「……──ということがあっんだ」 僕は校庭の隅にある池の前に屈みながら、昨日体験した出来事を簡潔に語った。 「へえ、それはまあ……大変だったね」 呆れ半分の感嘆は、ぱしゃり、と水面を打つ音と共に聞こえてきた。 「大変なんてもんじゃないさ」 突くように言いながら、僕は池の中を覗き込む。からりと晴れ渡った秋空を映す水鏡は、どこから見ても男子中学生としか思えない僕の顔と、藻と苔だらけの水中を悠々と泳ぐ鯉の群れの両方を抱え込んでいる。 赤と白のまだら模様が優美な魚。その中の一匹が水面から頭を突き出し、まるで餌を求めるようにパクパクと口を開閉させている。そこから流暢な日本語が流れた。 「しかし、まあ──みっくんはお人好しだよね」 「お人好し? 僕が?」 「そうそう」 無邪気にうなずく鯉の背中には、まるで水彩画で描いたような、輪郭のぼけた人面が描かれていた。もちろん人工的に着色されたものではない。本人もとい本魚いわく、生まれつきらしい。 「あ、言ってとくけど、その〈ヨゴレ様〉ってのを助けてあげたことじゃないよ?」 僕たちが九尾と呼ぶその怪魚は、つまらなそうに尾ひれで水面を叩いた。 「せっかくの願い事を、食べられちゃった三人を助けるのに使っちゃうなんて! もったいなさすぎるよ!」 「そんなこと言ったって……そうしなきゃ、その場にいた殿山に何をされてたか」 「あー、トノっちかあ……」 返す言葉を探すように、九尾はぼんやりと空を仰ぐ。水中でしか生きられない魚が、雲一つない快晴を眺めている様には、絵本じみた和やかさが漂っている。 「けどさあ、でもさあ、なんでも叶うのにさあ……」 「その辺にしておきなさいな、九尾」 そこで綾南が嗜めるように割って入った。 「その女の子たちが助かって、彼女たちのご家族やお友達は安心なさっている──誰も泣くことのない日々が訪れたのだから、きっと三成は最良の選択をしたのだわ」 母親然とした調子でそう語るのは、池の中央に据え置かれた岩の上で、のんびりと日向ぼっこしている亀だった。縁日で手に入れたのがそのまま成長したという感じの、一見どこにでもいそうなミドリガメだが、やはりその甲羅には人面めいた模様が浮き出ている。 「ちぇっ、アヤさんも甘ちゃんなんだから」 九尾がもどかしそうに尾ひれをくねらせる。その駄々っ子みたいな仕草に、僕は小さく噴き出した。 「ところで、そのお話は、もう大舞さんと笠置くんにもお話したのかしら?」 「ああ、鳴子と殿山が伝えに行ったよ」 鳴子は桜並木へ、殿山は裏手の記念碑へ、駆けて行くところを目撃したばかりだ。怪談倶楽部の内、自由に移動できるのが三人しかいないため、こうして何か連絡がある際には別行動するのが常だった。 「きっと二人ももったいない!≠チて言うと思うよ?」 「どうだろうな」 人面樹と人面岩に、これといった願い事があるとは考えにくかった。 「ねえねえ、ところでさ。その〈ヨゴレ様〉はまだ校内にいるの?」 「いると言うか、いないと言うか……」 三人の女子生徒を蘇らせてもらった後、少しばかりヨゴレ様と言葉を交わしたところ、普段の彼には肉体≠ニ場所≠フ概念が欠けているらしかった。あの儀式さえ行えばどこにでも出現できるが、そうでないときは現世に存在することさえできないのだと言う。 「だから、もし自分に会いたくなったら儀式で呼び出してくれ──ってさ」 「それって食べられちゃうんじゃないの?」 「いいや、僕たちは例外らしい」 ヨゴレ様はちょっと照れ臭そうにそう笑った。それを聞いて僕は、わりと融通が利く生態なんだなあ、と羨ましがったものだ。僕は無条件で日本刀が現れるというのに。 「へえ、じゃあいつでも会えるんだね」 九尾が軽やかに跳ねた。飛沫が上がり、陽光を受けてキラキラと輝くそれが、綾南の乾いた甲羅を涼しげに濡らす。 「なんだ、九尾はヨゴレ様に会ってみたいのか?」 「うん! だって超がつくほどの珍獣じゃん! 直に見てみたいよ!」 「私も是非、お会いしてみたいわ」 「ふうん?」 二人が楽しそうに言うので、僕はわざと興味なさそうに鼻を鳴らした。 「僕はヨゴレ様なんかより、今はプラナリアを見てみたいけどな」 「プラナリア? なにそれ!」 「すっごく面白い生き物」 僕はククッと喉の奥で笑った。 ふと、穏やかな風に乗って、僕の耳に校舎のチャイムが届いてきた。時間的に、二時間目の授業が終わったところだろう。 (この鐘は誰のために鳴っているのか──) 今日こそ真剣に考えよう。昨日の決意を実現すべく、僕はそっと目を伏せた。
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