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作品名:新旧七不思議合戦! 作者:朧 蝙蝠

第1回   1

 誰がために鐘は鳴る──というアーネスト・ヘミングウェイが書いた小説のタイトルを思い出すたび、その作品に触れたことのない僕は「誰のために鳴るんだろう?」と、さして有意義でない思索に耽ってしまう。
 下駄箱に背をあずけたまま、ぼんやりと中空を眺める。
 誰、とは個人に特定されるのか、それとも集団を指すものなのか。空虚な分析はいつもその時点で行き詰ってしまい、ちっとも解答に近づけない。蛍光灯がチカチカと明滅しているのが目端に映った。なんだか自分の無能を囃されているような気がして、むっと眉根が寄ってしまう。
 不機嫌な眉を指先でほぐし、とりあえず、と僕は内心で息を吐いた。
 とりあえず、帰りのホームルームの終わりを告げる鐘に関しては、小腹を空かした遊びたい盛りの学生を、校舎から解き放つため響き渡るに違いない。鞄を片手に、早々と上履きから外靴へと履き替える生徒たちを見やり、今日のところはそう結論づけておくことにした。それと同時に、明日からはもっと真剣に熟考しようと決意を新たにする。
 つい数分前、生徒たちのために本日の学業終了のチャイムは高らかに鳴り渡った。
 なかば駆け足で下駄箱に押し寄せてきた生徒たちは、授業中では考えられないほど瞳をキラキラと輝かせ、部活動で流す汗や寄り道して頬張るファーストフードの味など、各々の期待に胸を弾ませている。今日、ノートに書き込んだ複雑な数式や偉人の名前なんてものは、とうに忘却の彼方へ投げ打ってしまったのは一目瞭然だった。
 そんな愚鈍なまでに実直な彼らを、僕はとても好ましく思っている。
 だからこそ、無感情な能面を晒して棒立ちしている僕──楠三成を、誰一人として気に留めなくても不快にならないのだ。強がりではない。僕は現状を理性的に受け容れている。
 別に、彼らは悪意をもって僕を無視しているわけではないし、ましてや僕の正体が実体のない亡霊であるなどという三文芝居みたいなオチもない。
 話はもっと単純だ。僕と彼らには違いが少なすぎるのだった。
 仮に、僕が齢百歳を超えた老人であったり、スパンコールやラメをあしらった舞台衣装を羽織っていたりしたのなら、横切る生徒たちは一様に目を強張らせて凝視しただろう。あなたは不審者ですか、と耳打ちする生徒さえいたかもわからない。
 しかし、幸か不幸か、僕の容姿や身長は一般男子中学生の平均から逸脱していないし、着ているのは外田野中学校のまっくろい男子制服だ。中学校の校舎内で佇む男子中学生なんてのは、単なる日常風景に過ぎず、特別に注目すべき存在ではない。
 つまるところ、僕は超がつくほど地味なのだ。
 みんなが僕を素通りするのは、道端の小石にわざわざ手を伸ばさないのと同じで、彼らにとって楠真川という男は風景の一部でしかないのだった。
 それを寂しいとは感じない。彼らと親しくなったところで、どうせ誰がために鐘は鳴るのだろうか?≠ニいう疑問は解消されないのは明白なのだから。
 五分とかからず、欲望と青春の行軍は消え去った。
 瑞々しい喧騒の余韻を引き摺る下駄箱は、いつも以上に閑散とした雰囲気を醸しており、撒き散らされた埃をかぶって萎縮しているように見えた。心なしか、場に立ち込める空気すら、気まずそうに薄まっているような気がする。
 無人の景色は嫌いじゃない。だが、その中に溶け込んで、人生の黄昏に滔々と浸ったフリをするのは悪趣味だと捉えている。
 僕は制服の裾についた埃を手で払ってから、さっと校庭に背を向けて、灰色の階段へ爪先を向けた。こつん、と硬質な足音が廊下に反響する。
 ちらりと時計を一瞥し、二本の針が示す時間にチッと舌打ちをこぼす。
 倶楽部活動の時間が差し迫っていた。まったく興が乗らない僕の気分とは裏腹に。

