声を発した瞬間、教室内が底なしの怖気に震えた。 「な、なんだ──っ!?」 僕は魔法陣から指を離し、すぐさま背後を振り返る。 だが、そこには何もなかった。いや、もっと正確に言えば、年季の入った教卓や文字の消しきれていない黒板があるだけで、一目で悪霊やらバケモノだと認識できるような物体なんて目つかなかった。目につくはずもなかった。先ほど感じた不穏な重圧は単なる錯覚に過ぎず、視界には特筆すべきところのない変哲な日常だけが広がっている。
なんてことはまるでなかった。
その存在は、網膜を飛び越え、直接、僕の脳内に映り込んだ。 それは天井にへばりついていた。 「な、なに……あれ……!」 背後で鳴子が悲鳴に近い声を発した。 たしかに、それは僕たちにとって未知の物体であった。けれど、それの姿を形容するのは一言で事足りる。 手足の生えた、ズタ袋。 ベージュ色の粗い布地は麻に近い。口は荒縄によって乱暴に、しかし決して解けない頑丈に結われている。所々に煤のような汚れがあった。破れ目や穴も目立つ。その穴から、爬虫類を思わせる鱗に覆われた脚が四本、にょっきりと飛び出しているのだ。 手足は粘性が強いのだろうか。天井に貼りついた手足は剥がれない。 「お、おまえ……まさか、おまえがヨゴレ様なのか!?」 僕は反射的に叫んでいた。 「いかにも……」 そのしわがれた、まるで何種類ものノイズを組み合わせて作ったような声が、そのズタ袋の発したものだと悟るのに時間はかからなかった。不協和音としか形容できないその音は、ズタ袋の醜悪な外見にピッタリだったからだ。 「人間はオレをヨゴレ様≠ニ呼ぶ……」 「ゴミ袋みたいな格好をしているからだろ」 へっ、と強気に吐き捨てる。そうやって気丈に振る舞わなければ、この目の前に出現した未知に、僕も鳴子も押し潰されてしまうことは明白だった。 後ろにいるはずの鳴子から反応はない。おそらく、急転直下の事態に直面した混乱と、異形の物体に遭遇した動揺とで、無言のパニックに陥っているのだろう。今にも崩れてしまいかねない、細やかな息遣いだけが耳に届いてくる。 「オレだって、好きでこんな姿をしているわけじゃない……」 ズタ袋改め、ヨゴレ様が声のトーンを落とす。 「生まれつきなんだ……この世に誕生したときから、こんな醜い姿だったのだ……」 深い憂いの込められた口調だった。 だが、同情を寄せる気にはなれなかった。それほどまでに、このヨゴレ様は醜く、下劣で、どうしようもなくおぞましく、それこそ価値のない存在にしか映らないのだ。美しいものを無条件で賞賛する人の心は、その逆に対してどこまでも冷徹になれる。 「おまえは悪霊の集合体なんだってな?」 「知らん……」 端的な返答に嘘は感じられなかった。 「オレは生まれついたときからオレだった……誰かが呪いを行ったときにのみ現れることができる……おそらく、そうゆう生物として生まれついたのだな……」 「じゃあ、呼び出した者の願いを叶えるっていうのは?」 「本当だ……」 ヨゴレ様の一声一声が、あたりの景色をぐにゃりと歪ませる。 「オレはそうゆう生き物なんだ……オレの頼みを聞いてくれた者に対しては、その望みが何であったとしても、絶対に叶える……そうゆうプログラムが本能に埋め込まれているんだ……」 「ふん。バケモノがDNAを語るってわけか」 「オレとて生命体には違いない……裂かれれば痛むし、それが致命傷なら死ぬだろう……」 つまり、こいつの話を鵜呑みにするのであれば、ヨゴレ様の正体とは、儀式によって出現する未確認生物──ということになる。俄かには信じられないが、こうして目の前に実在しているものを否定するのは難しい。 何より、この世界というやつは、山間部の川辺に行くだけで、肉体を細切れにされようとも再生してしまうプラナリアなる生物と対面できるほど、驚きに満ち溢れているのだ。