全力で駆け抜ける廊下は、つい数十分前まで悠々と眺めていたものとは、まったくの別物だった。焦燥が風景の輪郭を曖昧に歪め、切迫からくる嘔吐感が色彩感覚を極端に鈍らせる。視界で明滅する灰色に濁った世界は、今だかつて目にしたことのない異界そのものだった。 「はあっ、はあっ──」 追い抜く大気が風となり、早鐘を打つ心臓を冷酷に嬲る。 握りしめた鳴子の手首も疲労に汗ばんでいた。 「はあっ、はあっ──み、三成くんっ……」 華奢な脚が鳴らす足音は不安定だった。足をもつれさせているのだろう。外見どおり、あまり運動神経に恵まれていない鳴子が、今のペースを維持し続けるのは難しそうだ。 しかし、彼女を気遣って速度を緩めるわけにはいかない。 すぐ後ろから、おぞましい高笑いが追随してきているのだから。 『喰わせろ! 喰わせろ! 目玉を喰わせろ脳味噌を喰わせろ頭蓋をしゃぶらせろおっ! 目玉目玉目玉目玉あっ! 目だ耳だ鼻あっ! 目玉目玉目玉目玉を喰わせろおっ!』 ビタビタと粘性を含んだ足踏みが、徐々に徐々に、こちらとの距離を詰めてくる。逃げおおせることはおろか、引き離すことすら叶わない。 (くそっ! どうしたらいい!?) 必死で現状を打破する策を巡らせるが、二回目の角を曲がっても、ついにそれは浮かんでくれなかった。助けを求めようにも、異形のバケモノを打ち倒せる友人など思い当たらない。迫りくる人喰いを退けられる人間なんているはずがない。 (とにかく──とにかく今は逃げ続けるしかない!) 自分の力だけで乗り切るしかないのだと腹を括ると、多大なプレッシャーが重石のようにズンと腹部に圧し掛かった。それに潰されぬようにと、縋る思いで鳴子の手首に力を込める。 その動作が僕の心境を伝えたのだろう。荒い息の中、鳴子が懸命に言葉を紡いだ。 「はあっ、はあっ……だ、大丈夫よ、三成くん……と、とにかく逃げ回れば……」 それは僕の不安を取り除きたい一心から発せられた、深い慈愛の声だった。 僕は深くうなずき、鳴子の腕をさらに引き寄せた。身を寄り添わせて走り続ける。制服越しに熱と恐怖を共有する僕たちは、まるで一個体の生物にでもなったかのように、呼吸を揃えて疾走を続ける。 だが、それでも支離滅裂な脅迫との差は縮まるばかりだ。 『逃げるな逃げろおっ! 逃げて逃げて逃げて喰わせるんだよおっ! 目玉目玉あっ!』 耳を塞ぎたくなるほどの声量は、やつがもう真後ろにまで迫っていることを示唆している。 噴き出るような焦りに駆られ、周囲に視線を払う。何かヨゴレ様を足止めできる道具がないかと探してみたのだ。 けれど、そんな対バケモノ用の武器が、中学校に置いてあるはずがない。 たまたま目に入ったものと言えば、廊下の途中にあった時計くらいだった。僕は腕時計を持っていないので、この苛烈な逃走劇が始まってから、まだたったの五分くらいしか経っていない事実にショックを受けた。 さらに三分ほど経てば最終下校時刻になる。 果たして、その放送が流れるまで、僕たちは生き残っていられるのだろうか。頭の中で反芻する問いには誰も答えてくれない。誰も答えなど与えてくれないし、誰のためにも鐘は鳴ってくれない──……。 疲れ切った意識が、余計なことに気を回したせいだった。 ずっと一定に保っていた速度が、わずかに落ちた──。 そうしようと意識してやったわけじゃない。両脚から活力が、まるで魂が身体から離れるかの如く、ふっと抜け落ちてしまったのだ。 奇妙な浮遊感は一瞬だった。 その一瞬で、最悪の事態が轟音となって頭上に降り注いだ。 『喰われろレロレロレロレロレロレロレロレロォォォ────ッ!』 だんっ、と地を蹴る音が耳を掠めた。 本能の鳴らした警笛のままに、首を上へと持ち上げる。 そこにはヨゴレ様の裏側があった。擦り切れたようなささくれが目立つ、農地に投げ打たれた土嚢にしか見えない、小汚く古ぼけたシルエット。 (こんなものに僕たちは喰われてしまうのか──) 走馬灯のかわりに、虚しい疑問ばかりが頭を過ぎる。 (こいつの口はどこなんだ、牙はあるのか、それとも丸のみなのか、袋の中には消化器官が詰まっているのか、排泄行為はするのか──) ヨゴレ様のつくる影が、僕たちに覆いかぶさる。醜い身体が、僕たちを押し潰す。