 放課後の外田野中学校は異界化しており、階段をあがった先には、フィクションの世界でしかお目にかかれないような怪物たちが、その黄ばんだ眼球を貪欲に血走らせていた──なんてことはまるでなく、階段をのぼって右折すると、そこにはいつもどおり二年B組の教室が待ち構えていた。
 取っ手に指先をかけてから、ふっと深呼吸する。
 二年B組は僕が在籍しているクラスではない。
 どうして、余所の教室を訪れるときというのは、こんなにも後ろめたさと緊張で全身が痺れるのだろう? 別に校則で禁じられているわけでもないのに……。
 ふと、張りつめていた神経が微かに緩むのを感じ、その隙を見て、僕は一気に戸を開いた。
 ぴしゃん、と小さな雷鳴のような騒音が鼓膜を打つ。
 開けた視界は思いのほか眩しく、僕はうっと呻いて、反射的に右手で両目を庇った。
 目を細め、ゆっくりと手を除ける。
 瞬間、僕の瞳に飛び込んできた、赤。涙ぐましいまでの赤。
 ガラスを隔てて煌々と輝く夕陽が、整然と並べられた机を茜色に縁取っていた。
 本来、掃除当番が閉めておくはずのカーテンが全開になっている。どうやら今週の当番は大雑把な生徒であるらしい。その推理を裏付けるように、オレンジ色に彩られた黒板には、チョークの消し残しと思しき跡がいくつも見て取れた。
 教室の隅に設けられている金属製の掃除用具入れさえもが、夕焼けを照り返し、金色の光輝を放っている。
 まるで絵画のような色彩の中で、唯一、夕陽の恩恵を享受し損ねた影があった。
 それは、窓際の席に腰を落としている女子生徒だった。
 室内のすべてが柔らかな夕暮れの中でルビーのように煌めいているというのに、そいつだけが強い逆光を受けて、本当は病的なまでに白い肌が仄暗く濁ってしまっていた。紺色のセーラー服は完全な漆黒と化し、腰に垂らす癖のない黒髪はさらに影を帯びて、絶望や失意という単語を連想してしまいそうな不吉な闇色と成り果てている。
 そいつの他に居残りの生徒はいなかった。
 だからだろうか、鮮やかな景観の中で、たった一人、不穏な影を全身に塗り込められたそいつの華奢な体躯は、まるで全世界の災厄を一身に引き受けたかのような痛ましさを漂わせている。ほんのちょっと小突いただけで、ぱたりと息絶えてしまいそうだ。
「鳴子。今日はなんだかオバケみたいだ」
 僕が呼びかけると、ぼんやりと視線を移ろわせていた鏡鳴子が、まるで小動物のようにピクリと微かに両肩を跳ねさせた。そっ、とこちらに首を回してくる。
 くりんと丸い双眸が僕を見とめると、鳴子の表情が安心したかのように和らいだ。
「よかった、三成くんだったのね」
「なに? 顔を合わせたくないやつでもいるのか?」
「なんていうか……最近、ちょっと物騒でしょ?」
 鳴子が困ったように身をよじる。
「それより──三成くん。さっきのはずいぶんと失礼じゃない?」
「さっきのって?」
「今日はなんだかオバケみたいだ=v
 まるで鬼の首でも取ったかのように、ふふん、と得意そうに鼻を鳴らす。
 鳴子の顔は濃い色の陰影で翳っているというのに、その愉快そうにほころぶ唇だけは、仄かに光っているように見えた。
「今日じゃなくても、私はいつだってオバケみたいなんだから」
 あどけない黒目が悪戯っぽい半月を描く。
 こいつが校内でオバケ扱いされているのは、まぁ、コアラがユーカリの葉さえ食べていれば水さえも口にしないで生きていられる、という豆知識と同程度に有名な話だ。つまり、たいした認知度じゃない。十人に訊いて、一人が知っているくらいなものだ。
「あのさ、鳴子。非常に言いづらいんだけど……」
 自分が全生徒から恐れられている悪霊なのだと信じて疑わない鳴子を憐れんで、僕はその真実を伝えてやることにした。
「おまえが思っているほど、みんな、おまえのことを怖がってない」
「うそ!」
 鳴子が両手で口許を覆う。
「だって、今日も一年生の女の子たちが私のことを『不気味だよね』って言っていたわ」
「だから、一部のやつらだけだって」
 やれやれ、と肩を落とし、さらに追い打ちをかける。
「みんな無関心なんだよ。僕もおまえも、この教室の中にある机のひとつ程度にしか思われてないんだって」
 この自意識過剰女め、と舌を出してやると、鳴子は悔しそうに唇をきゅっと結んで、拗ねた子供のように顔を逸らしてしまった。
 その幼気な仕草が微笑ましくて、僕の両頬が自然と緩む。普通の中学生だったら「小学生じゃないんだから」と呆れられる振る舞いをしても、それがまったく見苦しくなく、むしろ不思議と似合って見えてしまうのは鳴子の得なところだ。
「ところで、鳴子。さっき物騒だとかなんとか言ってたけど──」
 僕が話題を切り替えると、鳴子は即座に背けていた小顔を正面に戻す。すぐ機嫌が治るのも鳴子の美点だろう。
「それなら、今日の倶楽部は中止にするか?」
「ダメよ」
 きっぱりと言い切った鳴子の声は、返答というよりも条件反射といったほうがしっくりくる、まるで暗記するまで読み込んだ台本の台詞を発するかのように恬淡としていた。なんの気掛かりもない、といった感じだ。
 心配して損した。
 彼女の身を慮って発言した僕としては、なんだか損した気分である。
 しかし、その涼しげな面持ちを保ったまま、鳴子の口から異常な言葉が飛び出した。
「三成くん。緊急事態よ」
「緊急事態?」
 僕が訊き返すと、鳴子は唇を艶めかしく動かして笑む。
「そう、危機が迫っているの」
 茜色の教室を、薄い影が覆い尽くそうとしていた。
 鳴子から視線を外して外の様子を見やると、ガラス窓の向こう側で鮮やかに発光している夕陽が、いつの間にか無機質なビル群の陰にその半身を沈めている。
 それを見て、僕はようやく今が十月であると思い出した。室内にばかり籠もっていると忘れがちだが、秋口ともなれば陽はあっという間に落ちてしまう。秋の陽はつるべ落とし、というやつだ。
 まもなく闇に閉ざされる空を背景に、鳴子はちっとも危機感を感じさせない優雅な手つきで自分の髪をゆるりと梳きながら、まるで機嫌の良い猫のように目を細めた。
「空前絶後の大ピンチよ、三成くん」
 弦楽器のように上品な声色が、僕の耳に不穏に言葉を流し込む。
「私たち──怪奇倶楽部の愛する外田野中学校の旧・七不思議≠ェ塗り替えられてしまいそうなの」


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