか──この顔は)
 一ヶ月前に城門前で見た、躾のなっていない子犬の顔だ。
 思い出して、私は内心でクスッとほくそ笑む。


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