しかし、突如、ヨゴレ様の落下する軌道は真横に逸れた。 『グギョオッ!?』 生き物とは思えない奇声を発しながら吹っ飛び、全身を壁に打ちつける。 次いで、ガシャン、と派手な衝撃音が響いた。僕たちの目の前で何かがバウンドする。それは生徒用の机だった。 (なんで──?) なんで教室に整然と並んでいるはずのそれが? という疑問は瞬く間に解消された。 「三成ぃ! 鳴子ぉ! 無事かぁッ!?」 真横の教室から張り裂けんばかりの大声が飛び出す。 僕ははっと気を持ち直して、その方角を振り向いた。 視聴覚室の表札を掲げた教室は扉が開けっ放しになっており、奥には両腕で机を担ぐ殿山の長身が、勇ましいオーラをまとってそびえているではないか。 「殿山っ!?」 「よっしゃあ! まだ生きてんな!」 嬉々と叫んでから、持ち上げていた机を大振りで投げる。それは綺麗な放物線を描き、僕らの真上を通り抜けて、壁にもたれているヨゴレ様に命中した。 『グゲッ!』 痛々しい悲鳴が上がるも、殿山はそんなこと意に介さず次弾の補充にかかっている。 「殿山! なんで──!?」 「なんでここにいる?≠チてことなら簡単さ。あんだけ喧しい足音が鳴ってりゃ、三階にいても気付くに決まってんだろ。なんかヤバイことになってんのかと思って、とりあえずここで張ってたら、そりゃあもうドンピシャだ」 運が良かったな、とウインクを飛ばしてくる。 「そしてなんで危険を顧みず助けに来たんだ?≠チてことなら、もぉっと簡単さ」 一拍置いて、殿山が机を投げる。これもまたヨゴレ様に命中した。 「友達だからに決まってんだろ。そりゃあ命ぐらい賭けちまうわな」 「…………」 飄々とした彼の言葉は、確かな質量をもって僕の体内にじんわりと染み入った。全身の震えが止まる。初めて呼吸したような、喉に詰まっていたコルクが取れたような、心地の良い解放感が目頭を熱くする。 隣の鳴子も、憔悴しきった瞳を潤ませ、静々と涙ぐんでいる。 「ありがとうな、殿山……」 満たされた気持ちのまま、訥々と呟く。 「ありがとうな、本当に助かった。おかげで──もう時間になる」 『時間だと?』 訝しげに訊ねたのはヨゴレ様だった。あれだけ机をぶつけられたにも関わらず、まったく痛苦を感じていないかのように、ゆったりと身を起こしている。どうやら突然の奇襲に驚いただけで、受けたダメージとしてはさほどでもないらしい。 だが、僕たちは誰一人として動じない。 「そうだ、ようやく時間になったんだ」 言いながら、鳴子の手を離す。柔らかな温もりを手放す名残惜しさはあったが、彼女を掴んでいては、あれを握ることが叶わないので仕方がない。僕は鳴子の手を離した。 「僕たちは運が悪かった──遊び半分に〈ヨゴレ様〉を行って、おまえを呼び寄せてしまったのだから。でも、呼び出したのがつい十分くらい前だった」 『だからなんだと言うのだ……』 「僕たちは運が良かったってことさ」 刹那、僕の本能が秒針の刻みを知覚した。 「時間だ──」 短く宣言する。 その一拍後、どこか気の抜けた、吞気に間延びした鐘の音が響き渡った。オーケストラのような重厚さもない、雨水が地を叩くような風情もない。電子化された薄っぺらな鐘の音が、まるで大陸に吹き荒ぶ旋風の如く、校舎全体を隙間なく伝い巡る。 それは──学校のチャイムだった。ただし、一日一回きりの、ちょっと特別な。
《最終下校時刻になりました。校舎に残っている生徒たちは至急下校してください。繰り返します。最終下校時刻になりました。校舎に残っている生徒たちは至急──》
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