……そもそも校舎に居残っている生徒なんていなかったのだろう。そのアナウンスが終わっても人が移動するような物音はなく、喧しいほどの静寂が広がるばかりだった。 それをまっさきに破ったのがヨゴレ様だった。 『な、なんなのだ、貴様……』 ヨゴレ様の身体がぶるっと大きく震える。だが、それは以前のような喜びの表現ではなく、激しい動揺からくるものだということは、調子の乱れた声音から容易に察せられた。 「お互いに大変だよな、条件つきっていうのは」 両手を握りしめ、手の中の硬質の感触を確かめる。それは鳴子の腕よりずっと細いが、密度が高いためずっしりと重かった。温度なんて皆無だ。それは無機な物質でしかない。 「おまえが儀式なしには出現できないように、僕もまた、最終下校時刻を過ぎなきゃ本領を発揮できないんだよ──まったく面倒な制約だよな、お互いに」 演技でない嘆息をついて、両手に携えたその切っ先をヨゴレ様に突きつける。 「生まれつきなんだよ、全部──」 僕という存在を知らない相手に、この状況をどう説明したものかと考えあぐねた結果、結局いつもと同じように生まれつき≠ニいう言葉に頼ることにした。 「僕が外田野中学校の制服を着て、あたかも生徒みたいに校内をうろついているけど、でも実際は生徒名簿に僕の名前なんて載っていない。周りが僕を正式の生徒だと勘違いしているだけで、もう何十年と歳を取ることなく、ずっとこの学校に居座り続けている」 『な、なんだと……?』 「なんでそう≠ネのかはわからないけど、少なくとも、僕が人間じゃないってことだけは確かだ。僕は人間以外の、そうゆう生物なんだろうな」 「そうよ、私たちはそうゆう生物なの」 背後から鳴子が追従してくる。その声音は僕の両肩を抱きしめるように柔らかい。 「私と殿山くんだって似たようなものよ──生徒の外見をした、でも人間じゃない不老の生命体。あいにく、図鑑とかに載ってないから、それぞれのもつ特殊な習性の理由だってわかりようがないの」 『特殊な習性だと……?』 「そう──私の場合、なぜだか年に一度の卒業写真に、こっそり写り込みたくなっちゃうの」 鳴子が悪戯っぽく言う。そこに殿山が「うんうん」と能天気な相槌を打った。 「俺も、図書室で読書している生徒を見ると、なぜか無性に背後からそいつの読んでいる本を音読したくなっちまうもんなあ。ま、生まれつきなんだからしょうがねえけど」 「そうだ、生まれつきなんだよ」 その言葉なくしては自分を語れない苛立たしさに、下唇を強く食む。 「最終下校時刻になると、どうしても居残っているやつを斬り刻みたくなるのも、それをするための武器が勝手に現れるのも──全部全部、生まれつきなんだ。理由だとか原理なんてわかりゃしないんだよ」 言いながら、右腕を横に振ってみせる。 ひゅんっ、と裂けた空気が悲鳴を発した。 それは僕の両手に握られている二本の日本刀が幻なんかでなく、銘はないが、どこの合戦に出しても恥ずかしくない切れ味をもった一品だという証明のつもりだった。たまにいるのだ、この刀を模造刀だとタカを括って歯向かおうとする連中が。 「わかったか? これが〈粛清風紀委員〉の──旧・七不思議の真相だ」 『…………』 ヨゴレ様からの反応はない。それは嵐が通り過ぎるのを待っているようにも、身体を動かす余裕がないほど思考を働かせているようにも……──目の前に立ちはだかった生き物の力量を推し量っているようにも見えた。 「僕を殺すつもりか? それはオススメできないけど」 釘を刺すつまりで忠告し、僕は両腕を左右に振り払った。 すると、緑色の飛沫があたりを舞った。 一拍置いて、鱗だらけの脚が二本、くるくる回りながら宙に投げ出される。 