「あら、三成くん。もう終わったの?」 僕が声をかけるよりも先に、人の気配を察知した鳴子が振り返ってきた。 彼女は二年C組のカーテンの裾を持ち上げ、そこに同色の布をあてがっている最中だった。 「それが〈血吸いカーテン〉なのか?」 後ろから覗きこんでみると、カーテンの裾には赤い斑点が飛び散っている。 「たぶん、絵具かペンキが跳ねただけよ。本物の血痕なら、乾いて黒くなっているはずだもの」 「そうだな。で、これをその布で隠蔽するのか」 「そう」 おそらく家庭科室から拝借してきたのだろう。その布地はカーテンの色と実によく馴染んでおり、ぱっと見ただけではツギハギとわからなかった。 鳴子は右手につまんだ針で、それを手際よく縫いつけていく。 「これでよし、と──三成くんの首尾は?」 「上々だ」 僕はニカリと大仰に笑ってみせた。 「焼死者の霊が憑いた火事のときに押しても〈鳴らない警報ベル〉と、やっぱり焼死者の怨念によって火事のときに使おうとしても動かない〈呪われた消火器〉だからな。対処は簡単だったよ」 「どうやったの?」 「どっちにも現在故障中≠チて紙を貼っておいたんだ」 「まあ!」 鳴子が目を細めてケタケタと笑った。 それにつられてか、僕の腹からも自然と笑いが込み上げてくる。 壁の時計は、もうじき最終下校時刻が訪れることを教えており、黒く塗りつぶされた窓も夜の訪れをひっそりと知らせている。 けれど、僕たちの重なった陽気な笑い声は夏の日差しのように明るく、そうした時間の経過のことなんて容易く意識から吹き飛ばし、軽やかなリズムで教室内を彩った。 やがて、ひとしきり笑い続け僕たちは、ごく当たり前のように、その結論へと至った。 「ねえ、殿山くんが戻ってくるまで〈ヨゴレ様〉をやってみない?」 「そうだな。実証して嘘を暴いてやろう」 静けさに支配された放課後の校舎で、学校の怪談を抹消していくという行為は、まだ未成熟な僕たちの精神を異様なほど興奮させていたのだ。どうせなら徹底的にやろう、という密やかな嗜虐心に抗いきれるはずもない。 幸い〈ヨゴレ様〉の段取りは鳴子が知っていた。 「まずね、紙を用意するの」 「これでいいか?」 教卓の中からA4サイズのプリントを無心する。表には保護者向けの連絡事項が書き連ねてあったが、裏はまっさらな白紙だ。 「充分すぎるわ」 鳴子はその紙を机の上に置き、ポケットにしまっていたボールペンでせっせと何か書き込んでいく。手順を知らない僕は、横からその様子を眺めていた。 かかった時間は三分にも満たなかったはずだ。 最終的に、癖の強い丸っこい文字によって書き込まれたのは、菱形に並べられた五十音だった。真ん中には書き間違いのときに用いられる、黒い蓑虫のような殴り書きが据えられている。 「この真ん中のマークがヨゴレ様を表しているのよ」 「ヨゴレ様ってなんなんだ?」 ここまでやっておいて変かもしれないが、僕はそんな基本的な知識すら欠いた状態で、この遊びめいた儀式に挑戦しようとしていたのだ。 この間抜けな発言に、鳴子はちょっと得意そうに頬を赤らめた。 「やだ、本当に何も知らないのね」 艶気のある唇から、ふふっ、と吐息のような笑みが零れる。 「ヨゴレ様はいわゆる悪霊の集合体でね。ヨゴレ様の頼み事を聞いてあげたら、なんでも願いを叶えてくれるんですって」 「悪霊が頼み事? なんだかきな臭いな」 「そこがスリリングで面白いんじゃない」 毎日の平穏を願っている僕にとって、スリルとは避けて通るべき対象である。 だが、ここまで準備を整えてしまったからには後戻りは難しそうだし、何より、今日の僕はかなり昂ぶっていた。なんでも願いを叶えてくれる、という陳腐な言葉すら胸が弾む。 「ねえ、もし本当にヨゴレ様がいたら、三成くんは何をお願いする?」 「そうだなあ……」 言われて、すぐに思い浮かぶような願望はなかった。 強いて挙げるなら──誰がために鐘は鳴るのか、その明確な答えを授けてもらいたい、といったところだろうか。 だが、それを鳴子に話したところで、どうせまた妙な聞き間違いをされるのは火を見るより明らかだった。ここは内密にしておくのが得策だろう。 「言わぬが華、ってやつかな?」 「あっ、ずるーい!」 「そうゆう鳴子は、何か願い事ってあるのか?」 「そうねえ……」 鳴子は軽く目を伏せ、指を顎に当てて黙り込む。黒真珠の瞳は思索の海に浸っていた。華奢なシルエットの影響か、湖面に映った三日月を思わせる佇まいだった。 少女の姿を借りた白月は、その物憂げな眼を僕へと注いだ。 「……三成くんや殿山くん、みんなとずっと一緒にいたいわ」 「なんだよ、それ」 あまりにもささやかで、そしてこの上なくいじらしい願い事は、彼女が無力な女の子であるという実感を僕に突きつけた。 「言ったままよ。こやって、みんなでずっと一緒にいられたら、きっと幸せだろうなって」 「そうゆうのは誰かに願うんじゃない。自分に誓うものだって」 「あっ、今の台詞はちょっとカッコいいかも」 「うるさいなあ、もう」 シリアスな空気を追い払うように、両手をばたつかせてみせると、まるで海中で必死にもがいているようなその仕草に、鳴子は遠慮なくクスクスと笑いだした。 別れや不幸を寄せ付けない、いつもの和やかな雰囲気が舞い戻る。 僕は改めて、鳴子が用意した〈ヨゴレ様〉を呼び出すための用紙に目をやった。 「じゃあ、やってみようか。どうやるんだ?」 「簡単よ。まず、ここに指を置いて……」 鳴子が人差し指を、中央の殴り書きへと乗せる。僕もそれに倣った。 「そうしたら、一緒にこう唱えるの──いらっしゃいませ、ヨゴレ様≠チて」 「ますますコックリさんだな」 視線を交わし、僕たちは息を吸い込んだ。 たったの二人しかいないのだ。声を揃えるのは難しくない。 案の定、僕たちの声は、まるで指揮者にタイミングを示されたかの如く、一秒のズレもなく見事に重なった。
「「いらっしゃいませ、ヨゴレ様=v」
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