もはや架空のバケモノが実在していたところで、さほど疑うべきではない。 「おまえの同種はいないのか?」 「知らん……が、おそらく存在していないだろう……オレは孤独な唯一種なのだ……」 「人間の言葉はどこで覚えたんだ?」 「知らん……生まれついたときから知っていた……おかげで、こうして人間とコンタクトを取ることができる……」 そのとき、そいつの表面が不自然に波打った。 途端、僕の背中に零度の悪寒がさっと走る。理由はわからなかった。わからずとも不都合はなかった。なぜなら、すぐさまその答えを知ることになるのだから。 「おかげで、オレは喰うものに困らない……こうして興味本位でオレを呼び出してくれる人間が後を絶えないんでな……そうだ、つい先週にも三人ほど喰ってやったよ……」 ヨゴレ様は笑っているのだ。僕たちが喜びを伝えるとき頬を持ち上げて歯を見せるように、この生物は、布を揺らめかせることによって歓喜を表出しているに違いなかった。 よほどご満悦なのだろう。ズタ袋は、まるで中に小動物でも閉じ込めているかのように、ぐにゃぐにゃと忙しなく暴れている。 「おい、その三人って──」 「ああ、おまえたちくらいの大きさで……そこの女と同じ服を着ていたな……」 すっ、とヨゴレ様が前足を持ち上げ、人差し指を向けてきた。鉤のような緑色の爪の生えたそれは、僕を肉体を通り抜け、石膏のように硬直している鳴子を示している。 「……私と同じ制服って──!」 喉から絞り出したという感じに引き攣った鳴子の言葉は、中途半端なところで途切れてしまったが、彼女の言わんとしていることは理解できた。僕は素早くうなずく。 「ああ、こいつが多分、行方不明事件の正体だったんだ」 「本当だったのね、新・七不思議……」 これは僕の想像に過ぎないが、三人の女子生徒は始めこそ身を寄せ合って怪談を巡っていたのだが、次第にそれらが単なる作り話でしかないと判明し、最終的には無警戒に〈ヨゴレ様〉の儀式を実行してしまったのではないだろうか。今の僕たちのように。 「他校から移ってきたっていうのは、餌場を変えたってことなんだな?」 そういう結論に至るのは自然だった。ヨゴレ様が首肯するように身体を揺らす。 「そうだ……オレは儀式をしないと実体化はできないが、普段でも存在はしている……人間の無意識に働きかけ、オレを別の学校に伝えさせるのは難しくない……その点において、七不思議という形はいいカモフラージュにもなった……」 きな臭い噂話をひとつだけ投げ込むより、六つの虚偽の中にひとつの真実を埋没させたほうが人心を騙しやすい、と画策したのだろう。無骨な見た目に反して、このヨゴレ様という生き物はなかなかの老獪だ。 しかし──そんな分析をしている余裕などもはや残されていなかった。〈ヨゴレ様〉について既に鳴子から聞き及んでいた僕には、これから起こる展開は手に取るようにわかったし、こちらの願望の等価として何を要求されるかに関しても、先ほどの発言から容易に見極められる。 ずり、と上履きの底が床を擦る。僕は後ずさりしていた。 僕が引け腰になったと同時に、ヨゴレ様が嘔吐するような苦々しい声音を発する。 「さあ……オレの望みを聞いてくれ……」 鳴子が「ヒッ!」と短い悲鳴を上げた。 僕はヨゴレ様から注意を逸らさぬよう、前を向いたまま後退し、手探りで鳴子の手首を掴んだ。肉づきの薄い、指先が余るほど細い腕が、別の生き物のようにカタカタと小刻みに震えている。 前方で、ヨゴレ様の不気味な四肢が微かに力んだ。 「さあ……おまえたち……オレに喰われてくれええええええええええええええ────っ!」 叫ぶと同時に、天井に貼りついていた肉体が床へと落下する。 だが、その着地よりも早く、僕は鳴子の手を引いて教室から勢いよく飛び出していた。 「鳴子! 走るぞ!」
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