『ギギッ!?』 「喚くな。ちょっと斬っただけだろ」 前足をなくしたヨゴレ様が激しく悶絶する。その震動は床を伝って僕の膝にまで届いたが、身じろぐほどの揺れではない。静止したまま淡々と忠告を続ける。 「この日本刀はイメージに過ぎない。もちろん、これ自体にも殺傷能力はあるけど、僕という生物の本質は斬りたいものを斬れる≠アとにあるんだ。そして斬れないもの≠ヘない。鉄でも鋼でも未知の生物でも、なんだって斬る≠アとができる」 そこで、はあっ、と大仰な溜め息が聞こえた。その息遣いは鳴子のものだった。 「本当にズルイというか規格外よねえ。私たちとは生物のランクが違うわ」 「こうゆうのをチート≠チて言うんだぜ? 知ってたか?」 にやにや笑う殿山を無視して、僕はヨゴレ様に言い聞かせる。 「だから、僕に勝とうなんて思うな。僕はどんな生物だって殺すことができるんだ」 それは経験に基づく知識ではない。人間の赤ん坊が、不快感を他者に伝える方法が大声を上げて泣くことだと生まれながら知っているように、僕は自分に殺せない生物はいない≠ニいうことを本能によって学んでいるのだ。 すると、ようやくヨゴレ様が蚊の鳴くような声を発した。 『……てく……』 「ん? なんだって?」 よく聞き取れず、耳に意識を集中しながら訊き返す。今度は明瞭な音を拾うことができた。 『助けてくれ……どうか殺さないでくれ……死にたくないのだ……助けてくれ……』 繰り返されるそれは、命の懇願だった。 僕とヨゴレ様はまったく異なる生物だが、その言葉に込められた意志の深さだけは理解できる。生き残りたい≠ニいう欲求は生物にとって共通の衝動だ。肉体が、命が、魂が、その願いのためだけに熱く衝き動かされる。 ヨゴレ様が細々と紡ぐ命乞いは、まさに生命の源泉そのものだった。 「…………」 僕は考えなかった。深く考えず、ただ胸の中にある言葉をそのまま口に出した。 「いいだろう、今回ばかりは見逃してやる」 『おおっ! 助けてくれるのか!?』 ヨゴレ様がぶるるっと震える。その醜悪な様相に僕は微笑みながら顎を引く。 「ああ、そうだ──ただし、こちらの願いも聞いてもらうからな?」 『あ……』 ヨゴレ様が「しまった!」という感じに声を詰まらせた。もしも彼が人間であったのなら、自分の発した失言を抑え込むように、両手で口を抑えこんでいただろう。 「僕は殺さないでくれ≠ニいう、おまえの望みを叶えた。だから、今度はおまえが僕の望みを叶えてくれ」 背後では鳴子と殿山が声量を落として、クスクスと笑い合っている。その軽やかなリズムに胸をくすぐられ、僕の片目は、おどけたようにパチンとウインクをしていた。 「そうゆうものなんだろ? 〈ヨゴレ様〉ってやつは」 『…………』 ヨゴレ様はすぐには応えず、ただ唖然とした雰囲気をまとわせながら、僕たち三人を無言で静観した。眼球を出所としない眼差しに込められているのは疑念ではない、人間味に溢れた混乱と戸惑いだった。それは、イジメられっこが転校先でいきなり快く迎え入れてもらえたときに見せる反応と、ひどく酷似している。 僕たちは静かに待った、ヨゴレ様の返答を。それは穏やかなひと時だった。 やがて、切断された前足から体液の流出が止まると、ヨゴレ様はぽつりと呟いた。 『そうだ……オレはそうゆう生き物だ……』 朝露を垂らすような、口の端から笑みを零すような、そうゆう落ち着いた声音だった。 ヨゴレ様はそれ以上の言葉を紡がないかわりに、前足のなくなった身体をぶるぶると小気味よく揺すり続けた。
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